四十二、推しがかき鳴らすその音は、世界を彩る
推桐葵がステージの上に立つ。
別れ際にあったほどではないが、その表情には若干の緊張が見える。
しかしおそらくそれに気づいているのは俺くらいで、ほかの観客である生徒は彼女の立ち姿にすでに目を奪われていた。
もちろん俺もその中の一人である。
会場となる体育館に足を運んだ時すでに、会場にはたくさんの生徒が入っていた。
だから俺は最前列をとることができず、体育館の真ん中のほうから彼女の姿を見ているわけだが、それでもステージの上はよく見える。
凛とした表情で姿勢を伸ばし、ギターを携えて立つ葵。
彼女はゆっくりとステージ上を移動しマイクの前に立つ。
それだけでざわついていた体育館の中は静寂で包まれた。
彼女の仲間であるバンドメンバーもそれぞれの位置に歩いていく。
彼女たちはこのバンド演奏のトップバッターだ。
恐らくほかのバンドに比べてもトップクラスの緊張になっていることだろう。
しかしすでに会場の空気は彼女たちのものだった。
今か今かと演奏を待ち望んでいる空気が体育館全体に充満している。
ステージに立っているわけではないのに、自分自身の鼓動が早まっているのを感じていた。
葵がステージ上で大きく一礼して、そして顔を上げる。
その時一瞬彼女と目が合ったような気がした。
そして彼女は眼を閉じ息を小さく吸う。
その音がマイクに乗った。
その直後にドラムのバスドラムが体育館中に響き始めた。
低い重低音の一定のリズムが、俺の鼓動の速さを整えてくれているようにも思えた。
そしてバズドラムの音でリズムに乗り始めたころ、彼女らの演奏が始まった。
全身が震えた。
葵はまだ歌っていない。目を閉じたままギターをかき鳴らしている。
まだ前奏なのに、腕に鳥肌が立つ。
そして余韻を感じる間もなく、彼女が歌いだす。
済んだ歌声とまとまったバンド演奏が体育館中に響く。
全身でそれを受け止める。
カメラを構えることも忘れていた。
彼女が練習していたときに何度も聞いた曲だ。
歌詞だって覚えてしまうほどに一緒に聞いた。
でも今日聞くそれはとてつもなく新鮮で、圧倒的に衝撃的だった。
ステージはすでに彼女らのものだ。
真剣な表情で、時折笑顔を見せながら彼女は歌い想いを伝える。
その葵の歌声に、雰囲気に会場全体が飲まれている気すらした。
去年も感動した。去年も同じように衝撃を受けた。
でも今年はそれ以上だった。
彼女が必死に練習してきたことを知っているからだろうか。
いくらうまくいかなくても、失敗しても何度も何度も繰り返して練習をしている彼女を見てきただろうか。
気づけば一曲目が終わっていた。
会場全体が大歓声に包まれていた。熱は冷めやまない。
そんな中俺は自分が泣いていることに気づいた。
誰かの曲を聴いて、泣いてしまうなんて初めての経験だった。
でも今はこの涙をぬぐうことさえもったいない。
彼女から目をそらすことがもったいない。
推しは、俺にいろいろな感情を教えてくれる。はじめてをくれる。
葵は少しはにかむように笑うと、二曲目の準備に入る。
次は俺も自然とカメラを構えていた。
二曲目が始まると俺は全身に曲の勢いを浴びながらもそれに負けじと写真を撮った。
とにかく今の推しの姿を一生残せるように、ひたすらに写真を撮った。
周りの目なんて気にならなかった。
今は推しにしか目がいかない。
きっとほかの観客も同じだ。ステージ以外を見ている余裕はない。
そして指がつりそうなほどに写真を撮ったころ、曲が終わった。
彼女の出番はこれで終了だ。
いつまでたっても鳴りやみそうにない拍手が響く。
俺も全力で拍手を送っていた。
感動をくれた感謝と、この本番のために頑張り続けたことを知っているからこそのねぎらいの拍手。
彼女が推しでよかった。
拍手を浴びながらうっすらと汗を見せながらも、満足げな表情でこちらに向かって小さくピースをしてきた。
間違いなく俺の推しは今世界で一番輝いていた。
「まずここの君なんだが、一曲目を経てバンドメンバーと一体になっている。それが素晴らしい圧力を生み出していた。それに見てくれこの笑顔。可愛すぎはしないだろうか。その直後に難しいところが来るから、真剣な顔になっている。それもまた映えている。俺はこの感情をどう表せばいいのかわからない。どうすればこの感動が君に伝わるのか。ああ、こうして言葉でしか君に伝えられないのがもどかしい」
「ストップストップ。わかった。伝わってるから」
バンド演奏終わり、俺は彼女と合流するとすぐに体育館裏へとやってきた。
そして俺が撮った写真を今一緒に撮っている。
直前まで味わっていた感動を、それを味わせてくれた本人にその感動を直接伝えることができる。
こんな光栄なことがほかにあるだろうか。
「それで一体何枚撮ったの?」
「何枚だろうか。一曲目は撮れなかったからな。あ、撮らなかったんじゃなくて撮れなかっただけだ。あまりにも感動してしまって」
「泣いてたもんね」
「ああ、泣いた」
「あら素直に認めちゃった」
「当たり前だ。推しに感動して感極まって泣いてしまうことをどうして隠す必要がある」
「君のそういう素直なところ好きよ」
ステージ上から泣いているところを見られていたらしい。
結構全体が見えるものなんだろうか。
話したいことは尽きない。
「君の今日の感想は今日の残り時間くらいじゃ足りないでしょ?」
「当然だ。二日、いや三日は欲しいところだな」
「じゃあ今は一つだけ聞かせて」
そういい隣に座っていた彼女が立ち上がる。
「あなたの推しはどうだった?」
実にシンプルな問いだった。
俺は今のこの感情をどうやって彼女に伝えるべきだろうか。
「最高だ」
いろいろと考えた結果、語彙力をなくし一番シンプルな回答をしてしまった。
しかしその一言の中にいろいろな感情を込めた。
ちゃんと伝わっているだろうか。
「でしょ」
にこっと恥ずかしそうにしながらも、ステージ上では見せなかった俺だけに向けてくれる笑顔を向けてくれた。
よかった。ちゃんと伝わっている。
今日も俺の彼女は輝いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます