三十九、彼女と本番

「新鮮だねえ」


「そうか? 何度も通ってる道だと思うが」


「私服でこの道を歩いているっていうのが、悠くんと歩いてるっていうのが新鮮なの」


 俺は今推桐と彼女の通学路を一緒に歩いている。

 彼女の言ったデートの本番はその週の土曜日にすぐに実行されることになった。


 前回の早すぎた集合の反省を踏まえて、今日は推桐の家の前の公園を集合場所にしたのだ。

 早速予習の成果が出ている。いいことだ。


「早く着きすぎないようにって言って、わざわざ家まで来てもらったのに集合時間より30分も早く来ちゃったら意味ないんじゃない?」


「君もまさかそんなに早く出てくると思ってなかったんだ」


「君?」


「……推桐も早く来るのは予想外だった」


「だって楽しみだったんだもん」


 顔を背けながら不貞腐れたように言う推桐。


 かわいい。


 ただただ語彙力がなくなるほどにその姿は可愛さに満ち溢れていた。


「……いやほんとに可愛い。ずるくないか、その可愛さは。どうするつもりなんだそんな可愛くて。貢げばいいのか? 今なら銀行強盗だってできそうだ。これ以上ファンにさせてどうする。惚れさせてどうするつもりだ」


「あのー明らかに心の声が漏れ出てますけど」


「……すまん。つい」


 彼女と付き合うようになってからというもの自制できなくなってしまっている。

 ついつい心の声が漏れ出てしまう。


「銀行強盗はしないでね」


「当然だ」


 まあそれでも彼女は嫌そうじゃないし、いいか。



 電車に乗り、そして目的地で降りる。

 駅から出ると推桐は不思議そうに周りを見渡していた。


 この間来た時から、そう日はたっていないから特に以前と変わったところはない。

 何か気になることでもあるのだろうか。


「なんか前来た時と違う感覚。不思議な感じ。君と一緒だからかな?」


「……君?」


「言ってあげませーん」


 照れをごまかすために彼女の真似をしてみたが、推桐は名前を呼んでくれなかった。


 そしてくすくすと楽しげに笑うと俺の一歩前を進み歩き始めてしまう。

 もしかしたら照れていたのがばれていたのかもしれなかった。



 水族館には案の定開園よりもずいぶんと早く着いてしまった。


「何か飲む?」


「そうだな」


 二人で以前も使用した自販機へと向かう。


「コーヒーにしよっかな」


「やめとけ」


「うん、オレンジジュースにする」


 俺はコーヒーを、彼女はオレンジジュースを購入すると依然と同じベンチに座る。


 確かに駅を出た時の彼女の感覚が少しわかったような気がする。

 依然来た時と同じ行動をしているのに感覚が全く違う。


 二人の距離が縮まっているからだろうか。

 俺が推桐のことが好きだからだろうか。


 以前二人で来た時も苦痛な時間はなかったが、今回は以前よりもさらに心地よかった。


 ベンチに座り他愛のない会話をする。

 そうするとあっという間に開園時間になり、俺たちは入場した。


「また来てくれたんですね!」


 チケットを売ってくれたのは、この間と同じお姉さんだった。

 相手も俺たちのことを覚えているようだった。


「カップル割引にしておきますね」


「ありがとうございます」


 今度は忌避感を覚える必要もない。

 正真正銘本物のカップルになったのだから。 


 そんなことを考えながら、推桐のほうを見るとなぜか受け取ったチケットを嬉しそうににこにこと眺めていた。


「お姉さん、雰囲気変わりましたね」


「そ、そうですか?」


 そんな彼女の様子を係員さんも見ていたのか、ふとそんなことを口にした。


「うーん、前来てくださったときも十分可愛かったんですけど、今日はもっと可愛いです!」


「ですよね。わかります」


「さすが彼氏さん、即答! 男らしいですね」


「いえ、事実ですから」


「あ、ありがとうございます」


 突然褒められた推桐は照れながらお礼を言っていた。


 依然来た時は少しこの係員さんに苦手意識を勝手に持っていたが、それは俺のどうやら勘違いだったようだ。

 彼女とはいい同志になれそうだ。


「実は彼女ですね、可愛さだけではなく凛々しさも兼ね備えていてですね。もちろんそれだけが彼女の魅力ではないんですけれども」


「ちょっとちょっと! スイッチ入れないで!」


「なんでだ! せっかくだから係員さんにも君がいかに素晴らしいかということを伝えてもいいじゃないか」


「しなくていいから!」


「ごゆっくりどうぞー」


 顔を真っ赤にした推桐の腕を引っ張られ、強制的に水族館の中へと進んでいく。

 そんな俺たちを係員さんは笑顔で見送ってくれた。

 彼女にはいつの日か必ずわが推しの一押しポイントを伝えることにしよう。



「今日はイルカさんと触れ合うことができまーす。順番にどうぞー」


 一通り水族館内を回り、イルカショーの時間になったためショーの場所に向かうと依然来たときは違うイベントをしていた。

 そんなに並んでいる人もいないため、俺たちも最後尾に並ぶ。


「イルカってどんな感触なのかな」


「どうなんだろうな」


 確かにあまり想像できない。見た目はつるつるしてそうだがどうなんだろうか。

 そんなことを話しているとあっという間に自分たちの番になる。


「ゆっくりと近づいてくださいね」


 一頭のイルカが俺たちの前で尾びれを使ってうまく体を水上に出していた。

 彼女はすでにそのイルカにくぎ付けだ。


 ちなみに俺はイルカにくぎ付けになっている推桐の姿にくぎ付けである。

 彼女がイルカに恐る恐る触れている様子を眺めていると、水面が波たつのが見えた。


 その直後、水上にもう一頭のイルカが姿を現す。

 その姿を見た瞬間に俺は直感した。


 彼は我々の同志だ。

 推しが来ているのだ。その姿を見に来たのだろう。


 そのイルカとふと目が合う。

 俺はねぎらいの意味も込めて、彼に向かってお辞儀をした。


 そして顔を上げるとイルカも俺に向かって、体を器用に折り曲げてくれたように見えた。


「え……すごい。どうやったの?」


「ただ単純に同志へ挨拶をしただけだ」 


「……なるほど」


 驚いたようにこちらを見ていた推桐だったが、俺からの返答を聞くと呆れてしまったのかイルカとの戯れに戻ってしまう。

 そして俺はその直後複数名の係員さんたちに囲まれることとなった。



「やっぱり才能があるんだよ」


「あれは単純に同志だからできることであってだな」


「ふつうはできないの」


 推桐が楽しそうに笑っている。

 俺は何とか係員さんたちからの質問攻めという攻撃から何とか逃れて、少し疲れていた。


 その疲れも今こうして隣で笑っている彼女を見ていると、吹き飛んでしまうから不思議なものだ。


 そして気づけば今日何度目かのクラゲエリアでゆったりと水中を浮遊するクラゲを見上げていた。


「ねえ」


「ん?」


これたね」


 推桐が微笑みながら俺に語り掛けてくる。


「……そうだな」


 君とこうしてまた同じ景色を眺めている日が来るなんて、あの時は考えもしていなかった。


 だからこそあの時は思わず口をついて出た言葉も濁してしまった。

 でもその必要ももうない。


「あ……」


 気づくと俺は推桐の手を握っていた。

 特に理由はなかった。


 なんとなく彼女に触れたくて、だから手を握った。

 彼女の手は暖かくてずっと触れていたいくらい心地よい感覚に包まれた。


「ふふ……」


 推桐は小さく笑うと、そのまま俺の手を握り返してきた。

 そうしながらどこまでも飛んでいきそうなクラゲを二人で見上げて眺めていた。

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