三十八、女性とのお付き合いとは

 気まずい沈黙が流れる。

 二人して口を開こうとはしない。


 彼女のほうを視線を向けると、彼女はうつむいてしまっていた。

 しかしうつむいててもはっきりとわかるほどに、彼女の頬と目は赤くなってしまっている。


 おそらく俺も同じくらい赤くなっているのだろう。


 体はまだ火照ったままだ。

 湿った体操着が体に張り付き、その部分だけは冷たさを感じる。



 あの後彼女は本格的に泣き出してしまった。

 ぼろぼろと涙を流ししまいには声まで上げるほどの大泣きだった。


 どうすればわからず戸惑っている俺の胸に飛び込むように抱き着いてきた彼女は、そのまま泣き続けた。


 あまりにも泣きすぎて力が入らなくなったのか彼女の顔はどんどんとずり下がっていき、俺の上の体操着全体を濡らしていた。


 そしてようやく泣き止んだかと思うと、我に返ったのか彼女はすっと俺から離れて、そして今のこの沈黙となったわけだ。


 正直なんと声をかければいいのかわからない。

 泣かせてしまったことに謝るのは何か違う気がするし、お礼を言うのもそれはそれでどうかと思う。


 そんなことを考えていると何もしゃべれなくなってしまった。

 もちろんさっきまでの余韻が残っていて、とてつもなく恥ずかしくて口を開けないということもあったが。


「さて晴れて両想いになったということですが、これはお付き合いをするということでよろしいのでしょうか?」


 彼女はまるで何事もなかったかのように話し始める。

 時折鼻をすすっているし、目は真っ赤になっているからさっきまで泣いていたことはバレバレなのだが。


 というか俺に抱き着きながら泣いていたのだから、そもそもばれるとかそういった話ではない。


「もう、大丈夫なのか?」


「……何がですか?」


 なぜか敬語のまま、こちらを鋭い目つきでにらみつけてくる。


「さっきあれだけ泣いていたから」


「忘れなさい」


「……ん?」


「忘れなさい。って言ってるの」


 それは無理があるんじゃないだろうか。

 あれほどまでに泣いている彼女は見たことがない。

 そんなこと到底忘れられるわけがない。


「私は泣いてません。いいわね?」


「それは無理があるんじゃないのか?」


「無理も何もないわ。そもそもそんな事実はなかった。そう認識すればいいだけよ」


「でも泣いている君も美しかった」


「そんなわけないでしょうが」


「そんなわけはある。そもそも俺のことを想って泣いてくれていたわけだろう。どうして忘れる必要があるんだ」


「なんで君はあんなことがあった直後に、そんなこっぱずかしいことが言えるわけ!?」


「別に恥ずかしいことではない。ただの事実だ」


 俺にも譲れない一線はある。

 写真等でとっているのなら別にそういうわけではない。


 俺の記憶に、目に焼き付けておくだけだ。

 今日のことを。


 それならば先ほど彼女が泣いていたということも当然記憶しておくべきだろう。


「……はあ。変なところで頑固なんだから」


 彼女の方が折れてくれたようだ。

 ため息をつきながらも、どこか楽しそうに笑っていた。


 そんな彼女の笑顔を見ていると、俺のほうまで笑えてくる。

 さっきまでの気まずい空気はどこにもなかった。


「ごほん。では話を戻します」


 わざとらしく咳払いをした彼女は口を真一文字に引き締め、やはり何事もなかったかのように話し始める。

 俺ももう邪魔をするようなことは言わない。


「私たちは両想いですね?」


「そうだな」


「……へへへ」


 背筋を伸ばし真一文字に引き締めていた口元が一瞬で緩み、ソファにそのままもたれかかってしまう推桐葵。


 少し引いていた頬の赤みがまた赤くなっていた。

 そんな彼女の様子を見ていたらこっちまでまた恥ずかしくなってくる。


「……だめだめ。これじゃいつまでたっても話が進まない。ほら、しゃきっとして!」


「あ、ああ。すまない」


「えー、両想いということはお付き合いをするということでよろしいのでしょうか」


「そ、そういうことでいいんじゃないか。というか俺からもよろしく頼む」


「へ? ……そ、そうよね。……ふへへ」


 あいまいにしてもよくないと思い、こちらから改めてお願いする形で頭を下げるとついさっきしゃきっとしろと言っていた張本人の顔が完全に緩み切っていた。


「……それを確認したかっただけなのか?」


「悠くんとお付き合い……はー、夢かな?」


「……おーい?」


「……はっ! 違う違う、お付き合いは大前提だったけど! そもそもの話、お付き合いって何すればいいんでしょうか」


 夢の世界へとトリップしていたのをごまかすかのようになぜか挙手をして発言する推桐葵。

 今日は初めて見る彼女のオンパレードだ。


「……確かに」 


 俺はだれかとカップルになる、付き合うということをしたことがない。

 それは彼女も同じなようだ。


 確かに付き合うとはいっても、何をすればいいのだろうか。

 世間一般のカップルたちはどういうお付き合いをしているのだろうか。


「じゃ、じゃあとりあえず……ちゅちゅちゅちゅ、ちゅーする!?」


「…………は!?」


「だってお付き合いしたらキスもするんでしょ!? というかキスどころかその先もあるんでしょ!? じゃあ早いに越したことはないでしょ!?」


「おおおお落ち着け、まだ早い。さすがに早すぎるんじゃないか。思考が暴走しているぞ!」


「何よ意気地なし!」


「違う、君の頭の中がまっピンクなだけだ」


「健全この上ない以上にここに極まれりなだけよ!」


 よくわからない言い争いが始まってしまう。

 それにしても俺の意見は間違ってないと思う。


 いきなり付き合って初日でキスなんて、いくらなんでも早すぎるのではないだろうか。


「……ん?」


「どうかしたのか?」


「今、悠くんなんて言った?」


「え、キスはまだ早すぎるということを言ったが」


「そのあと」


「……君の頭の中はまっピンク、か?」


「んんん?」


 大きく首をひねる彼女。

 何かまずかっただろうか。前から言っていることだし、事実だろうから別に言ってもよかったと思っているのだが。


「私は君のこと悠くんって呼んでるのに、君はまだ私のこと『君』て呼ぶの?」


 まさかの指摘だった。

 確かに彼女が気にしている様子はあった。


 俺も気にしていたが、呼び方を変えるタイミングがなかった。……と自分に言い訳をしている。


「君は私のこと名前で呼んでくれないの?」


「今君も俺のこと君って呼んだじゃないか」


「そういう屁理屈は受け付けてませーん」


 いつの間にやら楽しげないたずらっ子な笑みを浮かべながらこちらをちらちらと見つめてくる。


「悠くんに名前呼ばれたいな?……とか言ったりしたりしてみたりして」


 首をかしげながら上目遣いをそんなことを言われる。

 破壊力は抜群だった。


 そのあと自分でやって恥ずかしくなったのか、照れるようにこちらに距離を詰めてくる。


 そこまで含めて完璧だ。

 そんな彼女の姿を見せられたら俺も希望にこたえるしかない。


「あ……」


「あ?」


「あ……あお……」


 なぜだ。なぜ名前を呼ぶだけで、さっきの告白と同じくらい緊張しているんだ。

 どうしてすっと名前が出てこないんだ。


 頭の中では推桐葵、推桐葵とフルネームを連呼していることもあるというのに、どうして言葉がすっと出てこないんだ!


「わかる、わかるよー。頑張って!」


 なぜか応援される。

 しかし彼女に応援されたら頑張るしかない。


「あお……推桐」


「……ビビったね」


 彼女にジト目を向けられる。


「うーん、仮合格で」


「精進します」


 俺は素直に頭を下げるしかなかった。

 まさか名前を口に出すことがこんなに難しいなんて。


 彼女についてファンとして話していたときは簡単に名前も出ていたはずなのに。

 なぜこうも違うのだろうか。


 それでも顔を上げると彼女は嬉しそうににやにやしながら、さらにこちらに距離を縮めていた。

 もう完全に肩はぶつかり合っている。


「……まあこんな感じでもいいんじゃないか。最初は今まで通りで」


「いいの?」


「そのうち、そのうち恋人らしいことをすればいい。焦る必要はない」


「まあ、そうだね。無理してもしょうがないしね」


 何とか話はひと段落したようだ。

 彼女も納得してくれたようだ。


「今まで通り……恋人らしく……そっか!」


 彼女は何かをひらめいたのか勢いよく立ち上がり、そして華麗にターンをして俺のほうに体を向ける。


「デートの本番! しよ!」


 推桐は満面の笑みでそういった。

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