三十七、『推し』を使って逃げるな
「んーー」
彼女はすっきりした表情で大きく伸びをすると、救急箱をもって立ち上がって俺の前から歩いて行った。
俺はその場から動くことができない。
ただ視線だけは彼女のほうに向かってしまう。
彼女は救急箱を元に戻すと、俺のほうに振り向き一瞬動きを止める。
目が合い、不思議そうに首をかしげるとそのまままたこちらに歩いて戻ってきた。
俺はそんなにおかしな顔をしているのだろうか。
彼女はそのまま俺の隣まで来て、そのままソファに座った。
ソファが揺れる。
心臓の鼓動が早くなるのがはっきりとわかる。
今までもこれ以上早くならないのではないかというくらいに鼓動は速まっていたのに、それにもましてさらに早くなっていた。
「じゃあ次は君の番ね」
そういって彼女は意地悪気にこちらに笑みを向けた。
「え?」
「え? じゃないでしょ。どういう意味なの? 『想い人』って」
彼女の頬はまだ赤い。
確かに覚えている。
俺はさっき彼女の目の前でそのようなことを言った。
当然彼女も聞いている。
俺はあの時言った意味をよく考える。
あの時はほとんど無意識だった。彼女が襲われそうになっているのを見てとっさに行動して、口走っていた。
しかし俺ははっきりとさっき自覚した。
俺は彼女のことを愛おしいと思っている。
「俺は、ずっと逃げていたんだ」
「逃げていた?」
「君は、俺にとって『推桐葵』という存在は『推し』だった。俺は君のファンだった。それは揺らぎようのない真実だし、これからだって変わらない。きっと一生変わらないだろう」
いつからだろうか。
『推し』という存在が逃げ道になっていたのは。
彼女と水族館に行った。
その時にはっきりと感じた胸のざわつきを俺は無視した。
相手は推しだからと。推しのためだからと、自分の気持ちを無視した。
きっとあの時からなのだろう。
「俺は『推し』を言い訳にして逃げ続けてきた。意識しないようにしてきた」
でも周りに言われて気づいた。彼女本人に言われて気づかされた。
彼女が危機に陥っているところを見て、ようやく自分の気持ちを自覚した。
「君は君自身の想いを受け止めているというのに、俺は周りに言われてはじめて気づいた。君に一回だけではなく二回も好きだといわれて、初めて自覚した」
「改めて言われると恥ずかしいね」
隣で照れ臭そうに笑いながら、ほてった顔を鎮めようとしているのか手で顔を仰ぐ彼女。
そんな仕草もかわいらしい。
「君はいつだって完璧だ。美しくて、可愛くて、そしてどこまでも輝いている」
「そうかな……」
「君といると周りが色鮮やかに見える時がある」
俺は普通だ。彼女とは違う。
何か特別なことがあったわけでもないし、特別な何かを持っているわけでもない。
そしてそのことに不満を抱いているわけでもない。世界が灰色だったわけでもない。
それでも推桐葵と一緒にいると周りの景色が色鮮やかになったような気がした。
自分の感情が豊かになったような気がした。
彼女は周りを照らす俺にとって眩しすぎる存在だ。
「そんな人を好きになるなんて、いやもともとファンとして好きではあるのだが……恋をするなんておこがましいとスラ思っていたのかもしれない」
どこかで自制していたのかもしれない。
恋をしてはいけないとブレーキをかけていたのかもしれない。無意識のうちに。
しかしそんな必要はないと同志たちが気付かさせてくれた。
「でももうごまかせそうもないし、そんな必要もないと分かった」
「うん……」
自分の体が燃え上がりそうなほどに熱くなっているのがわかる。
あまりにも脈打つ鼓動が早すぎてか、耳の奥がぼーっとする。
でも目の前の彼女の姿は色あせない。
むしろいつもよりもはっきりと映っているようにすら見えた。
彼女と目が合う。
彼女に言われたからではない。同志に諭されたからではない。
きっかけはそうだったかもしれないが、俺の中で抱えきれないほどに膨らんでいるこの想いは紛れもなく本物だ。
「俺は」
口の中が乾く。
自分の言葉が耳に入ってこない。
俺はうまく喋れているだろうか。彼女にちゃんと伝わるだろうか。
「俺は推桐葵のことが好きだ。推しとしてではなく、異性として。一人の女性として推桐葵のことを愛している」
思いを口にした途端、それが体全体に溶け込むように、まるでなじんでいくように、まるで血の気が引いていくような感覚で目の前がクリアになっていく。
そんな視界が広がっていく中、彼女に目を向ける。
「私も大好き。君のこと、愛してる」
満面の笑みでこちらを向き、涙を流す推桐葵。
その姿は今まで見たどんな彼女よりも、美しいとただ単純にそう思った。
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