三十五 推しの家で浴びる暖かい雨

 全身に温かい湯が当たる。湯煙で全身が暖まっていく。


 顔の傷口に湯が当たるたびに、激痛が走るが先ほどまで浴びていた雨に比べれば全然ましだった。


 俺は今推桐葵の自宅でシャワーを浴びている。

 


 膝枕の衝撃で気絶し、目覚めた後玄関に彼女の姿はなかった。


 とりあえずその時は膝枕でまた失神することにならなくてよかったと思わず安堵した。


 しかしそのあとすぐに奥から彼女が現れた。


 湿って少し顔に張り付いている黒髪。

 上気した頬にタオルを押し当てながら歩いてくる彼女。


 つぶらな瞳で一瞬ぽかんとした顔をして見せたが、すぐにその表情は安どの笑みに代わる。


 見慣れているはずの学校の体操着が、自宅の中で見ることでまるで新鮮に見える。


 明らかに推桐葵は風呂上がりだった。


 あまりのインパクトの強さに俺はまた意識を失いそうになった。

 何とかこらえたが。


 その後半ば強制でシャワーを浴びろと言われ、俺は今浴室にいる。


 あのまま帰るといったのだが、彼女は聞いてくれなかった。


 まあ今こうしてシャワーを浴びていると、彼女の好意に感謝しかないのだが。


「さっきまで……」


 推桐葵もここにいたんだよな。

 そんなことを考え、彼女がシャワーを浴びる姿を想像しかけたところで無理やり思考を中断する。


 いつから俺はこんなことを考えるようになってしまったのか。


 よくない。早く出よう。

 俺は彼女に感謝しつつ浴室を出た。


 外にはバスタオルと、なぜか俺の体操着が準備されていた。



「ほええ……」


 風呂場を出るとすぐにリビングにつながっており、ソファに座っていた推桐葵はこちらに目をむけると、なぜか呆けた表情をしていた。


「ど、どうした……?」


「……かっこいい」


「……ん!?」


 気のせいだろうか。

 今気の抜けたような声でとんでもないことを言われたような気がする。


 いやはっきりとは聞こえてはいるのだが、本当に彼女の口から出たものなのか疑わしくなるような内容だった。


 俺の声に驚いたのか、ぽけーとこちらを見つめていた彼女の焦点が定まる。


「あ、ごめんごめん。こっち座って」


 俺は言われるがまま、先ほどまで彼女が座っていたソファーに腰掛ける。


「あ、シャワーありがとう。おかげで風邪をひかなくて済みそうだ」


「それはよかった」


 俺の話を聞いているのか聞いていないのか、適当なような曖昧な返事をした彼女は手に救急箱をもって俺の前に座る。


 そしてその中から消毒液とガーゼを取り出して、ガーゼに消毒液を染み込ませて俺の顔のほうに近づけてくる。


 思わず俺は顔をのけぞってしまった。

 むっとしたような顔を向けてくる彼女。


「逃げないで」


「それくらいは自分でできる」


「いいの。私がしたいだけだから。動かないで」


 そういう言われ方をされたらおとなしく従わざるを得ない。


 俺は黙って彼女が近付けてくるガーゼを受け入れることにした。


「痛そう」


 ガーゼが傷口に当たるたびに、思わず顔をしかめてしまう。

 それと同じタイミングで痛くないはずの彼女も、同じように顔をしかめていた。


 しかし彼女は容赦なくガーゼを押し当ててくる。


「ごめんね、私のせいで」


「君のせいなんかじゃない。俺が勝手にしたことだ」


「でも……」


「俺がしたくてしたことだ。気にするな」


「……ずるいなあ」


 苦笑いを浮かべながらもその手はしっかりと動かし、新しく取り出したガーゼに大量の消毒液をしみこませている。


 俺はそれを見てまた少し顔をそらしたくなった。


「……私ね。君に聞かれた後ずっと考えてたの」


 俺の傷口にガーゼを当てながら彼女が話し始める。

 俺は黙っていた。


「なんで君を好きになったのかって。確かになんでなんだろうって。いつから君を好きだったのかなって、悠くんのこといっぱい考えた」


 顔を真っ赤にしながら、手は動かし話を続ける彼女。


「そしたら見つけたの。多分意識し始めたのは中学一年生の時」


「そんなに前……」


「私君に告白されたと思ってたの。一回あったでしょ? 悠くんが私を呼び出したこと」


 ちょうどさっき気を失っているときに見ていた時のことだろう。


 俺が推桐葵のファンになると宣言した日だ。


「その節は迷惑をかけたな」


「『推し』っていうのが何のことかわからなくて、私はあの時新手の告白を受けたんだと思ってた。それに私はOKするかのような返答をした」


「あれはファンになってもいいかという問いに対しての答えであって」


「そんなの当時の私にはわからないよ。答えた後失敗したなって思ったもん。いるんだよ? 曖昧な返事しちゃうと勘違いしちゃう人。でも君は何もしてこなかった。彼氏面どころか話しかけてさえこなかった」


 確かにあれ以降彼女が『推し』だと認識してからより彼女と話すと緊張してしまって、話しかけることもできなくなってしまっていた。


「変な人だっていうのは小学校の時からわかってたけど、その時から余計に他の人と違うかもって意識するようになったんだと思う。あの時だって君だったから、ああいう返事をしちゃったのかもしれないって今は思う」


 中学一年生のあの時から、俺は彼女を『推し』として、彼女は俺を『異性』として意識し始めた。

 そういうことだろうか。


「君に対する感情を完全に理解したのは、そのあと。中学二年生の時の体育祭の時かな」


「そんなに前から……」


「そ。君が大量の写真を撮った時、私すごい怒ったの覚えてる?」


「ああ」 


 よく覚えている。

 俺は中学二年の体育祭に一眼レフを持っていき、大量の写真を撮った。


 体育祭が終わった後、彼女に残していい写真を聞きにいったときだった。


「私はクラス対抗リレーで大コケをした。アンカーだったのに。みんなから期待されていたのに」


 彼女の言葉を聞きながら、彼女にそっと顔にガーゼを押し当てられる感覚を感じながら当時のことを思い返す。

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