二十八、推しからの告白
長い長い沈黙と重たい空気が部屋の中に満ちていく。
いつの間にかテレビで流していたカンフー映画は終わっていたようで、テレビからもなんの音声も流れてこない。
外ではどこかから帰ってきたのであろうか子供たちの明るい声が聞こえてくる。
そんなどうでもいいような情報ばかりを処理して、肝心の彼女の言葉を処理することができていなかった。
「デートの……デートの予習というのは」
「そんなのただの口実。君と一緒に出かけるためについた嘘」
「でも、どうして……急に」
今まで彼女はそんなそぶりを一切見せてこなかった。
デートの予習という、推桐葵いわくただの口実というのも最近になって出てきたことで、以前は話しをすることさえ珍しい一大イベントだった。
「悠くんが急に変なことを私に言ってくるからでしょ」
「変なこと?」
「屋上で、遺伝子を残すべきだとか、そういうこと言うから、私が行動しなきゃだめだって思ったの」
確かに俺は屋上で推桐葵を見かけた時に、そういうことを言った。
あまりにも彼女が儚く見えたから。今にも消えてしまいそうだったから。
その時に言ったことで彼女が行動しようと思ったのなら、それなら……。
「いつから……どうして俺を……?」
「そんなの……そんなの私にだってわかんないわよ!」
目の前に座っていた推桐葵は突然立ち上がると大声を上げる。
質問をしすぎたからだろうか。
だから彼女は今怒っているのだろうか。
頭の片隅でどこか冷静な自分がいる。それがなぜか腹立たしく思えた。
「好きになるのにそんなに理由が必要? 気づいたら君のことが好きで、君が変なことを言うから、勝手に一人で焦って、自分に自信がないから意味わかんない嘘までついて、君が好きだから、そういうことをしちゃったの!」
一息で言い切ると、呼吸を荒くしながら俺のことを見下ろしてくる。
そんな彼女の頬はいまだに紅く染まったままだった。
それが怒りによってなのか、それとも照れているからなのか俺にはわからない。
「……てっきり気づかれてると思ってた。気づいていてわざとスルーしてるんだって。私のしょうもない嘘に付き合ってくれてるんだと思ってた」
「俺は、まったく……」
そんなこと考えもしなかった。
彼女は俺の推しで、推しが自分のことを異性として好きになるなんて、そんなこと普通考えるはずもない。
「どうでもいいことは覚えてるし、感づくのに、単純な感情には気づかないんだね」
「俺にとってはどうでもいいことじゃない。推しのことなんだ。全部大事なことだ」
「ほら、そういうことにはすぐ言葉が出てくる」
ほぼ反射的に言葉を返していた。
彼女に言われてようやく冷静になってきたのか、今の状況を飲み込むことができてきた。
推桐葵が、中学のころから、いやきっと小学校のころから推しとして見てきた彼女が俺のことを好きだと言っている。
なぜなのかは分からない。どうして俺なのか。
そんなことは俺にわかるはずもなかった。
「君は……」
返すべき言葉を考えているうちに彼女はしゃべり始める。
「君は、私のことどう思ってるの?」
それは率直な質問。
逃げるべきところが見つからない彼女からの素直な疑問だった。
思わず彼女の顔に視線を向ける。
やけに不安げでそれでも上気している顔で、肩で息をしながらこちらを見つめてくる推しの緊張は、容易にこちらまで伝わってきた。
「俺は……」
俺が彼女のことをどう思っているのか。
どう考えているのか。
そんなことは決まっている。
考えなくても答えはすぐに出ている。
「俺は、俺にとって君は推しだ。生涯をかけて応援したいと思える人物で、どんな君を見たとしても可愛いと思うし、美しいと思うだろう。しかしそれは……」
言葉が詰まる。
言いたいことは分かっているのに、伝えたいことは決まっているのに、いざ言葉にしようと思うと胸の奥が締め付けられて言葉が出ない。
呼吸すらうまくできているのか分からないまま、一度閉じてしまった口を再度開く。
「俺は君を推しとして見ているのであって、異性として好きなのかどうかは……今は考えられない。そういう感情を俺は、抱いたことがないから、分からないんだ」
「……そっか」
ようやく絞り出すように紡いだ言葉はやけにたどたどしくて、言った直後にもっと良い言い方はなかったのかと後悔が襲ってくる。
それに対しての彼女の返答は実に簡素なものだった。
「正直……ね、君が私に言ってくれている推しとかそういう感覚全く私にはわからない。ただ悠くんは私のことを本当の意味でちゃんと見てくれてるんだなって、そう思ってた」
彼女の瞳に涙が溜まっていく。
こぼれないようにしているのか彼女の表情はどんどん強張っていっていた。
そんな彼女の表情の変化も、今ははっきりと見て覚えることができる。
「でも君のフィルターでしか私を見てくれてなかったんだね。全部私の勘違いだったみたい」
彼女はそう言い終わると、静かに自分が持っていたバッグを手に持つ。
そして俺から背を向けた。
「……帰るね」
「あ……送る」
「いい」
俺の言葉を遮るようにして、彼女は小さく言葉を発するとそのまま部屋の扉を開けてしまう。
本当にこれでよかったのか。
「あのね、好きな人の名前を呼ぶのってすごく緊張するんだよ。デートの誘いをするのもすごい緊張する。心臓が口から飛び出すんじゃないかってくらい。君に鼓動の音が聞こえるんじゃないかってくらい。……『推し』とか『君』とかじゃなくて、一度くらい悠くんに名前、呼んでほしかったな」
その声はどこまでも弱弱しくて小さい呟きのようで、でもはっきりと俺の耳には届いていた。
「今日だって、こんなつもりじゃなかったのにな……。バイバイ」
震えた声でそう言った彼女はそのまま俺の部屋を出て行った。
俺の方を見ることなく。
その後階下で母と彼女が話しているのが聞こえたが、俺はその場から動くことができなかった。
彼女を追いかければ間に合ったはずなのに。
再び顔を合わせたとしても何かできたかもしれないのに。
俺の足は動こうとしなかった。
ただ彼女が出て行った扉をじっと見つめることしかできなかった。
なぜ俺がショックを受けているのか、それには自分でも理由が分からなかった。
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