十二、推しに近づかれると死にます
推桐葵に引きずられるようにして水槽の中でけだるそうに、いやゆったりと泳いでいる魚を見ていると少しずつ冷静になってきた。
「すまない。少し取り乱していたようだ」
「少し?」
そして冷静になってくると今の状況を理解してきて、意識してなくても自分の片腕に意識が向かってしまう。
「その、落ち着いたからそろそろ腕をだな……」
「離したらまた走り出すんじゃないの?」
「そんなことはしないから……」
どのくらいそうしていたのか。彼女はほとんど全力を使って俺の腕を自らの両腕で押さえつけていたようであまりの力の強さに俺の手は少ししびれてすらいた。
「……わかったわよ。まったく何が不満なのか」
推桐葵はなぜか少し不満そうに俺から腕を離すと、その場に立ち止まり大きく伸びをした。
「いや不満ということは全くないのだが、つまるところ推しが近いというのは俺にとって非常に緊張する状態であって、まともに君と会話できなくなる危険性があってだな。まともに会話できないとデートの予習に来た意味がないというか」
「必死の弁明はいらないから。魚を見る」
「む。それもそうだな」
せっかく水族館に来たというのにちゃんと魚を見ることができていない。
彼女に指摘された通り、視線を目の前の大きな水槽へとむける。
隣でクスッという声が聞こえたので、もう一度彼女のほうに目を向けたが既に彼女の視線も目の前の水槽へとむけられていた。
「あの中は平和そうよね」
「そうだな。世間のしがらみなど一切感じず、自分が思うがままに泳いでいられるんだもんな。ご飯も十分に与えられる。捕食される心配もない」
「そうね。周りの目を心配する必要もない」
「ただ、水槽の中は狭そうだな」
「それはそうかも」
水槽の中を泳ぐ魚たちを眺めながらゆっくりと歩き、のんびりと会話をする。
そんなことを続けているといつの間にかいくつか続いた水槽エリアを通り過ぎ、周りにはクラゲが泳いでいるエリアに移動していた。
「私クラゲ見てるのが一番落ち着くかも」
「ああ、それはなんとなくわかるかもな」
「どうしてかしらね」
「そうだな……。動きがゆったりとしてるからそれを見ていると気持ちが落ち着く脳波でも出てるんじゃないのか」
「何それ。どこかの宗教みたい。クラゲ教? あなたもクラゲを見ると幸せになれるでしょう。みたいな」
「胡散臭く聞こえたか?」
「んーん。悠くんらしくていいんじゃない?」
「俺らしい?」
俺の言っていることは胡散臭いということだろうか。
まあ胡散臭いも何も今言っていることは思いついたことをただ口にしているだけであって何のデータもあるわけではないんだが。
そんな会話をしてクラゲを眺めながらもどうしても時たま彼女の方へと視線がいってしまう。
目の前の縦長の水槽を見上げるようにして眺める彼女の姿は、周りが少し暗くライトアップされていることもあってか、神秘的にすら見える。
学校にいる彼女はいつもどこか張りつめた緊張感のあるそんな雰囲気を持っている。
でも今隣でクラゲを眺めている彼女にはそんな雰囲気はどこにもなく、ただ落ち着いたゆったりとした空気だけが流れている。
そんな彼女も新鮮でまた知らない彼女の一面が見れたような気がして、少しうれしさも感じていた。
「なに?」
しまった。少し長く眺めすぎていたようだ。
気取られてしまったのか推桐葵がこちらへと視線を向けてくる。
「いや邪魔するつもりはなかったんだ」
「別にそんな風には思ってないけど」
「そうか。……一つ提案があるんだが」
「なーに?」
気持ちがリラックスしているのか間延びした返答が返ってくる。
視線はクラゲが泳いでいる水槽に向いたままだ。
「写真を撮ってもいいだろうか」
「んー……」
少し考えるようにそれでものんびりとした声を発しながらも、彼女の視線はクラゲに向いたまま。
本当に落ち着ききっているようだ。
そんな時にこんな提案をしたら迷惑だっただろうか。
そうだとしても、今の彼女を残しておきたいとそう思ってしまったのだ。
「いや」
彼女の返答はノーだった。
しかし返事と同時にこちらに顔を向けた彼女はいたずらっ子のような笑みを浮かべており、返事の内容とは相反するような印象を受けた。
「それにここ写真禁止エリアだし。せっかく割引してもらったのにこれ以上ルールを破るわけにはいかないでしょ」
「確かに書いてるな。気づかなかった。それもそうだな」
「そういうこと。ほら、次ふれあいエリアだって。行ってみよ」
「クラゲはもういいのか?」
「ん。満足。ほら行くよー」
自然な流れで手をつかまれ引っ張られる。
抵抗する間もなく彼女はどんどんと先に進んでいってしまう。
いつも大人ぽい雰囲気を醸し出している彼女だが、今はむしろ子供ぽい印象すら受ける。
なんだか懐かしいようで新鮮な彼女の様子を見ながら、何とか心臓が飛び出ないように必死で彼女についていく。
なんにせよいきなり手をつかむのはやめてほしい。
頭が現実を理解する前に心臓が止まるかと思った。
しかし俺のそんな危機的状況に気づくはずもなく推桐葵はもう俺から手を離し、ヒトデを触るために水槽に手を突っ込んでいた。
今日の彼女は本当に自由奔放なようだ。
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