終章 雪路

嶽下の見張小屋から山道を北山へ向かうと鹿角神社があります。

その南に広がる松林を抜けると東側に桃畑が広がっています。

畑に沿って歩いて行くと幾分風は防げるのですが、時折、西から吹く強い風に煽られると足を踏ん張っていないと立っていられません。


すぐに西慶院があります。

西慶院の南に小屋がありました。

お侍さんが小屋と云っていたので、小屋だと思うのですが。

ただ、小屋と云うには、少し大きく、百姓家と云うには、少し小さな造りです。


小屋の戸口の横に大きな桶があり、続いて薪が積まれていました。

無我夢中で、お侍さんから云われるがまま、ここまで来てしまいました。

落ち着いて考えてみると、いいえ、まだ落ち着いている訳ではありませんが、これは、牢破りになるのではと思いました。

もちろん、おもんは、ご家老の甥殺しについては無実です。

でも、牢破りは紛れもなく大罪です。

どうしょう。


薪の積んである所の壁板の隙間から明かりが漏れています。

誰かいる。

そう思った途端、戸口が開いて、中からお年寄りが出てきました。

「ああ、こっちへどうぞ」

お年寄りは、おもんを小屋の中へ招き入れました。

小屋に入ると広い土間で、戸口の角に水桶と手水鉢があり、棚が続いています。

棚には深葱と牛蒡が笊に盛られています。

棚に向かったお年寄りの肩がゆっくり上下に動いています。

覗いてみると、大根を切っていました。

板間には囲炉裏があり、火が入っています。


「入ります」

先程のお侍さんが声を掛けて小屋に入ってきました。

お侍さんが、おもんの目を見て頷くと、土間の上がり框に藁沓を解いて板間に上がりました。

囲炉裏には鍋が吊るされています。


いつの間に着たのか、お年寄りが蓑傘を付けていました。

お年寄りが、おもんを見て、白い歯を見せ、頭を下げました。

おもんも、釣られてお辞儀をしました。

お年寄りが、お侍さんにお辞儀をして小屋から出て行きました。


「どうぞ」というようにお侍さんがおもんを見て頷いた。

「これに着替えてください」お侍さんが、板間の隅に置いてある風呂敷包みを指して、おもんに云いました。

おもんは、その風呂敷を解いて中を見ると着物でした。

すぐ、着ている白装束を脱ぎました。


「ちょっと待ってください」

おもんが白装束を脱ぎ始めた途端、お侍さんが小屋の外へ出て行きました。

なにか慌てたように、雪の中、裸足で出て行きました。

おもんは、お侍さんがどこへ行ってしまったのかと思い、急いで着替えました。

でも、ちゃんと草履は履きました。お侍さんを探しに外へ出ると、木戸のすぐ横で、空を睨んで立っていました。

でも吹雪しか見えません。

「どうしたのですか?」おもんは尋ねました。

「いえ、貴方が着替えだしたものですから」初めてお侍さんの慌てたような声を聞きました。

「失礼」と云って、お侍さんが小屋に入り板間に上がりました。

お侍さんが何か拾いました。

おもんが小屋に入ると、お侍さんが無言で、おもんに渡しました。

そう言えば、何か床に落ちる音がしました。

急いでいたので確かめませんでした。

着替えている時に落とした物のようです。

受け取ったのは古いお守りです。

どうしたらよいのか迷ったのですが、懐に差し入れました。

「座ってください」お侍さんが云って座りました。

お侍さんが、どこで用意したのか、鴨肉の赤身を鍋に入れて蓋をしました。

囲炉裏の火に温められて寒さは感じなくなってきました。

お年寄りが用意していた葱や茸、豆腐を次々に鍋に入れてまた蓋をしました。

お侍さんが鍋の火加減を見たり、湯気を立てて蓋を開け、具の位置を動かしたりしています。

湯気とともに鴨の良い匂いがしてきました。

おもんは茫然とお侍さんの鍋の支度を見ていました。

「鴨鍋です。お口に合うかどうか分かりませんが、食べましょう」

お侍さんがおもんに鍋を勧めました。

「どういう事なのでしょう?」おもんは、漠然と尋ねました。

「食べながらで申し訳ありませんが、今からお話しします。まず、食べましょう」お侍さんは、鴨の肉を取分けながら云いました。

「私は、南原の西村辰之進と言います」お侍さんが名乗ったのです。


「えっ?あなたが」こちらへ来てから何度も聞いた名前でした。

「あなたが、吉井数馬を殺していないことは、承知しています。もちろん、私が殺したのでもありません。今日の事は正頼様もご存知です」

正頼様とは、百々津藩六代藩主、笹木正頼様のことです。

西村辰之進は、意外な事を語り始めました。


「ただし、罪人は分かっていません」

おもんは、ますます頭の中が混乱しました。

聞いた事のある人物の名前や聞いた事のない人物の名前が出て来るのですが、これもまた早口で、こればかりは良く呑み込めません。


「これから、白亀藩の飯野村の槙田という百姓の所へご案内します。そちらで、ゆっくりしましょう」

鴨鍋を食べ終わると、西村辰之進がこれからの事を説明し始めたのでした。

「それと、そのお守りを見てください」

「中に何か入っているようですが何ですか?」

「開けてみてください」

「貴女のお母さんが、泉屋へ嫁ぐ時に直紀翁から贈られたものだそうです」

「貴女が金毘羅に詣でる時に家中の米原殿へ届けたものです」

「これは米原の家紋が彫られているようですが、指貫ですか」

「長崎から取り寄せたそうです。その幅広いところを平に削って、揚羽蝶を彫らせたそうです。陣屋が完成した折、正頼様から賜られたものだそうです」

「何に使うものですか?」

「指に嵌めるそうです。指輪というそうです」

「貴女が、こちらで嫁ぐ時に家中の米原殿から貴女へ贈ることになっていたそうです」

「ええっ?私、嫁ぐのですか?」

「はい?いえ、ある家へ嫁ぐことになっていたそうです」

「今度の事があったので破談になったのですか?」

「そのようです」

「よかった」

「えっ?」辰之進が驚きました。

「私の知らないところで、どんどん話が進んで!そんなのは嫌です」

「そうですか。飯野村の槙田には、貴女のご両親が来られています。黙っていて、貴女を驚かそうと思ったのですが、はっきりとお伝えしておきます」

「この指輪は、私が、直談判して直紀翁から預かったものです」

「これは、飯野の槙田で貴女のお母様にお返しします」

「その時、改めて、お母様から、お受け取りください」

「分かりました。ただ、どうして、その時に、お母さんから、その指輪をまた受け取るのでしょうか?」

「いや。だからそれは、今、お話ししたとおり」

「その指輪は、私が嫁入りの時に、お母さんから贈られるものだと言いました」

「だから。それは、その」

「また、私に縁談が、あるということですか?今度は、誰の所に嫁ぐことになっているのですか?」

「だからそれは。だから」

「はっきりと、お伝えするって、おっしゃったではありませんか」

「それは、そうなのですが」辰之進は困っています。

「いいでしょう。飯野村へ参ります。行ってお母さんを問い詰めます」

「でも、それは」辰之進は、随分と困っています。

嘘です。お母さんを問い詰めるのは間違いありませんが、お父さんのところへ、どうして嫁いだのか知りたいのです。今のおもんと同じような気持ちだったのかと。でもこれは、言葉にはしませんでした。


おもんは、辰之進に伴われて、白亀藩の飯野村へ向かって歩き始めました。

「ちょっと寄り道します。北山の桃川口に寄ります」

辰之進は、桃川口へ向かって行きました。

畳んだ白装束を北山の桃川口の絶壁に置くと、目を伏せ、手を合わせました。

おもんも辰之進の横で手を合わせました。

道を戻って、また飯野に向かって歩き始めました。


かなり激しい雪になっていたのですが、積もることは無いそうです。

ここは、そういう土地柄なのだそうです。


怖くはありません。

折りがあれば、辰之進をもっと厳しく問い詰めてみようと思っています。

一体、ご家老の甥御さんを殺した張本人は誰なのか考えてみようとも思っています。

そうでないと、おもんがご家老の甥御さんを殺害して、更に牢破りをしたままになってしまいます。

おもんは、辰之進と雪の中を歩き続けました。

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