四章 7.傷口

賑やかな話声が飛び交っている。

花火が打ち上がる。

北山公園の桃の祠から展望広場まで一気に駆け上がった。

沢山の花火見物の人達が、港の夜空を見ている。


こんな人目の多い所では、何も起こらない筈だ。

考える余裕はなかった。

努は、周遊道の北回りで、北展望台へ向かった。


花火が、赤く光って膨らんだ。大きな歓声が上がった。

弥生さんの、須賀さんに殺されるという言葉で、強い使命感が沸き上がった。


そう云えば、その時、大内さんが人影を目撃したのは、北展望台だった。

大内さんが目撃したのは、北崖の坂から転がり落ちた、須賀直道さんなのかもしれない。

寺井親子が、その場を離れた後、他の誰かが坂を下りて行ったのかもしれない。

努は、考える余裕は無いと思いつつ、色んなことを考えながら走っていた。


北展望台に近づいた時、坂の下から声が聞こえる。

脇道から誰か慌てたように上って来る。


眼鏡とカツラで変装しているのだが、紛れもなくフミさんだ。

前のめりになりながら、足を止めた。


「どうなってるん?」状況を知りたかったが、息が切れて、うまく声が出ない。

フミさんは、静かにするようにと、唇の前で人差し指を立てて近づいて来た。

努の腕を掴むと脇道へ連れ込んだ。


「ちょっと。ツトム君」

フミさんは、見えなくなった寺井社長を探していた筈だ。

「寺井さんと、ええっと、女社長の方ね。西瓜を持って事務所へ戻って来たの」

最初の花火が打ち上がって、すぐ西浜郵便局筋の八百屋さんへ行った。

寺井社長は、編籠に西瓜を二玉ぶら下げて、寺井海運へ戻ったそうだ。


フミさんは、寺井海運の事務所の通用口側から、炊事場を覗いた。

寺井社長が、炊事場で水を張った盥に氷を入れて、西瓜を浮かべた。

その時、寺井社長が、何かに気付いたようだ。

食卓を見ている。何かが気になったようだ。

湯呑を持ち、端から紙切れを手にした。

慌てた様子で、すぐに、出て行った。

北山公園の方へ向かって急いだ。


寺井社長は、北山公園の桃の祠へ上った。

桃の祠から、展望広場を横切り、周遊道を北回りで北展望台へ行くと東屋へ入った。

北展望台で、誰かを待っているようだった。


そこへ、大内さんがやって来た。

「藤子さん。どうしたの」

寺井社長は、そう云いかけて、何か気付いたようだ。

「藤子さん。メモを置いたのは藤子さんなの?」

港へ出掛けた時、事務所から最後に出たのは寺井社長だった。

だけど、炊事場から最後に出たのは大内さんだった事を思い出した。

大内さんが、食卓にメモを置いたのだと思ったのだ。


「十一年前の展望台で待つ。とだけしか書かれていないし、何処のとも、何時とも書かれていないから。すぐに来いという事だと思ったの」


十一年前。

「はい。私です。私がメモを書きました」

大内さんに、驚いた様子は無い。

「弥生さんが、教えてくれました」

大内さんが弥生さんから打ち明けられた話を始めた。

「十一年前、美弥さんは須賀直道さんと、ここ、北展望台で会っていました」


あの時、弥生さんが、寺井社長の後を付けていた。

寺井社長と直道さんが、話しをしていた。

寺井社長が、直道さんに虐められているように、弥生さんは思ったのかもしらない。

思わず、弥生さんが、直道さんに飛び付いた。

その拍子に、直道さんは崖から落ちたという事だ。


「美弥さんは須賀さんと、何を揉めていたのですか」

大内さんが尋ねた。

何故、弥生さんは、寺井社長が、虐められていると思ったのかもしれない。

理由は分からなかった。


「満春の治療費を用立ててもらっていたのよ」

しかし、治療の甲斐もなく満春さんは亡くなった。


十一年前の夏、満春さんが亡くなった。

五岳市の国立病院へ入院していたが、満春が自宅に帰ると云い出した。

満春が、回復する見込みは無かった。

寺井に子供は、小学校四年生の満君と一年生の弥生さんの二人だ。

自宅療養に切り替えた。


夏休みに入って、家族四人は、一緒に過ごした。

満春は、十日くらい過ごした朝、亡くなった。

須賀さんの自宅に満春が亡くなった事を連絡した。

須賀直道は、朝早くから、嶽下の沖の養殖場へ出掛けている。

昼食前には、毎日のように、直道は、坂口建設の資材置場の石垣に船を着けている。

坂口社長は、今日、寺井海運へ来る事になっていた。


葬儀に係る手配や手続きをしているうちに昼近くになった。

直道の奥さん、浪江さんは駆け付けてくれている。

坂口社長が、寺井海運に到着した。

坂口社長が寺井海運から会社へ電話をした。

米田さんが電話に出たので、直道へ満春が亡くなったことを伝言を頼んだ。


お昼に、直道さんは、必ず北山公園の登園口近くの食堂に立ち寄る。

寺井社長は、直道さんが、西崖の桟橋に船を着けて、西崖を上り、待避所から、北展望台へ向かう脇道を通る事を知っていた。

寺井社長は北展望台の脇道へ向かった。

北展望台まで来ると直道さんが、ちょうど登って来たそうだ。

寺井社長は、直道さんも、仕事が上手くいかず、苦しい状況だった事を知っていた。


寺井社長は、用立ててもらっているお金が、まだ返済出来ない事を直道さんに詫びていたのだった。


直道さんは、そんな事を云っている場合ではない、と寺井社長を叱ったのだ。

満君や弥生さんの将来の事、今後の仕事の事もある。

今は、満春の葬儀が終わるまで、しっかり、気を持つように、励まされていたのだった。


その時、弥生さんが、直道さんに飛び掛かったのだ。

拍子に、直道さんは北展望台の崖から転落してしまった。

その時、寺井社長は誰かが近づいて来ていたのに気付いた。

弥生さんを抱えるように、急ぎ、その場を後にしたのだった。


努が、弥生さんには、こんな不安があったのだ。


事務所に戻って暫くして、須賀直道さんが亡くなった事を知ったのだった。


不思議だった。

確かに北崖は急な坂だけど下は平地になっている。

だから、怪我くらいはするかもしれないけれど、命を落とす事はないだろう。


ところが、直道さんは、嶽下の崖から転落して亡くなってしまった。

亡くなったのが嶽下の岩場だ。

大勢の海水浴客の目の前で嶽下展望台から落ちた。


「寺井社長が」努が喋ろうとすると「しっ」フミさんが制した。

大内さんと寺井社長が、北展望台の東屋から出て来た。

北展望台の脇道を下りて来た。


慌てた。

北展望台の崖のすぐ下の脇道で二人の話しを聞いていた。

突然、二人が下りて来た。


花火が上がった。

坂の窪んだ繁みに隠れた。


「この辺りでしょうか。直道さんは、ここに落ちて、また西崖へ戻ったのだと思います」

大内さんが努の隠れている目の前で云った。


「でも、どうして」

寺井社長は、そのまま事務所に来れば、安心できると思ったと云った。

「怪我をしていたのかもしれません。一旦、自宅へ戻ろうとしたのだと思います」

須賀直道さんなら、そう考えていたかもしれない。


「そのまま事務所へ来てくれれば」

寺井社長は、事務所で手当させてもらったのにと云った。

「飛び付いたのが弥生さんだと分かって、気を遣ったんだと思います」

大内さんは、優しい直道さんの気持ちを推して云った。


「その須賀直道さんが、ここへ倒れ込んだ時、誰かが見ていたのです」

大内さんは、その誰かを知っているようだ。

「誰か」

寺井社長は、想像できないようだ。

「何を考えたのかは、分かりませんが、美弥さんと弥生さんが、この展望台を離れると、脇道を下りて行ったのです」

努は、大内さんは、その人を知っているのか?

「それじゃあ、藤子さんが見たという人影は」

恐らく、寺井社長も、そう思っている。


「そうだと思います。それで、弥生さんは、は揚羽蝶の指輪をその時に落としたそうです」


「でも、家にあるわよ」

寺井社長は、最近になって、揚羽蝶の指輪の事を尋ねられる事があって探していた。

会社の事務所で、指輪を見付け自宅に持ち帰っている。

「その揚羽蝶の指輪は、大内で持っている指輪です。もしかして、美弥さんは、大内に揚羽蝶の指輪がある事を知っていて、大内に近づいたのではないのですか」

大内さんが、また意外な事を云った。

「えっ?大内さんにもあったの。ごめんなさい。それは知らなかった。私は北展望台で、藤子さんが人影以外に誰かを見て居なかったのか、気掛かりだったの」

弥生さんは、直道さんに飛び付いた時、崖から落とした事を大内さんに打ち明けた。


大内さんの家へ荷物を運び込んだ時、偶然、同じ揚羽蝶の指輪を持っている事が分かった。

大内さんの指輪を弥生さんが無断で持ち出したという事だった。


「私の見た人影が、須賀直道さんの転落死に、関係していると思います。須賀直道さんは、西崖の待避所から、転落。いいえ。突き落されたのだと思います」

「それなら何故、嶽下で」寺井社長には分からない。

「それを今から説明します」

大内さんは、懐中電灯で足元を照らし、寺井社長が後に付いて、脇道を西崖の方へ向かって歩いて行った。


この脇道は、西崖の待避所に通じている。


西崖の桟橋にモーターボートが繋がれている。

「どうしよう」

迷った。

努は懐中電灯を持っていない。

それに、懐中電灯を点けて追い掛けえば、すぐに気付かれる。

「やっぱり。西崖へ走るしかない」

「あの指輪の落とし主は、寺井さんだったのね」

努が、寺井社長に見せてもらった揚羽蝶の指輪は、大内さんの所で持っている、大内家に伝わっている指輪だった。


花火の音が響き、どよめきが広がる。


寺井社長は、責任を感じて、直道さんの奥さんを寺井海運に誘って雇い入れたのだろうか。

努は漠然と、そんな事を考えていた。


須賀さんは、その事を知っているのだろうか。

知っていたら、どういう事になるのだろうか。

「フミさん。寺井海運の事務所へ戻って。弥生さんが危ないかもしれん」

「どうして」

当然だが、フミさんには、理解できない。

「弥生さんひとりや」

「宿直の人は?」

「通用口に、トラックしか無かった。宿直の人が三輪に乗って、何処か行って居らんのやと思う。弥生さん、ひとりや」

「ここに須賀さんが居らん。ちゅう事は、寺井社長を呼び出したんは、須賀さんと違うんや。大内さんやったんや」

「もし、須賀さんが事情を知っとったら…」

須賀さんが誤解して、弥生さんを恨んでいるかもしれない。

弥生さんをひとりにしたのは不味かった。

「フミさん。頼んます」

努は、周遊道を西展望台へ向かって走った。

二人に追い付きたい。

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