四章 3.張込

「こら!誰だ!」小声だが、しかし、はっきりと聞こえた。

「あっ!」吃驚。しまった。見つかった。

思わず、努は声を上げた。

誰かが、努を睨んで立っている。

咄嗟に逃げだした。

「待って!私よ。待って」

女性だ。女性の声だ。

女性は、慌てたように小声で呼び止めた。

努は、足を止めて振り返った。

女性は眼鏡を外した。

髪を掴んで引っ張ると髪が抜けた。

それはそれで怖い。怯んだ。

抜けた髪は、カツラだと分かった。

フミさん。

フミさんが、ここに居る事の方が、大きな驚きだ。

「いきなり逃げ出すのは、臆病過ぎるでしょ」

フミさんは呆れていた。

「ごめんなさい」努は、素直に謝った。


だが、そんな呑気なこと云っている場合では無い。

「フミさん。警察に捕まったんと違うんですか」

警察署で、事情聴取されていた筈だ。

「そう。でも脱獄してきたの。ツトム君。匿ってくれる?」

また冗談を云っている。無罪放免されたのだろう。

「なんで、僕がここに居るんが、分かったんですか」

フミさんと会えてなかったので、寺井海運を見張ることは、伝えていない。

「展望台から、ずっと付けていたんだけど。気付かなかった?」

西展望台から後を付けていたのなら、途中で声を掛けられた筈だ。

「なんで」声を掛けてくれなかったのかと尋ねる前に。

「ツトム君は、どうして、寺井海運を見張っているの?」

努の問いかけを遮って尋ねた。


「揚羽蝶の指輪を持っとる女の子。その写真は、寺井弥生さんと違うんかなあ、と思って」

努は、岡島記者が、少女を探していた事、青木元町長も少女を探していた事をもう一度、説明した。

写真の少女は、揚羽蝶の指輪を持っていたらしい事を説明した。


岡島記者が、嶽下の崖から転落死した時も、青木元町長が殺された時も、坂口社長は、寺井海運のモーターボートを借りて、西崖の桟橋に繋いでいた。

偶然かもしれないが、モーターボートは、何か関係している。

坂口社長が、昨日も大内さんに頼まれてボートを借り、西崖の桟橋に繋いでいる。


「でも、ここには、誰もいないはずよ。宿直の人以外」

フミさんが、意外な事を云った。

「表の屋台のおじさんが、皆で、かき氷食べて、港へ向かったって言ってたわよ」

フミさんは、努が、何故、寺井海運を見張っているのか知らなかっただからだろうか、のんびりと喋っている。

「えっ?本当なん?」拍子抜けだ。

「気が、付かなかったの?」

フミさんが、また呆れた。

「まったく」また叱られるのか。

「ぼぅっとして。鼻の下、延ばしてたんでしょ」

揶揄の言葉だ。

「どういう事?」鼻の下とは?

「弥生さんの浴衣姿でも想像してたんでしょ。もしかしたら、もっと、」

そういう事か。今度は、はっきりと怒気を含んでいる。努を非難する言葉だ。

「落ち着いて。そんな事言ってる場合じゃ無いです」努は宥めた。

「そうだ。会社の玄関の通用口から男の人が入ってすぐ出てったわよ」

フミさんは気付いた。大事な事を云い忘れていた事に。

「えっ?正面玄関の方は、開いとるんな?」

努は唖然とした。

「玄関横の通用口は開いていたわよ」

意外だ。

「えっ。いつ頃、出て行ったん?」失敗続きだ。

「五分くらい前」フミさん。「誰?」被せて質した。

「誰だか知ってたら、そう言うわよ」

そうだ、フミさんに知人は、ほとんど居ない。

「ああ、そうですか」努へ、少し不機嫌に云った。

「ごめん。怒った?」

少し優しい。

「ここで見張ってても、だめや」どうするか。

「そういう事になるわね」

フミさんは深く考えていないようだ。

「何歳くらいの人?」努の知っている人かもしれない。

「四十四か五くらいかな」

フミさんは即答だった。

「えっ」坂口社長か?

「知ってる人?」

全く知らない人だとは思えない。

「うん。多分。フミさん。追っかけて」フミさんが、その男を見付けてくれることを期待した。

「ええっ?私が?」

フミさんは、ますます呆れたようだ。

「そう。フミさんが」

「どうして?」

「僕は、顔、見て無い」

努もまだ、この状況を信じていなかったのかもしれない。

「うら若き乙女よ。見つかったらどうするの」

殴られるくらいの勢いでフミさんが云う。

「大丈夫。フミさんは、足が速いから」つい、軽口を云った。

あれだけの人混みで乱暴な事はしないだろう。

「でも、後で、付け狙われたら、どうするの」

もっともな意見だ。

「それ」

努は、眼鏡とカツラを指さした。

「ツトム君、これ貸してあげる」

フミさんも状況を忘れている。

「そんなこと言ってる場合?」努は、自分にも云い聞かせるように云った。

「でも」

努も状況を忘れかけていた。


「よし分かった。僕が行く。眼鏡とカツラ貸して」仮に、知っている人だとしても、変装すれば、努とは分からないだろう。

「でも、似合わないと思うわよ」

フミさんは、何かを想像して苦笑いしている。

「もう一度言うけど」

今の状況を思い出した。

「分かったわよ。そんな事、言ってる場合じゃないって事でしょ。はい。これ」

フミさんは眼鏡とカツラを差し出した。

「いや。やっぱり、いらない」

眼鏡はともかく、女性用のカツラを被っていたら、それこそ不自然だ。

坂口社長だったとすると危険はないと思った。

「似合わないしね。ツトム君、どうしよう」

もし、危険があるとすれば、寺井社長と弥生さんだ。

大内さんは、何か掴んでいるようだし、危険は無いだろう。

「三人を探す」弥生さんとは、云わなかった。

「男の人は?追い掛けなくっていいの?」

そうだ、三人を追っている男がいる。

「多分、三人の所へ行っているはずや」

寺井海運を訪ねたのなら、必ず三人の所へ向かっている筈だ。


努はフミさんと港へ向かった。

寺井海運のフェリー乗場だろうと当たりを付けていた。

港は沢山の人出だ。

なかなか前へ進めない。

はぐれたら、寺井海運で待ち合わせる事にした。


フェリー乗場で、三人を見つけた。

この人混みだ。気付かれる心配は無い。

すぐ後ろに近づく事もできる。

フミさんは、辺りに事務所から出てきた男は居ないと云う。

用心のため、待合所の建物を挟んで、三人を張り込んだ。


櫓の拡声器から、花火大会の始まる案内放送があった。

花火の協賛会社の社名が呼び上げられた。

花火の案内放送が終わると、小さな光が糸を引いて夜空へ駆け上った。光の糸に風を切る音が続く。

橙色の光の輪が大きく広がる。

続いて、腹に響く音が鳴った。


努は、花火を見ていた。

「ああ。きれい」

隣で、フミさんの声が聞こえた。

フミさんを見た。

真っ直ぐ上に伸びた首。

花火に見入る素直な目。

確かに綺麗だと思った。


ふと気になった。

寺井社長が戻ってこない。

フミさんも気付いたのか、落ち着かなく辺りを見回している。

暫く弥生さんと大内さんだけだった。

「ちょっと探してみる」

フミさんは、寺井社長を探して、堤防沿いに、漁港の方面へ歩き始めた。

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