三章 5.磯陰
フミさんと嶽下へ海水浴に行くことになった。
午前十時に、西浜の漁港で待ち合わせていた。
港からフェリーが出港してしまったので、待ち合わせ時間から一時間経った事になる。
小さく遠ざかったフェリーを眺めていると、オート三輪がゆっくり近づいて来て、努の目の前で停まった。
「ツトム君。乗って」
フミさんが窓から顔を突き出して云った。
「これ、映画館のやな」
見覚えのある、すすけた水色のオート三輪だった。
映画の立看板を電柱や塀に立掛ける時に使っている。
「お昼まで街中をこれで走っていて、今、帰って来たの」
フミさんが云った。
「これに乗って?」努はフミさんが、と不思議に思って確認した。
「そう。看板を立てて回っていたの」
驚いた。
フミさんが看板を立てていたのか。
「フミさんが?」努は聞き直した。
「そうよ」
フミさんが答えた。
「えっ?どうして?」状況が分からなかった。
「嘘よ」
フミさんは時々、真顔で冗談を云って吃驚させることを云う。
「えっ?嘘?」
何故、嘘を吐くのか分からない。
「なかなか帰って来なかったのよ」
努は納得した。
映画館の大島さんがこのオート三輪で、映画の立看板を立てたり回収したりしているのを見たことがある。
「それより、早く乗って」
フミさんが急かす。
努はドアを開けた。
「ちょっと、ちょっと。どこに乗ろうとしてんの」
「えっ?後ろ」努は荷台の方を見た。
「そうよ。後ろに決まってるでしょ」
後ろは荷台になっている。
「幌、付けたままなん?」真夏に?と思った。
「そう。幌を付けたまま。暑いけど我慢してね」
また、無理な事を云う。
「それと、私の荷物。落ちないようにちゃんと見ててよ」
「分かった」見ると、かなり大きな荷物が荷台に積み込まれている。
北山の西崖から霧嶽山の嶽下の崖までが嶽下海水浴場になっている。
西崖から霧嶽山の嶽下展望台を越えて、海岸道路を降り切る。すぐ横を海に向かって折り返すと整地された空地になっている。
その空地に夏場だけ、海の家が設営される。
売られているのは、かき氷やアイスキャンディー、ラムネ、ジュースくらい。
貸しボートやシャワーもある。
フミさんは、シャワー室を借りて水着に着替えてきた。
努は、藪の奥でバスタオルを腰に巻いて、海水パンツに着替えた。
フミさんから二本のラムネを渡された。
「二本も飲めません」
「一本ずつに決まってるでしょ。あの六番のボート曳いて行ってちょうだい」
結局、荷物運びを押し付けられた。
海に迫出した嶽下の僅かな砂浜にボートが繋がれている。
船縁に六と書いてあるボートが一艘あるだけだ。
海岸道を横切って防潮堤を乗り越えると岩場になっている。
もうそこが海だ。
防潮堤を乗り越えて、ボートへ乗り込んだ。
岸の岩場を大きく避けて西崖の洞までボートを漕ぐ。
努は岩場付近で泳いでいた。
フミさんは、一度も海に入らずボートにタオルケットを広げ、その上にバスタオルを敷き、寝そべっていた。
「もう、上がりなさい」
努もボートに乗り込んだ。
二人は膝を抱え向かい合って座った。
広畑川の西に長く続く砂浜は西巌寺海水浴場になっている。
その浜辺には海の家が建ち並んでいる。
海は海水浴を楽しむ人達で賑わっている。
色鮮やかな水着が熱い砂浜を走っている。
いつもの夏の風景だった。
「この嶽下も、その先の砂浜も、あと十年もすれば無くなるのね」
嶽下が無くなるという実感が湧かなかった。
「どうしてここまで埋め立てるんやろ?」
首筋からいくつもの大粒の汗が湧いている。
この嶽下に着いた時に海面に突き出た岩は、洞を隠すように並んだ大岩だけだった。今は洞の砂まで現れている。
「聞いたけどずっと先の事やろ?」
「そう。あまり関心がないのね。自分の町のことなのに」
「漁師さんが、あの嶽下の崖から落ちて亡くなったのよね。覚えてる?」
フミさんが、嶽下の崖を指差して云った。
「知っているんですか」
フミさんは、何度かこの町へ来ている。
「あの時。小学校一年やった。町内会で海水浴に来たんや」
「向こうの西巌寺の海水浴場へ来てたんやけど」
「もしかしたら、青木さんが殺されたんは、そん時の事件と関係あるんやろか。そんな気がする」
不意に、フミさんは、努にキスをした。
考えてみると、映画館以外で話をするのは初めてだった。辺りは、まだ明るい。
フミさんは、岩を見詰めている。フミさんは水着を脱ぎ始めた。腰まで下ろすと、両腕で胸を包むように隠した。
日焼けして、水着の跡が付いていた。
フミさんは、恥ずかしそうに目を伏せている。
努の手を握って頷いた。
努は、生唾を飲み込む音が、大きく聞こえるようだった。
恥ずかしかった。
フミさんの手を握って、膝に降ろした。
フミさんは、努を見詰めて優しくキスをした。
船縁へ並んで座り直した。
フミさんは掌を重ねると、指を絡めて導いた。
フミさんにキスをした。
透明な匂いが流れ込んだ。
努は、フミさんの身体を抱き締めたまま、暫くじっとしていた。
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