三章 2.雌蝶
須賀は、さくら祭の花見当日、東京にいた。
青木の爺さんが亡くなった事を知ったのはさくら祭の翌日だった。
履修科目の登録手続きを終えると、そのまま帰省して、葬儀に参列した。
北山の山道に残る桜の花も、風が吹くと忙しく散っている。
崖の防護工事も終わり、堤防沿いの道路も広くなった。
大内医院を訪問する約束になっていた。
桜並木が途絶えると、すぐ躑躅の生垣に囲まれた古い洋館の大内医院が見える。
大内藤子さんは、この春から白亀の私立中学校へ教師として勤務している。
兄の淳一は、大学病院に勤務していて、今は藤子さんが、一人で住んでいる。
桜だろうか、二片の花弁が、忙しく回転しながら煌めいて漂っている。
蝶だ。
白い蝶は、睦合うように、躑躅の生垣を越えて菜花畑に隠れた。
門柱まで続く躑躅の生垣に沿って歩いていると声が聞こえた。
生垣越しに声を掛けようとすると、弥生さんが見えた。
思わず、しゃがんだ。
生垣に隠れた。
また、弥生さんが訪ねている。
二人は、畑の手入れでもしていたのだろうか。
広い和室の縁側で、鎌や耡の農具を洗って片付けをしていた。
弥生さんが、縁側の隅の籐椅子に腰掛けた。
靴を脱いで手で払うと、黒い塊が落ちた。
土が残っているのか、靴の中を覗き込んで、指先で掻き出した。
ハンカチで拭っている。
藤子さんが、農具を日向に干して弥生さんの前に屈んだ。
弥生さんは足を揃えて藤子さんの膝に乗せた。
「弥生さん。今日は、ありがとう。助かったわ」
タオルで弥生さんの足を拭っている。
「擽ったい」弥生さんは、嬉しそうに云った。
須賀は、どうも、弥生さんに嫌われているように思っている。
声を掛ける機会を失ってしまった。
「藤子先生。私、怖い!」少しも怖そうではやかった。むしろ嬉しそうに云った。
「私も怖いわ。だから、もう終わりにしましょう」
藤子さんは、手足を洗うと縁側に腰掛けた。
「いいえ、違います。先生との事じゃありません」
弥生さんは、藤子さんにキスをした。
須賀は、声を上げそうになった。
「じゃあ、何が怖いの?」「指輪のことです」
「指輪?」
藤子さんは、驚いたようだった。
弥生さんを急かして座敷へ移った。
「あの指輪のことです」
須賀は、動けなかった。
外国映画で見るような挨拶のキスではなかった。
「どういうことなの?指輪って?」
弥生さんを座らせ、隣に正座して尋ねた。
「後で話します」弥生さんは、藤子さんにキスを強請るように唇を突き出している。
須賀は驚いた。
「もう止めましょう」弥生さんの唇を掌で遮っている。
「それじゃ、教えません」甘えるように弥生さんが言うと、藤子さんに跳び付き、抱き締めた。
倒れた藤子さんに弥生さんが圧しかかっている。
「止めて。お願いだから」藤子さんは、身体を屈めて耐えている。
これ以上、見てはいけない。
そう思い須賀は躑躅の生垣から離れようとした。
その時、藤子さんの悲鳴が聞こえた。
弥生さんが、大きく喘ぐような息をして藤子さんに襲い掛かっている。
藤子さんが、逃れようと抵抗している。
「弥生さん。止めて!」
弥生さんが狂ったように藤子さんを襲つている。
藤子さんは、吐息を洩らした。
弥生さんは首を伸ばして藤子さんに唇を重ねている。
「ああ、綺麗。先生、きれい」
一瞬、須賀は、藤子さんと目が合った。
今度こそ、須賀は北山公園へ駆け出した。
弥生さんは狂っていると思った。
また、藤子さんも狂っていると思った。
大内医院の訪問を躊躇った。
藤子さんと弥生さんの異常な関係を見てしまった。
あの時、藤子さんと目が合った。
呼び鈴を押すと、すぐに藤子さんが出て来た。
「遅くなりました」遅れた事を詫びた。
藤子さんは、まっすぐ須賀を見て、招き入れた。
居間に通された。
弥生さんは、居なかった。
「先日は、ありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ、突然押し掛けて申し訳ありませんでした」
「いいえ」
挨拶が終わったが、整理した尋ねる内容を忘れていた。
須賀は、その後の言葉が見付からなかった。
「お話をお聞きする前に、私からお話、よろしいですか」
「はい」何だろう。
「私と弥生さんとの関係。ご覧になりましたでしょ」
藤子さんが突然、切り出した。
須賀は慌てた。
「私は須賀さんを見ました」
藤子さんは冷静に云った。
「ごめんなさい」須賀は謝った。
「話を聞いていただけますか」
藤子さんが悔しそうな表情で云った。何を話そうとしているのか。
「早く気付けばよかったんです」
藤子さんは話し始めた。
小学校六年生の二学期の最初の登校日からだった。
弥生さんが藤子さんの後に付いて登校するようになった。
毎日、同じ時間帯に会うので、一緒に並んで登校するようになった。
何か話をする訳でもなく、なんとなく、目が合うと微笑んだりするだけだった。
土曜日、下校時間が弥生さんと一緒になった。
当時は、寺井海運の事務所の奥が弥生さんの自宅だった。
寺井海運の前で、弥生さんに「じゃあ」と云いかけた時、寺井海運の社長の美弥さんが出て来た。
以前から、寺井海運の美弥さんと挨拶くらいはしていたが親しく話をしたことは無かった。
「おかえりなさい」美弥さんが藤子さんに声をかけた。
「お入りなさい」美弥さんに背中を押されて、半ば強制的に家の中へ招き入れられた。
茶の間に通された。
弥生さんの隣に席を設けられて、正面に美弥さんが座った。
お茶とお菓子をご馳走になった。
帰宅すると、父親に寺井海運の社長さんからお礼の電話があったとの事だった。
その翌日、美弥さんが、藤子さんの家にやって来た。
父親と玄関で出迎えた。
親しい漁師さんから貰ったもので、お裾分けだと云って、大きな手桶を二つ渡された。
お礼を互いに云い交わして、「またね」と云って早々に帰って行った。
手桶には、大きな鯛が入っていた。
それから、親しく行き来するようになっていたのだった。
藤子さんは弥生さんの家庭教師を引き受けていた。
藤子さんが大学二年生の時、父親が亡くなった。
美弥さんに大内兄妹はいろいろと助けてもらった。
兄の淳也は医師になったが、大学病院に勤務していて実家へは帰って来ていない。
藤子さんは、今年、大学を卒業して隣町で私立中学校の教師になった。
弥生さんが、藤子さんに勉強を教わりたいと云うので塾を開く事になった。
いつの間にか弥生さんが土曜日の夜に、藤子さんの家で泊るようになっていた。
近所に住む中学生も藤子さんの塾へ通うようになり、生徒が増えた。
今では長机を三台置いている。
春休み中、弥生さんは藤子さんの家に寝泊まりして勉強をした。
夕食の後、遅くまで、おしゃべりをしていた。
話題が途切れたところで就寝するつもりだった。
突然、「藤子先生が好きです」弥生さんは真剣な表情だった。
狂ったように藤子さんに抱き付いた。
「先生!」最初は、悪戯だと思った。
弥生さんが身体に被さり抱き付いてくる。
本気だと感じて、力一杯、抵抗した。
必死で逃げた。
強引に何度も唇を重ねられ執拗に身体を抱擁された。
放心状態で眠り、目が覚めて藤子さんは動揺した。
弥生さんと、こんな事になってしまった。
腕力で迫られたとは言え、藤子さん自身に隙があったからだ。
その夜以来、弥生さんとの関係に悩んでいる。
聞いていると須賀は、弥生さんに怒りを覚えた。
白い蝶は二匹とも雌だった。
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