一章 5.発熱

映画館から帰った後、咳が止まらなかった。

翌日、起きると咽が痛い。熱を測ると微熱があった。風邪薬を飲んで昼過ぎまで寝ていた。

「遅うまで映画、観とるきんじゃ」

母の小言が始まった。

「あんた。来年受験やで」いつも繰り返される小言だ。

夕方になると薬が効いたのか、熱は平熱に戻ったのだが、鼻水は止まらない。

夕食を済ませて勉強をしていると、また寒気がした。

熱を測ると四十度あった。明日は学校を休むしかない。

風邪をぶり返したのだろうと思い、風邪薬を飲んで寝床で横になっていた。

熱が下がらない。


どれくらい眠っているのか分からない。

意識は朦朧としている。


「ツトム。浜で居れ!」トモ兄ちゃんが怒鳴った。

努は岩にしがみついて突き出た岩を足場に嶽下の岩場へ這うように向かっていた。


その時、鈍い音がした。

女性の悲鳴が聞こえた。トモ兄ちゃんが喚いた。

努はすぐ先を見た。

一瞬、見た。何かが岩場に落ちて岩にぶつかった。

人!人が、崖の上から落ちたのだ。


驚いた。

努は、そのまま海に滑り落ちた。

額を岩にぶつけた。

慌ててもがく。海水を呑み込んでしまった。咽が痛い。足が届かない。海水が咽に流れ込む。慌ててもがいた。

溺れている。

もがいて、海面に顔が出た。岩場が赤く滲んで見える。眉の上から流れる。血が海水に混じって目に沁みる。

女の子が浜に続く岩場にしゃがみ込んでいる。

人が倒れている。

人の頭が、髪の毛だけが見えた。

額を切った。目が痛い。

空が見えた。

大きな塊の影の黒と白が重なって入道雲が見える。

叫んだ。

目が覚めた。

窓の外は薄暗い。朝方なのか夕方なのか分からない。


「おっ、目ぇ覚めたんか」そう云うと、母が食事を用意して二階まで運んで来てくれた。

「昨日は、いちんち、寝とったな。梅本せんせ、やっぱり名医やなあ」

梅本せんせ、とは近所の医院の先生のことだ。

梅本医院の先生に往診してもらった。

昨日とは何曜日なのだろうか?


身体のどこかに炎症を起こしていると云うことだった。

注射を打たれて横になっていたそうだ。

随分と身体が楽になった。体温を測ってみると三十八度二分だった。

身体は、楽になったが、まだ充分、病人としての資格はあった。

暇ができた。

だからと云って勉強するほどの気力はない。

気になるのは、東京の子から押し付けられた指輪のことだった。

熱で眠っていた時に何か良いことを思い付いた。

それが何だったのか思い出せなかった。


何をするでもなく横になって考えていると母が薬と水を運んできた。

「昨日はのう、努が溺れた嶽下で、また事故があってのう。人が亡うなったんや。嶽下の展望台。入れんようにすりゃええのにのう」

だから、昨日とは何曜日だろう?今日は何曜日だろう。


小学校一年生の夏休み。

その日、努は、西通の町内会で西巌寺海水浴場へ出かけた。

貸切りバス二台で出かけた。

従兄の内藤知也と一緒だった。

嶽下の岩場では、海水浴客で賑わっていた。

広畑川を隔てて、霧嶽山の嶽下には嶽下海水浴場がある。


嶽下海水浴場には、トモ兄ちゃんの同級生が来ていた。

トモ兄ちゃんは嶽下海水浴場の方が気になっていたようだ。

何度か橋を渡って嶽下まで行くと、友達とふざけて話をしていた。


トモ兄ちゃんから、来るなと云われていたが、つい嶽下へ向かって行った。

崖に続く岩場をゆっくり這って乗り越えて行った。

岩場は、海面からいくつも岩が突き出ている。

海面の下には岩があるのだが、足が届くかどうかは分からない。

どれだけ深いのか分からない。

海面に突き出た岩に足を掛け、岩にしがみついて進んで行く。

目の隅に砂浜の長く続く西巌寺海水浴場が見えていた。


嶽下の海で溺れた時は、病院の寝台で目が覚めた。

その時も窓の外は薄暗く、朝方なのか夕方なのか分からなかった。

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