第2話 慶応三年のスーパーボール

 往来が多い土の道に、紙袋が落ちている。毛むくじゃらの右手がそれを拾い上げ、左手が袋の口を開く。ボサボサ頭が中を覗き込む。

「玉じゃ」

そしてそれを取り出し日にかざした。

「ええ細工じゃのう、これはまるで……」

男は角度を変えながら、その紺色の球体のなかに漂う星雲を、長い間を眺めていたが、

「まるで薩摩の桜島の噴煙のようじゃ」

と呟くと、また袋に戻し、それを懐に捩じ込むと、さっさと露地裏に消えていった。


 その日の夜遅く、男は河原町の宿に帰ってきた。男は奥の間に声をかけた。

「今、帰ったぜよ」

「お帰りなさいまし、お客さん来てまっせ」

おかみさんが答える。男の顔に緊張が走った。男は脇差のつかに指をかけて、京家の狭い階段を見上げた。二階の座敷から灯りが漏れているのが見えた。

 男は階段の後二段ほど残したところで、脇差の濃口を切った。襖を漏れる光に刀身が光った。そして襖の隙間を伺った。渋地の京小紋が行燈に照らされているのが見えた。彼は刀を納めると襖を開けた。

「おりょうか」

おりょう、と呼ばれた女は、畳に手をついて、体をひねると、

「最近ご無沙汰しとるからな。あんたに新しい女でもできたかと思って、監視にきたんや」

としなをつくった。

「何をいうとるぜよ。最近はずっと越前に出向いてたぜよ」

「ほんまかいな、あんたの越前は、祇園の四条あたりにあるのと、ちがいまっか」

「祇園の四条とは、やけに具体的じゃ」

おりょうは、

「壁に耳あり障子に目ありと言いますさかいにな」

といった。

「ちょっと待て、聞き捨てならんっち」

「聞き捨てならんのは、何か身に覚えがあるからでっしゃろ」

「身に覚えはない。だが聞き捨てならん」

「それは困ったことになり申したなぁ」

おりょうが柳に風で受けるたびに、男はジリジリ追い詰めめられているのを感じた

「誰がそんな噂を立てておる」

「誰でっしゃろ、中岡はんにでも聞いてみたらどないです」

「中岡のやつ……」

男がつぶやくと、おりょうは、

「あれ、祇園四条はほんまのこと、やったんでっか」

「お前、かまをかけたのか」

「あほくさ、もう、ええわ」

「……」

男が口籠ってしまった。おりょうは窮鼠猫を噛むの故事を知り尽くしおり、ここらで話題を変えた。

「越前はどうでしたん」

男はおりょうの助け舟にすぐに乗った。

「寒くてわしには厳しいところぜよ」

「そんな寒いところやったら、さぞや、このおりょうが恋しかったでしゃろなぁ」

「うんうん」

「もう、日が昇ってもおりょう、日が暮れてもおりょう、違いまっか」

「くどいぜよ」

「くどいと言わはりますか。そうすると、たまには祇園四条も思い出してたかもしれへんわ」

「勘弁してくれ」

おりょうはそれを聞いてか、聞かずか、

「越前いいましたら、松平様のお膝元や。それはそれは可憐な文化が花開いたところと聞きますな」

と独り言のように言うと、男はなおも警戒を解かず、

「……」

「きっと、お城下で綺麗な反物を見かけた時には、これをおりょうに着せてやりたいとか、美味しいものを食べたら食べたらで、これをおりょうに食べさせたら、喜ぶやろうと思えてしまって、さぞや切なかったと違いますか」

「……」

「中でも若狭めのうなどは、まことお値打ちもので、その匠の技はここ京の地でも伝えきくことが、おおございますわ」

「……」

「越前の水で磨かれたお姫様の方々が、そんな若狭めのうのカンザシさして、しゃなりしゃなりと城内を歩く姿は、さぞやお美しかったことでっしゃろ」

男は真綿で首を絞められることに、ついに耐えかねたと見えて、

「おりょう、お前一体何が言いたいちゅう……」

と掠れた声を出すと、おりょうは涼しげな目で、その男を鷲掴みにすると、

「そんな美しい飾り物を、ぜひおりょうへのお土産にと、龍馬様もさぞや奔走されたと思いましてな」

と手を出した。


 坂本龍馬は、脂汗をかきながら言葉に窮していたが、神様はどこにでもおられるもので、懐手した右手の指先に、昼間拾った紙袋が音を立てた。

「ある、おりょう、お前に土産物じゃ」

そして、懐から紙袋を取り出すと、袋を傾けて玉を掌に出し、おりょうの前に差し出した。おりょうは、黒眼がちの美しい眼にそれを映しながら、

「綺麗な玉やな。なんやのそれ」

と手を伸ばした。龍馬を玉をサッと引っ込めながら、

「この龍馬様が、おりょうのために、越前中を駆けずり回って、ようやく手に入れたお宝っちゃ。簡単にはやれんぜよ」

と言ったが、おりょうは、龍馬のその動きを上回る俊敏さで球をはたいた。

ポトリ、

畳の上に球が落ちた。おりょうはすかさず球を拾うと、握りしめた手を胸あたりに持っていき、もう一つの手をそれに添えた。はたかれた手をぶらぶら振りながら、龍馬が、

「おまんが本気で剣の稽古をしたら、すぐ免許皆伝になれるぜよ」

と呟いた。おりょうは、蝋燭に球をかざし繁々と眺めた。

「なんという模様やろ、天の川が中に流れているようや」

龍馬もおりょうの肩越しに、それを見ると、

「わしは、桜島の噴煙と思うたぜよ」

と言って、おりょうを後ろから抱きしめた。

「桜島によこたう天の川、やな」

おりょうはなおもうっとりしながらその球を眺めている。そして、慈しむように球体を何度も何度も、細い指で撫でていたが、いきなり頓狂な声で、

「なんやろ、ここ指で撫でると、この小さい柄が変わるわ」

というと、振り向きながら、その部分を龍馬に示した。確かに、おりょうの指の動きに伴って、球体の表面の小さな柄は刻々と変わり、今は「ー3」と表示されている。龍馬はそれをみて、

「これは西洋の数字っちゃ。赤字の三という意味やき」

「赤字ならもう撫でるのやめとこ。これ以上貧乏はごめん被りたいわ」

とおりょうが言った時、まさに貧乏を絵で書いたような隙間風が、蝋燭をパッと揺らし、その中で、球体の星雲が再び煌めいた。

「ほんに、綺麗や」

おりょうが夢見がちにつぶやいた。龍馬は彼女の髪に顔を埋めながら、

「おまんのために、持ってきたぜよ」

「越前からか、遠かったのう」

「おりょうのためじゃ」

おりょうは呟きながら、ゆっくりと目を閉じた。

「嬉しいなぁ、うちのために持ってきてくれたんか」

「そうじゃ、誰にも見せてない、おりょうのためだけじゃ」

「そうか、うちのためだけか、本当か」

「本当ぜよ、まだ居本のお智にも、誰にも見せてない」

「そうか、嬉しいなぁ」

「もちろんっちゃ」

おりょうの目がかっと見開いた。

「お智って、誰や」

と低いドスの聞いた声で言った。龍馬は立ち上がりながら、

「知らん」

「知らんって、あんた、今は居本のお智って言ったやないか」

おりょうは、逃げる龍馬の後ろ髪を掴みこちら振り向かせると、

「どの口が、知らん言うんや」

と龍馬の頬に爪を立てた。さらにおりょうは、戸口に後ずさりする龍馬の顔面めがけて、

「こんなもん、なんや!」

ともらったばかり球を力任せに投げつけた。龍馬は無意識的反射神経でそれをかわした。玉は後ろの柱を強打して、激しくバウンドをすると、発光しながら部屋を横切り、奥の床柱にあたって、そして再びバウンドし、ものすごいスピードで、二人を襲った。

「危ない」

龍馬がおりょうをかばって、体を軌道に差し入れると、その瞬間に重低音を響かせて玉は消滅した。おりょうは、龍馬の肩越しから、おそろおそろ顔を出すと、玉の消失点で緑の蛍光色の波紋が、ゆらゆらと揺れているのを、ぼんやりと眺めた。


 それから三日たった。その日は侘しい雨が降り、夜半になって止んだものの、居座り続ける低気圧がもたらす、底冷えのする寒さは骨身に応え、寒がりの龍馬は、近所から遊びに来ていた菊屋の倅に頼んで、軍鶏鍋の用意をするよう頼んだ。倅が近所を肉を買いに行くと、すぐに階下で物音がした。

「軍鶏だけあって、足が速いぜよ」

龍馬がそういうと、戸口に座っていた、峯吉という小使いの少年が、

「そんなら鍋と炭を借りてきます」

と言って立ち上がり、階下に降りていった。階段を踏み外すような音がしたので、火鉢を挟んで中岡慎太郎と話し込んでいた龍馬は、階下に向かって、

「おおい、ほたえるな」

と叫んだ。中岡もそれを聞いて笑っていたが、階段を忍足で上がってきたのは、峯吉ではなかった。黒装束の武士で、行燈の明かりの中では、何者かはわからなかった。ただ、抜き放った刀身だけがその暗がりで光っていた。その男は半開きだった扉を開け放つと、座敷を大股に横切り、まず中岡の後頭部を一刀の元にかち割った。男はその返す刃を八双に構え、龍馬に正面から対峙した。龍馬は背後の刀に手を伸ばそうとしたが、すでに男の太刀筋に入っており、身動きができなかった。

「どこの者じゃい」

龍馬が怒鳴るのを、男は問答無用で間を詰め、上段から太刀を振り下ろした。

 と、まさにその瞬間、男の眼前に緑の波紋が現れ、その中心に閃光が走ると、重低音とともに、そこからもの凄いスピードで球が飛び出してきた。玉は男の眉間を激しく打った。男は目が眩み龍馬を見失った。龍馬はその隙を見逃さなかった。体を投げ出し、窓際の文机の前に転がり込むと、引き出しから高杉晋作かもらったピストールを抜き出した。そして撃鉄をひくと、男に向かって三発、そして、男の助太刀に参じるために入口に顔を出した、もう一人の黒づくめの男に三発打ち込んだ。そして、龍馬はなおも銃口を入り口に向けたまま、激しく息遣いをしていたが、その後に続く影はなく、夜の帷の中で、静けさが再び河原町を包み、遠くで野良犬の泣く声がした。


 翌年、ある快晴の朝、龍馬はおりょうを連れて、長崎に向かっていた。そこには岩崎弥太郎が、いろは丸賠償金で調達した、新造の蒸気船が二人を待っていた。彼が常々語っていた世界相手に大商売するために、アメリカ国のプレジデントに会いに行く旅に出るためだった。ただし、彼が、本当にプレジデントに会えたかどうかは現在も調査中である。


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スーパーボール・クライシス モトヤス・ナヲ @mac-com

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