六.

 幸いにも、庭を眺めて思案に耽っていた間に、私の勃起はおさまっていました。ひとまず安堵の息をつくと、私は階段を見上げました。二階から人が降りてくる気配はまだありません。私は、脳裏を渦巻く様々の予想を打ち消そうと土間に下りました。ここの台所は私も使ったことがありましたし、茶でも淹れて、どちらかが降りてきたら先のことなどなかったように昨日の続きを話そうと、そう決めてやかんに水を汲み、かまどに火を入れました。私はやかんを火にかけると、湯のみと急須と茶葉を探して戸棚を開けました。


 そこで私は、この家は異質であると認めざるを得ない決定的な証拠を見つけてしまったのです。


 戸棚の中は、見事に埃を被っていました。湯のみと急須だけが綺麗に洗われていて、あとの食器は全て厚い埃で覆われています。棚の隅には蜘蛛が巣まで作っていて、それもとっくに千切れて半透明の細い糸がふわふわと漂うばかりになっています。巣の真下の皿を退けると、小さな蜘蛛が腹を上にして埃に埋もれていました。

 食器の入った棚を閉め、隣の扉を開けると、そこには調味料のものと思しき壺がいくつか並んでいました。どの壺にも、食器と同じように埃が積もっています。私はそのうちの一つを取って蓋を開けてみました。そこに入っていたのは醤油でした。私は匂いを嗅いでみましたが、特に違和感は覚えませんでした——ですが、先の蜘蛛のことを思うと、私はとても安心する気にはなれませんでした。私は他の壺も開けてみましたが、どれも腐ってはおらず、一応まだ使うことはできそうでした。ですがどうにも薄気味悪くて、私はそそくさとその棚を閉めました。嫌な胸騒ぎがしました。私は台所中の棚や壺、蓋や扉のあるものを全て開けて回りました。ある棚には菓子の残骸、ある壺には使われていない大量の米、別の場所にはびっしり黴に覆われた野菜と思しき物体が、どれも埃や蜘蛛の巣にまみれて置いてありました。唯一正常だったのは茶葉の入った筒でしたが、私にはその茶葉も忌まわしいものに思われました。

 私は、最後にかまどの上に鎮座する鍋に目を向けました。昨日、北村君が家を出る前に雑炊を作ってあると言っていた鍋です。私は恐る恐る鍋の蓋をつまむと、目を閉じて一息に蓋を取り払いました。何の異臭もしないのにそろそろと目を開けて鍋の中を覗き込むと、そこにはすっかり水気のなくなった残飯が鍋底にこびりついているだけでした。


 私はすっかり怖気づいて、階段の方を見上げました。まだ人の降りてくる気配はなく、今のうちに抜け出せば、この異常な空間から蒼翅君を救い出す算段も付くかもしれません——しかし、そう考える一方で、私はもう手遅れなのではないかという絶望も感じていました。埃に覆われた台所のそこかしこから干乾びた食べ物が出てくるというのはどう考えても尋常ではありません。この家の台所は、最低限の家事をしていないとか、そういう次元では語れない有様だったのです。

 私がぐずぐず迷っていると、やかんがけたたましい音を立てました。私が我に返ると同時に、二階から足音が聞こえてきました。私は頭が真っ白になりました。足音は階段を一段一段踏みしめて、私のいる一階へと着実に近づいています。私はまたも身動きができずに、じっと立ち尽くして階段から続く廊下を凝視していました。


「ここにおられたんですね。小暮さん」

 静かな声とともに、白いシャツの上にぶかぶかの袢纏を着た硝子細工のような細身の青年が茶の間に姿を現しました。私は咄嗟に一歩後退りました——そしてその拍子にやかんに左の手のひらを押し当ててしまいました。私は痛みに叫び、飛び上がってかまどから離れました。

「大丈夫ですか!?」

 背後でしたのは、北村君の声でした。私はくるりと振り向くと、馬鹿の一つ覚えのように再び飛びのきました。

 しかし、北村君は、私の怯えようにかえって吃驚したようでした。つられてびくりと後ずさった北村君はちゃぶ台にぶつかり、ちゃぶ台ごとバランスを崩して転んでしまいました。

「大丈夫かい、北村君!?」

 今度は私が驚き心配する方でした。北村君は尻をさすりながら起き上がると、すみませんと言いながらちゃぶ台をもとに戻しました。それから私に向き直ると、

「僕は平気です。それより小暮さん、手が……」

 北村君は私の左手を指さしました。私の手のひらには大きな火傷ができていました。北村君は急いで水を用意し、私の手をそこに浸させました。

「どうしましょう、僕が驚かせたばっかりに……お医者様を呼びますか? ああ、そうだ、たしかここに薬が」

 北村君はおろおろと、茶の間の隅の引き出しを漁り始めました。ですが、私はしばらく冷やせば大丈夫だと言って、彼の手当てを拒みました。あの台所を見たあとではこの家の薬がどのような有様になっているか考えるだに恐ろしく、とても好意に甘える気にはなれませんでした。北村君はすぐに引き出しを仕舞いましたが、まだ動揺が隠せない様子です。そうだ、と思い立ったように呟くと、

「お茶でも淹れましょうか。小暮さんも、淹れようとしていたんでしょう?」

 と言って茶の間を出ていきかけました。

「いや、お茶はもういい」

 私は答えると、代わりにあることを尋ねました。

「それよりも、そこの雑炊の鍋は、一体いつから置いてあるのだね?」

 北村君はぴたりと動きを止めました。

「……昨日、小暮さんが来られる前に作ったんです。昨日は疲れていて、片付けずに眠ってしまったんですよ。起きたら片付けようと思っていたんですが、碧花先生にお相手を頼まれてしまって。そのことは小暮さんもご存知でしょう?」

 北村君は人形のような笑みを顔に貼りつけて答えました。

「なら、台所のものが全部干乾びて埃にまみれているのは、どういうことなのかね? 昨日料理をしたにしては使えそうな食材は見当たらないし、何より茶碗も他の食器も長いこと使われていないようじゃないか。ねえ、北村君。私は昨日蒼翅君に会いに来たと言ったが、本当は君の様子も見ていたんだよ。皆、君がどこに行ったのか心配している。ここ三か月ほどずっと、ルミヱールにも行っていないそうじゃないか」

 私がそう告げると、北村君の顔から笑みが消えました。私は続けて言いました。

「ねえ、北村君。君は昨日、夕方の五時に家を出たけれど、一体どこに行っていたんだい?」

 北村君は顔を伏せて、震える息を吐きました。何か言いたげに、芸術品のようなまつ毛がかすかに揺れます。

「私は、何も君を責めているわけじゃないんだ。ただ、本当のことが知りたいだけだ。もし君が金も稼がずに、食事も作らずに蒼翅君を閉じ込めて憔悴させているのなら、私は君たちを引き離さざるを得ない」

 私はもう一度、念を押すように言いました。

 北村君は顔を上げました。その瞳は泉のように澄んだ水で覆われて、いまにもあふれ出しそうに揺れています。

「……やっぱり、これ以上は隠せないんですね」

 北村君は涙交じりに言うと、一番上まできっちり閉めたシャツのボタンに指をかけました。北村君はボタンを半分ほど外すと首元に手をかけて、襟と周囲の薄暗さに隠されていたあるものを露わにしました。


 それは、大きなあざでした。彼の細い首をぐるりと囲うように付けられたそれは実に痛々しく、そしてどうやら人の手の形をしているようでした。私は驚愕すると同時に、これほど目立つものに何故この瞬間まで気付かなかったのだろうと首をひねりました。ですが同時に、このあざに触れることで何かもっと恐ろしいことが起こるような気がしました。これは一体どうしたんだ、という一言が喉につっかえてなかなか出てきません。

 北村君はそれを見て取ったのでしょう、寂しげに笑うと

「ひどく驚かれると思いますが、さっきみたいに怯えないでくださいね」

 と言って、淡々と語りだしました。


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