七.

 以下に述べるのが、その詳細な内容です。


 それは三か月ほど前のこと、彼らが二人して雲隠れした前の夜のことでした。蒼翅君は直近に原稿を一本仕上げていて、その報酬を受け取ったところだったそうです。懐が豊かになった蒼翅君は早速夜の街に繰り出しました。彼はかつて、外で遊んで酒と様々の関係に溺れることが「蒼翅碧花あおばねへきか」という人間を形作っているのだと語ったことがあります。北村君と暮らし始めてからだいぶ大人しくなったとはいえ、彼は自他ともに認める遊び人でしたから、この日も何軒かカフェーをはしごしては酒と出会いを楽しんでいました。そうしてすっかり酔いの回った蒼翅君は、最後に訪れた店で、とある男性に誘われるまま関係を持ったというのです。


「その夜、碧花先生は、日付が変わってからひどく酔って帰ってこられました」

 北村君は、抑揚のない声でそう切り出しました。

「僕は仕事が終わって家に帰って、もらったチップを数えているところでした。小暮さんはご存知でしょうが、ひと月のお給金に毎日のチップを足してそっくり貯金に回しても、僕の稼ぎでは先生が一回の原稿でもらう額には到底届かないんです。何年か先生と暮らす中で、僕はそれだけが憂鬱でした。それにあの夜は、あまりチップがもらえなかったのもあって特別落ち込んでいたんです」

 私は早くも北村君に同情しました。たしかに、蒼翅君が一回の仕事で得る報酬は、北村君がどれだけ精を出しても決して得ることのできない額でした。蒼翅君はすぐさまそれを道楽趣味に溶かすため、土産があればいいものの、北村君との生活にそのお金が回ってくることはほとんどなかったと言います。多くはないお給金を毎月せっせと貯金しても、蒼翅君のような贅沢は北村君には夢のまた夢でした。それでも北村君は我儘一つ言わず、蒼翅君と毎晩遊び歩くよりも、生活に無頓着な彼を支える道を選びました。それは、確かな幸福を得ることはできても、長い時間をかけて歩むには非常に苦しい道でした。蒼翅君に感謝され、頼られ、甘えられ、互いに愛を確かめ合う生活はたしかに尊いものでしたが、金銭の問題は常に北村君を悩ませていたのです。

 北村君は続けて言いました。

「僕は吃驚して、慌てて先生を茶の間に上げてお水を一杯差し上げました。先生はそれを飲むと、僕にいきなり口づけをしたんです。すごく酒臭くて、僕は先生の息を吸わないようにするので必死でした。しばらくしてやっと放してくれたと思ったら、碧花先生がこう言ったんです。『やはり、あの男は可愛げに欠けるな』って……僕が何のことかと尋ねたら、カフェーで会った男の話をされました。その男に酒をおごられたので、先生はお返しに何か書こうかと訊いたそうなんです。すると男は『蒼翅碧花先生の創作の秘密を見ることができれば十分です』と答えました。先生がそれは何かと訊かれたら、男は先生に、あなたは相手に糸目をつけないそうですねと答えたと」


 その時すでに相当酔っていた蒼翅君は、二つ返事でその頼みをのみました。そうして二人は便所の個室でことに及んだといいます。その男は、線の細い北村君とは正反対の、たくましい大柄の男でした。蒼翅君は、その男と互いを慰め合った一連の流れを細々と、全て北村君に聞かせたのです。

「一番駄目だったのは、僕よりも早くいったところだな。彼はわざとだと笑っていたが、あれは絶対わざとじゃないね。それに相手を置いてけぼりにするようでは興醒めだ。総じて悪くはなかったが、そこは瑤がどういうふうにしているか一度見てみるべきだ……だが、あの口の使い方だけは瑤が見習わないといけないな」

 愛する相手に他人とのことを楽しげに語られるというのは、北村君の心をいたく傷つけました。それは北村君が蒼翅君を愛する気持ちであり、あの蒼翅碧花が付き合った中で唯一伴侶と呼べる存在が自分だという自負でもありました。それに北村君は、ただでさえ気分が落ち込んでいるところでした——それまで蒼翅君の浮気を容認していた北村君も、この時ばかりは耐えられなかったのです。


「僕は、そんなに良い出会いがあったなら、今夜は僕は必要ないですねと言いました。たかだか行きずりの相手だというのに、きっとその男に嫉妬してしまったんでしょうね——だからほんの嫌味、ちょっとしたいじわるのつもりでそう言ったんです。でも先生は、途端に不機嫌になって、『お前の口からそのような堕ちた言葉を聞く日が来るとはな』と仰るなりちゃぶ台を蹴飛ばして、空いた床に僕を押し倒したんです。僕は吃驚して、怖くなって、すぐに謝りました。でも先生は聞いてくださらなくて、この蒼翅碧花の創作の秘密は何かと唾を飛ばして訊くのです。僕はとっさに分かりませんと答えました。すると先生は、僕の上に跨って、『分け隔てない愛情だ』と言われたんです」

 北村君は、悲しげな調子で少し笑いました。ですが彼の口調は、まるで人の不幸話を語っているかのように平坦です。

「『なら僕のことも愛してくださいよ』と、僕は言い返しました。先生はどんな愛が望みだと訊きました。僕は言いました。先生と二人で手を取り合って、一緒に生きていくような愛がほしいと。先生ばかりが良い気をするのではなくて、二人で僕たちの暮らしを一緒に作っていく、そんな愛がほしいと言いました。すると先生は大声で笑って、『今までの暮らしは自分一人の力で成り立っていたとでも言うのかね? 僕の金と相手にケチをつけるとは、いつからそんなにお偉くなったんだい?』と言ったんです。僕はかっとなって、こう言い返してしまいました——『あなたとの同棲を承諾したときからです』と」

 私には、北村君の言うことがなんとなく分かりました。私は家内と兄たちの一家、引退した父母とともに住んでいますから、私たち兄弟は皆、家の費用を分担して納めていました。北村君は私たち兄弟と同じように、稼ぎがある者同士協力して暮らしていこうと思ったのでしょう。ですがそれがかえって裏目に出てしまったと北村君は言いました。


 端的に言うと、北村君は、泥酔した蒼翅君に凌辱されたのでした。北村君の言葉を聞いた蒼翅君は逆上し、彼の滑らかな頬を打ち、衣服をはぎ取り、必死に抵抗する北村君を無理やり犯したのです。北村君は悲鳴を上げ、泣きながら止めてくださいと懇願しました。ですが蒼翅君は一切聞かず、それどころか北村君の体を押さえつけて強引にことを続けたのです。

 自ら愛を求めたものの、北村君が得られたのはいつ終わるとも知れない暴力と痛みでした。そしてあまりの恐怖に、北村君は失禁してしまいました。泣きじゃくりながら謝る北村君を蒼翅君は怒鳴りつけ、その体をさらに痛めつけました。北村君はこの世の終わりのように叫び、身をよじって逃げようとしましたが、蒼翅君は凶悪な顔で笑うばかりで一切動きを止めませんでした。北村君は必死で抵抗しましたが、次第に泣き疲れ、声も枯れて、恐怖は絶望に取って代わって意識も朦朧としてきました。

 世にもおぞましい攻防が小一時間続いた末に蒼翅君は達しました。北村君は茫然自失として寝転がったまま、満足げに口づけをする蒼翅君の体の下で再び小水を漏らしていました。蒼翅君はそれに気付くとたちまち形相を変え、北村君が口づけを返さないこともあって再び不機嫌になりました。彼は繋がったまま、北村君を打ちました。弱々しいながらも、北村君は顔を腕で覆いました。息も絶え絶えに、掠れてほとんど聞こえない声で「やめてください」と訴える北村君に、蒼翅君はまた手を出しました。蒼翅君は、粉々に砕けた硝子の面を守ろうとする北村君の手をぞんざいに払いのけると、今度はその細くてもろい首を鷲掴みにして、ぎりぎりと締め上げたのです。北村君は恐怖に目を見開いて、わずかな体力で最後の抵抗をしました。北村君は蒼翅君の手をがむしゃらに引っ掻き、細くて長い脚をばたつかせて繋がったままの腹を何度も蹴りつけました。ですが、蒼翅君は鼻先でせせら笑うばかりです。

「愛してくれというから愛してやったのに、お前一体どういう了見だ?」

 そう言いながら、蒼翅君は空気を求めてもがき、赤黒い顔で咳き込む北村君の首をますます強く締め付けました。

「全くお前がそんな奴だったとは、僕は思いもしなかったよ! 願いを聞いても嫌がるばかり、おまけに小便を二回もかけやがって! そういえば僕も大分溜まっているんだった、お返しにこのまま、お前の腹の中で漏らしてやろうか? お前も結局は他の連中と変わらないんだな、愛だなんだと抜かすばかりで僕を拘束することしか考えていない! 金がなんだ? 君の稼ぎで死なないだけ食っているじゃないか。愛がなんだ、この僕をここまで陶酔させておいて、これ以上何を望むと言うんだ? 僕が自分の金で酔おうが他の男と一発やろうが、君には関係のないことだろう! どうした? 瑤。自分の間違いが分かったか? なあ、何とか言えよ。瑤。馬鹿みたいに寝ていないで、僕の質問に答えるんだ。瑤!」


「……でも、その時には僕はもう限界でした。あの人が僕の首を絞めて揺さぶりながら、瑤、瑤と呼んでくださるのを聞いているうちに、僕は何も分からなくなりました」

 北村君はそう言うと、二階にちらりと視線を向けました。

「次に気が付いたとき、碧花先生はこの部屋の隅で、まるで子どものように膝を抱えて泣いていました。いつも少しばかり眠そうな目をカッと見開いて、まるで何かに怯えているように、ぶつぶつ呟いていたんです。その様子を見ていると……可笑しいでしょう、小暮さん、あんなに乱暴をされたのに、僕はあの人を放っておけなかったんです! 僕は起き上がって碧花先生のところに行くと、その肩をさすって大丈夫ですかと尋ねました。先生は驚いたように僕を見ると、泣きはらした目で笑って『ああ、良かった』と言いました。先生が僕に寄りかかってきたとき、僕はどうしようもなく泣きたいのをこらえながら『いいんです』と答えました。あんな目に遭ったのに、僕はやっぱり、あの人が愛おしくて仕方がなかったんです」

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