五.

 次の日、私は仕事を休んで朝から蒼翅君の家に行きました。

 少しばかり曇りがちな空から降り注ぐぼんやりした日の光で、通りは淡い陰影に彩られています。子どもたちは学校に、勤めのある者は仕事に行ったあとらしく、あたりはがらんとしておりました。昨日と同じように磨硝子すりがらすの引き戸を軽く叩くと、それほど待たないうちにどたどたと慌ただしい足音が聞こえてきました。私は何事かと面食らいましたが、そのまま玄関まで足音荒くやってきて乱暴に戸を開けた蒼翅君を見てさらに驚愕しました。


 彼は、昨日会った時から随分変わって見えました。豹変と言っても過言ではないでしょう。顔は頬骨が見えそうなほど痩せこけていて、振り乱した前髪の隙間から憔悴しきった両目がのぞいています。はだけた着物の下は何も来ておらず、ひどく薄い胸が激しく上下していました。彼は肩で息をしたまま、じっと黙って私の顔を見つめておりましたが、急に私の手首を掴むと家の中に引きずり込みました。

 私は勢いに負けて敷居に足をひっかけ、転がるように中に入りました。私が体勢を整える間に、蒼翅君は開けたよりも乱暴に扉を閉めて鍵をかけました。ただでさえ淡い日光が周囲の家に遮られているのか、家の中はひどく暗くて寒々としています。

「早くしろ!」

 人が変わったように高圧的に、蒼翅君はがなり立てました。彼はこの寒い中裸足で、丸見えの足首は驚くほど細く骨ばっています。私は慌てて靴を脱ぎ、急き立てられながら二階に上りました。二階には、一枚の障子で隔てられた二人の自室があるだけです。蒼翅君はいやに据わった目で廊下を進むと、奥のふすまをこれまた騒々しく開け放ちました。

 その部屋は、窓の外が多少明るいおかげで土間よりはまだものが見えるといった具合でした。隅々までよく片付けられていて、北村君のものであろうことがうかがえます。蒼翅君は私の前に立ちはだかっていましたが、ふすまが開いた瞬間に、床の上で何かがびくりと動いたのを私は見逃しませんでした。蒼翅君がずかずかと寝室に乗り込むと、その影は彼のために布団の片隅に移動し、薄い掛け布団をぐいと引き上げて体を隠しました。この場にいてはいけないと、私の理性が叫びます。ですが私は好奇心に負けて、部屋の中を覗き込んでしまったのです。


 そこにいたのは北村君でした。薄暗い部屋の中、彼の透き通るような柔肌と黒い瞳がやけに輝いて見えます。彼は髪を乱し、頬を紅潮させていました。息を吸って吐くたびに、布団から出ている薄い肩が上下します。彼は私の方に一瞬目を向けましたが、すぐに蒼翅君を見上げてひどく妖艶な笑みを浮かべました。蒼翅君は布団に膝をつくと、北村君の伸ばす手を自分の頬に添えて、自分の唇を北村君の唇に押し付けました。二人分の熱のこもった吐息が部屋中に満ちてあふれ出し、廊下に立ち尽くす私にまで聞こえてきます。蒼翅君は口づけを繰り返しながら帯の結び目に手をかけました。適当に留められただけの帯は一瞬で落ち、蒼翅君ははらりと垂れた着物を後ろにのけました。薄暗がりの中で外の明るさを背景に、影になってちらりと見えた体はどう見ても、ある種の刺激を十分に受けていました。彼は北村君の被る布団を取りのけて、磁器のような——しかし生々しい興奮に満ちた裸体をさらけ出しました。これだけでも私はめまいを覚えるほどだったというのに、私はさらに、彼らが体を繋げる瞬間をも見てしまったのです。

 私はくらくらして後ずさり、反対側の壁に背中からぶつかりました。私の理性は、今すぐいとまを告げてこの家を出ろとわめいていました——ですが私はその場を動けず、その後の光景から目を離すこともできませんでした。

 二人は互いに劣情を煽り合うように熱っぽい息を吹きかけ合い、互いを求めるように抱き合いました。北村君の細く長い指が蒼翅君の背中に這い、羽織ったままの着物をぎゅっと握りしめます。私は、蒼翅君が着物を脱いでいないことに感謝せずにはいられませんでした。他人の夜伽を覗き見るという嫌な刺激に満ち満ちた映像が、蒼翅君の着物という目隠しによって少しやわらぐような気がしたのです。実際に私に見えていた部分は二人の顔と肩ともつれあう四肢くらいで、あとの部分は垂れ幕のように落ちた着物が上手いこと隠していました。


 ですが、ああ! なぜ私は、己の理性の忠告を無視してしまったのでしょう? 蒼翅君の趣味はよく知っていましたし、二人の関係もよく理解していました。薄暗い寝室に裸の北村君がいた時点で、こうなることは分かりきっていたではありませんか! それなのになぜ、目の前で友人が恋人と交わっているところを見るなどという下劣なことをしてしまったのでしょう? 私はそれが今でも分からずにいます。ただ、一つ言えるのは、私はまじないにでもかかったかのように、その場を動くことも二人から目を逸らすこともできなかったということでした。私はどうすることもできないまま、床で蠢く一組の肉体をじっと見つめていたのです。


 たちの悪い白昼夢のような時間はほどなくして、静かな痙攣とともに終わりを告げました。蒼翅君が全身の力を抜いて細く震える息を吐き出すと、北村君はその唇に接吻しました。

 その唇が蒼翅君に触れるまでのほんの一瞬の間、北村君はこちらに視線をよこしました。そのまなざしには不躾な傍観者への怒りや失望は一切なく、見られたことに対して何の感情も持っていないような冷たさと、自分のために欲に溺れる蒼翅君に対する優越感のようなものが浮かんでいました。

 その時ようやく、私は我に返りました。私は弾かれたようにその場を逃げ出しました。転がるように階段を駆け降りて、手近な柱に手をついて動悸を落ち着けようと何度も深呼吸を繰り返しました。蒼翅碧花と北村瑤の公然の秘密ともいえる関係の中核を為す場面を、彼らの夜伽の一切を、私は見てしまったのです。これだけでも自分が汚らわしくてたまらないのに、イロモノの銀幕を見たときのように熱くなっている自分がいるのです。私は、ここでそれを解放する気にはとてもなれませんでした。この熱がどちらかが降りてくる前に静まって、醜態をさらさずに済むようにとひたすら天に祈るばかりでした。


 私は頭を冷やそうと、縁側に腰を下ろしました。縁側を降りれば当然庭があるわけですが、蒼翅君が特に気に入っていたこの箱庭には、丸テーブルと籐椅子が置いてありました。うっすら雪を被ったテーブルと椅子を見ているうちに、私はふとあることに気が付きました。蒼翅君は毎年春になると自らこの丸テーブルと籐椅子を引っ張り出してきて、天気にかかわらず気が向けば座って考えごとに耽っていたのですが、冬の足音が聞こえるころには必ずテーブルと籐椅子を仕舞っていたのです。それがこの時に限って、冬も本番で雪まで降っているというのに片付けられていませんでした。私は改めて庭を観察しました。そして、隣家と蒼翅家を隔てる椿の垣根がいつもより不格好なことに気が付きました。いつもは冬に向けて綺麗に剪定されているのに、どうやらろくに手を入れてもらえていないようです。その下の地面は何故か少し盛り上がっていて、まるで何かを埋めたあとのようでした。


 やはり、蒼翅君はどこかおかしいのではないだろうか——そのような考えが私の頭をよぎりました。昨日は家の中に変わった様子がなかったので少し安堵していたのですが、そういえば庭を見ている余裕まではありませんでした。家の一切は北村君によって取り仕切られていましたが、この庭だけは蒼翅君の管轄で、いわば彼の領地でした。私の頭を、今度は先ほど一瞬見えた北村君の顔がよぎっていきます。もしかして、献身的な妻のような北村青年は、本当はとんでもなくねじ曲がった性根の持ち主で、蒼翅君を支えるように振る舞う裏では彼を破滅に導いているのではなかろうか?

 私は頭を振って、その考えを打ち消しました。そのような卑しいことは、どちらかというと北村君以外の相手が考えそうなことです。ですが、人の本性というものは、隠すことに長けた者は徹底的に隠してその片鱗さえ見せないものです。私は寒さに身を震わせると、家の中に戻りました。


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