第十五話 遠乗り

 時は経ち、董卓は長安近くの郿に郿塢と呼ばれる居城を築いた。

 郿塢は長安と同じ高さの城壁を持ち、そこに蓄えられた糧食は三十年分にも及ぶと言われた。

 また粗悪な銅貨の五銖銭を改鋳したために貨幣価値が暴落し、市場は激しく混乱した。

 関東諸侯に対しては李傕や郭汜、張済を派遣して牽制するほか、一部の諸侯に官位や爵位を贈るなど懐柔の手を回した。

 その結果として連合の首領格で冀州を支配した袁紹は袁術と盟を結んだ公孫瓚と長きに渡る抗争に入り、袁紹の対立派閥の長だった袁術は袁紹と盟を結ぶ荊州の劉表と争う。

 打倒董卓に精力的だった孫堅は袁術の尖兵として劉表と争う中で戦死し、曹操は事実上流民と化していた総数百万を越える黄巾党の残党を降伏させ、迎えられる形で兗州を支配する。

 反董卓の絆は完全に霧散し、関東はまさに群雄割拠の様相を呈していた。

長安市中では戦火に包まれていないだけまだ救われている、などという極めて後ろ向きな肯定意見が囁かれる始末であった。

 初平三年三月、陽人の戦いより丸一年経った春。

「ぎ……貂蝉」

 市中に散策で出ていた呂布は久しぶりに貂蝉を見かけ、思わず声をかけた。

 一口に長安と言っても広い。

 お互いに意識して距離をとっていたわけではないが、西域の交易品の店で会って以来の再会だった。

 呂布の声に振り返った貂蝉の表情は、心なしか疲れているように見えた。

「久しいが、少し痩せたか」

 いや、痩せたと言うよりもやつれたのか。

 肌の血色も悪く、目元には薄く隈が浮かぶ。

 だがそれ以上に気になったのは、少し痩けた頬のあざ。

 頭を下げて礼をとる貂蝉に、躊躇いがちに尋ねる。

「その、頬のあざはどうした」

 貂蝉は少し慌てた様子で頬を押さえ、顔を背けた。

「いえ先日、蹴躓いた拍子にぶつけてしまって……」

「ならいいが……気を付けろよ。

 それに少し疲れている様子だが」

 呂布はやや怪訝な面持ちで貂蝉を見る。

「この所王司徒が体調を崩される事が多く、身の回りのお世話などでなかなかゆっくりと休める日がなかったので。

 ただ今日は体調もよろしいらしく、お休みを頂戴しました」

 なるほど、少し暗い表情なのは王允の体調を案じての事だろうか。

 呂布は目を細めた。

 王允の体調不良には貂蝉の存在が大きな要因の一つになっているだろう、と推測する。

 妖狐との房事、つまり妖狐に吸精されるとこの世のものとは思えぬ快楽と引き換えに激しく気力体力を消耗させると言う。

 凡人であれば一晩肌を重ねるだけでも年単位の天命を削り、二十代の成年が半年で衰弱死すると言われる。

 しかし主はその快楽に溺れて求め、我が子を為さんと欲し、文字通り命を捧げるのだ。

 そして主が死んで血の束縛から解放されると妖狐はまた新たな主を探し求める。

 自らの血と主の欲望に応えて主に尽くすが、それが返って主の命を削る事になってしまう。

 司徒という太師董卓に次ぐ人臣の極みにまで達した王允であればこそ、今まで妖狐の吸精に応えられたのであろうが、寄る年波には抗えぬか。

 主を想い、尽くすも、その主の精を糧として弱らせるもまた自身。

 妖狐の悲しい宿命に憐れみにも似た情が胸に飛来する。

「貂蝉、休みなのであれば少し遠乗りしないか

 俺と一緒ならば狼藉を働く董卓兵や賊徒も手を出せん。

 気晴らしになるだろう」

 貂蝉は少し考えると、睨むような目を向けて答えた。

「鮮卑からはお守りいただけませんでしたが、本当に大丈夫なのですか。

 それに、呂騎都尉自身に心配をする必要はありませんか。

 以前にお話しした私の大切なもの、また壊す事はありませんか」

 呂布は一瞬言葉に詰まったが、真剣な眼差しで応える。

「今の俺は、あの頃の俺とは違う。

 お前を失って俺は己の未熟を知り、武の極みを求めてきた。

 ただ敵を倒すだけの暴ではない。

 二度と大切なものを失わない為、守る為の武だ。

 俺を信じられないのであれば仕方ないが、俺は今のお前が大切にしているものを無為に壊すつもりはない。

 良かれと思っての事だ」

 貂蝉は再び考え込み、やがて頷いた。

「わかりました。

 お誘い、お受けいたしましょう」


 愛馬赤兎に跨り、呂布は長安城を出て北へ向う。

 そこには黄河の支流、渭水が流れる。

 支流と言っても、渡るには船が使われる程川幅は広く、商船も往来する。

 自身の前には横座りする貂蝉。

 行き先を見る貂蝉のうなじ、風に乗って感じる匂い。

 ともすれば劣情を抱いてしまいそうなものだが、呂布はそれ以上に襟の影から見え隠れする首筋のあざの様な跡が気になった。

 そして赤兎に引き上げる時、絹のような肌を持つ貂蝉の手首に感じた不穏な感触。

 程なく渭水の畔に着くと二人は赤兎から降り、渭水の緩やかな流れを眺める。

 すると今まで呂布の問いに答えるばかりだった貂蝉の方から話を切り出してきた。

 話題は呂布の妻や娘など、主に呂布の私生活に関して。

 それに対して呂布は一つ一つ、取り繕うような事もせず、飾らぬ言葉で答えていく。

 貂蝉を失って傷心の時に、知り合った今の妻。

 容姿はいいが並の男以上に背が高く、なかなか貰い手がないと嘆いていた。

 だが性格は裏表なく誠実な人物だった。

 不器用なところもあるが、自分が何か悩んでいれば気丈に叱咤激励し、よく支えてくれている。

 娘を産んでから子を宿せず、男子がいない事を気にしているようだが、自分にはそんな事どうでもよく、とても大切に思っている。

 その娘は今年九つになった。

 親馬鹿かもしれないが、愛嬌があって可愛い。

 ただ自分以上に、配下で一番若い張遼に懐いていて、将来はそのお嫁さんになる、などと言っている。

 張遼なら嫁にやってもいいとは思うが、娘が嫁に行く姿を想像すると少し寂しい。

 そんな話を聞き、貂蝉は小さく笑った。

「やっと笑ったな」

 貂蝉の小さな笑みを見て、呂布は安堵したように言う。

 貂蝉は思わぬ言葉に驚き、怪訝な表情をした。

「いや、王允の屋敷で会ってから今まで、笑った所を見ていなかったからな。

 もしかしたら俺の事を疎ましく、辛い思いをさせていないか心配していたんだ」

 それを聞いた貂蝉は苦笑して首を横に振る。

「いえ、そんな風に思ってはおりませんでした。

 むしろ私が入り込む隙もない程、お幸せそうで安心致しました。

 私も王司徒の元での生活に満足しておりますので」

 貂蝉の答えは何度も繰り返してきた『無理に自分を手元に置こうとして、互いの生活を壊す様な真似をしてくれるな』という意思表示であった。

 しかしその表情はそれまでの暗く物憂げな様子とは一変して、かつて呂布が郷里で見た明るさに包まれている。

 それは春に咲く梅の様に可憐で、見るものを魅了する。

 そんな貂蝉を見て、呂布も自然と笑顔になる。

 だがやがて貂蝉の目がみるみると潤み、雫となって頬を伝う。

「ど、どうした。

 何か気に障る事を言ったか」

 突然の感情の変化に困惑する呂布に、貂蝉はそれを否定して袖で涙を拭う。

「ここ最近、徐中郎将が頻繁にお屋敷に参ります」

 呂布の脳裏に、着飾った装いで『王司徒にお呼ばれして』と話した徐栄のにやけた顔が甦る。

「初めは一年前、王司徒が酒宴にお呼びしたのです。

 その後何かと理由をつけては参られ、そして先月私を妻に迎えたいと。

 ですが私は王司徒の元を離れたくありません」

「司徒はそれに対して何と申されている」

「今の所はお断りくださっております」

 ならばよいではないか、と思う呂布に貂蝉は言葉を続ける。

「ですが王司徒はわざとやんわりと、徐中郎将が諦めきれぬ様な断り方をなさいます」

「それは例え自分より地位が低かろうと、徐栄は太師の部下だ。

 あまり無下な断り方もできまい」

 呂布の宥めに、貂蝉は首を振る。

「違います。

 そうではないのです。

 王司徒は一度言われました。

『諦めがつかぬ様に断り続け、やがて自分の言いなりとなる手駒にする』と。

 私はその為の餌なのです」

「徐栄を手駒に……

 何の為に」

 呂布は訝しげな表情で、王允の意図は何かと考えを巡らせる。

 貂蝉の話を聞く限りでは王允の方から徐栄を酒宴に招き、接触を計ったようだ。

 何故徐栄なのか。

 董卓政権下で自分の立場をより固めたいのであれば董卓の親族や同郷で古株の李傕や郭汜等、もっと董卓との繋がりが強く、適した人物がいるはずだ。

 そうではなく新参の徐栄を選んだ意味。

 徐栄に何を求める。

 何かに気付いた呂布の表情がみるみる険しくなっていく。

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