第十六話 懇願

「貂蝉、まさか司徒は……」

 司徒の王允が持たず、中郎将の徐栄が持つものがある。

 兵。

 呂布にとっては同僚となる徐栄の就く中郎将も、役割は異なるが騎都尉同様に監督する兵を預けられている。

 無論勅命がなければ自由に動かしてよい訳ではないが、それは司徒の王允であればある程度はどうにでもなる。

 つまり徐栄を籠落すれば、王允は徐栄を通じて手懐けられた兵を手にする事になる。

 そして王允が兵を求める理由を考えれば、自ずと王允の企みは見えてくる。

「司徒は……まさか太師を……」

 貂蝉は呂布の言葉に身を強張らせた。

 つい忘れていた。

 この男が太師と義父義子の契りを交わした関係である事を。

 そして董卓の義子に王允の企みを気付かれてしまった。

「お願いです。

 この事は董太師には言わないで」

 呂布は自分の胸元を掴んで懇願する貂蝉を前に、苦渋の表情でこめかみに手をやる。

 言える訳がない。

 董卓にそんな事を知られれば王允やその三族はおろか、貂蝉も含めた家僮までもが皆殺しだ。

「私は徐中郎将の妻にはなりたくありません。

 王司徒が董太師に取って代わる事も望んではおりません。

 お助けください」

「貂蝉、俺は……どうしたらいい。

 俺にどうして欲しいんだ」

 いくら涙ながらに訴えられても、呂布自身にもどうしたらいいのかわからない。

「わからない。

 私は以前の、雒陽に呼ばれる前の王司徒の元で平穏に暮らしていたかった」

「以前の……とは……」

 言葉を繰り返して問う呂布に貂蝉は、溜め込んでいた思いを吐き出す様に答える。

「王司徒は変わってしまいました。

 司徒になられてからは、『太師を野放しにしては後生の史家から何と言われるか』と、世評ばかりを気にされて苛立つばかり。

 そして長安に来てからは深酒がひどくなって……」

 貂蝉は歯切れ悪く言葉を止めた。

 その様子を見た呂布は、貂蝉の袍の襟元を掴んで広げると肩をはだけさせた。

「な、何をなさいます」

 悲鳴と非難の声を上げ、胸元を庇いしゃがみ込む貂蝉。

「頬は蹴躓いた拍子に、と言っていたな。

 他のあざもそうなのか。

 泥酔した王允に殴られたのではないか」

 貂蝉は黙ったまま答えない。

 肩や腕、胸元には生々しい殴打の、首には絞めたような手の跡が刻み込まれている。

「手荒な真似をしてすまなかった」

 自分もしゃがみ込んで詫びながら貂蝉の袍を直す。

 身を縮めて震わせる貂蝉を見る呂布の眉間には深い皺が刻まれ、目は眦が裂けんばかりに見開かれている。

「それでも、そんな仕打ちをされてもお前は王允の元にいたいのか」

 努めて憤りを押さえ込んだ静かな問いに、俯き加減の貂蝉は少しの間を置いて、押し殺すように答える。

「私の居場所は王司徒の元にしかございません」

 それが妖狐の血の束縛によるものだとしても、貂蝉の気持ちは未だ王允の元にある。

 そして一介の騎都尉でしかない自分には酒に溺れて暴を振るい、董卓暗殺を目論む王允を止め、貂蝉を助ける手立てがない。

 いっそ自分が王允の手駒になって、董卓を殺すか。

 丁原の主斬りに義父殺しの汚名を重ねる事になるが、そんな事は構いはしない。

 しかし突然そんな事を言った所で、王允が自分を信用するだろうか。

 仮に信用したとして、その後の董卓の残党達はどうする。

 自分が動かせる兵は決して多くはない。

 数では勝てない。

 下手をすれば鮮卑の襲撃の時と同じ轍を踏む事になってしまう。

 それにこれでは結局徐栄の役割が自分になるだけで何も解決しないではないか。

 名案浮かばず、呂布は自身の不明に憤りを覚える。

 解決の糸口も見つけられぬ憤りの中、もう一つ気になっていたものを思い出した。

「それと貂蝉、これは王允から受けたものではあるまい」

 そう言って貂蝉の手を取って、手首を上に向ける。

 そこには殴打や締め付けとは明らかに異なる自傷の痕跡。

「貂蝉、何故この様な事を……」

 すると貂蝉は強引に呂布の手を振り切って両手で顔を覆うと、声を震わせて激しく嗚咽しだした。

 呂布は悲痛な面持ちで貂蝉の様子を黙って見つめる。

 さすがに無遠慮に立ち入り過ぎたであろうか。

 貂蝉にも、自分には言えない悩みや苦しみはあろう。

 しかも今の自分と貂蝉の関係は昔とは違うのだ。

「すまぬ貂蝉。

 さすがに不躾が過ぎた。

 今問うた事は……」

 一向に嗚咽を止めぬ貂蝉に、時既に遅しとは知りつつも発言を取り消そうとした呂布だったが、貂蝉は首を振り、必死に息を整えようとする。

 その様子を見て呂布は言葉を止め、黙って貂蝉の言葉を待つ。

 やがて貂蝉は嗚咽止まぬ中、息も絶え絶えに言葉を絞り出した。

「呂……奉先様はご存じでしょう……

 妖狐の持つ呪われた宿命を……」

 それは先刻呂布が懸想した妖狐の悲しき宿命。

 主を想い、尽くし、その主の精を糧として弱らせてしまう。

「妖狐は本来人間よりも遙かに長き天命を持ちます。

 私も未熟とはいえ、奉先様よりも長く生きてまいりました。

 ですがそれ故、例え血の呪縛によるものであったとしても、愛した主の死を何度も看取ってまいりました。

 そして血の呪縛から解放されると虚無感に襲われるのです。

 あれだけ愛おしく感じていた筈なのに悲しみもなく、幸福に過ごした時間も取るに足らぬ朧な記憶になってしまう。

 そして主が私を愛し、私がその精を吸う限りそれは繰り返されるのです。

 いつの頃からか主を死に追いやる妖狐の宿命が辛く、生きる事が恐ろしく……

 かといって精を吸わずに受け、子を宿して妖狐の力を失う勇気もなく……」

「だからといってその宿命から逃れる為に自ら命を絶とうとするなど、本末転倒の愚行ではないか」

 妖狐は九尾に至るまで精を受けずに吸って自らの力にし、長き時と共に成長する。

 精を吸わずに受け、子を宿せば妖狐としての成長を永劫に放棄する事になる。

 九尾に到らぬ妖狐が成長を放棄すれば、二度と尾は増えず、尾が増えなければ天命も延びない。

 故に妖狐に流れる血は強者の精を求め、強者たる主に服従と依存を強いる。

貂蝉は縋るように呂布に抱きつく。

 思わず声を荒げた呂布だったが、黙って貂蝉の肩に手をやる。

 長き苦悩があったのだろう。

 打ち明けられる者は他にいなかったのだろうか。

 悩みを解決できなかったとしても、理解し、共感してくれる者さえいれば、このような事にはならなかっただろう。

 しかし、それはかつて鮮卑から守れなかった自分自身の責も要因の一つではないのか。

 呂布は貂蝉の嗚咽がある程度落ち着くまで肩を抱いたまま待ち、耳元で励ますように囁いた。

「よいか、俺は昔、お前を自分のものにする勇気もなく、守る事も出来なかった。

 そして時が経った今、互いに立場や環境も変わった。

 だが俺は今も昔も変わらずお前の味方だ。

 俺が助けられる事があれば、可能な限り何でもする。

 俺も考えるが、お前も考えるんだ。

 例えその血に抗ってでも。

 理想を追うばかりでなく現実を見て、過去に縋るのではなく先を見て、戦うのだ。

 生きることを悲観してはならぬ」

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