第十四話 性情

 羽林(皇帝直属の部隊)の練兵で郊外へ出た呂布はその指揮、監督を張遼達に任せ、高順を連れて近くの小高い丘に登った。

 年間通して降水量の少ない長安だが、今日の空は珍しく厚い雲に覆われ、風も強い。

 湿気を含んだ風が、特有の匂いを帯びて鼻腔をくすぐる。

「どうされましたか、どんなお悩み事ですかな」

 高順の問いに呂布は怪訝な顔をして高順を見た。

「何故悩み事だと思う」

 高順は何を今さらとでも言うように、微かに笑みを浮かべた。

「練兵の最中に殿が私を連れ出す時はいつもそうではありませんか。

 しかも何故か決まって今日の様な曇り空。

 お慶びの時は文遠、お怒りの時は成、お疲れの時は魏。

 魏は兎も角、文遠や成は既に承知しておりますぞ」

 それを聞いた呂布は少し呆気にとられると小さく笑った。

「では次からは魏越以外の役割を少し変えてみるか。

 さすがの俺でも天気までは変えられないがな」

「して、此度はどのような事がありましたか」

 練兵を眺めながら軽口を叩く呂布だが、本題を問う高順の言葉に笑みが消える。

「五原を離れてもう十年以上経つ。

 あの頃の俺を知る者はお前と妻くらいしかいない」

 高順と呂布は、夜叉の爪牙も含めた呂布配下の中で最も付き合いが長い。

 表情や口振りで話の長さや重さはある程度察しがつく。

「銀蓮がこの長安にいる」

「銀蓮とは……

 あ、あの妖狐の」

一瞬怪訝な顔をした高順だったが、記憶の引き出しからその名を見付け出すと目をむいた。

「どういう経緯があったかは知らんが、雒陽の頃から王允の元で妓女をしているらしい」

 高順は益々目を丸くして驚く。

 呂布はそこで言葉を止め、腕を組む。

 二人の間に暫し沈黙の時が流れる。

 長き年月をかけて尾を増やして魔力を養い、成長する狐、妖狐。

 九つの尾を持ち、最高位にあたる九尾の狐になればその高い魔力は神仏にも匹敵する。

 過去の歴史においては美女に姿を変えて時の権力者に取り入り、精を吸って己の力に変え、豪奢の限りを尽くしたと言う。

 遥か古代殷の紂王に取り入った妲己がまさにその九尾の狐だったとも言われている。

「殿は、それで何を望まれますか。

 側室に迎えて手元に置かれたいのですか」

 高順の問いに呂布は黙して語らない。

 腕組みをしたまま、じっと練兵の様子を見つめる。

 その様子を見て高順は言葉を続ける。

「という訳でもなさそうですな。

 まさか私以外に、呂奉先ではない殿を知る者、として排除をお考えですか」

 そこまで聞くと呂布は横目で高順を見て鼻で笑った。

「俺がそんな事を考えていると思うのか」

「いえ」

 黄色く強い風に阻まれる様に二人の会話が途切れる。

 呂布は目を細めながら指で目鼻の砂埃を払う。

 そしてようやく自分から話しだした。

「あの日俺は銀蓮を守れなかった。

 そして今の俺には、あの後の俺を支えてくれた妻、雪葉がいる。

 銀蓮が王允の妓女であろうと愛妾であろうと、俺がとやかく言える立場ではない。

 銀蓮は『今の生活に満足している』と言っていた。

 それが本心であればそれで構わない」

 高順は少し驚いた顔をする。

「え、愛妾……

 王司徒のあのご年齢で、ですか」

 呂布の配下でしかない高順には王允との直接的な接点はない。

 呂布に連れられた政庁で、遠目に見る好好爺然とした王允しか知らない。

 妓女を愛妾として抱えるような精力旺盛な人物には見えなかった。

「先日、市中で偶然王允に出会ったが、政庁では見せない激情を湛えた鋭い目をしていた。

 あれは精枯れた老臣などの目ではない。

 未だに野心を忘れず、欲望に燃える男の眼光だ。

 ある意味では太師にも似ている。

 政庁での姿は、それを隠す偽った姿だろう」

「しかし王司徒は清流派の儒者として高名な方と聞いております。

 何がご心配なのでしょうか」

 世評でしか王允を知らない高順は思い違いをしていた。

 それに伴う疑問を呂布は指摘し、答える。

「高順、清流派とは元々宦官を毛嫌いする連中が宦官共を指して濁流、自身を清流と呼んだだけの、意味のない言葉だ。

 聞こえの良さに惑わされるな。

 むしろそういった古き儒者は女や目下の者を自身の道具や駒としか見ない節がある。

 一方銀蓮は『その情、大海より深し』と言われる妖狐だ。

 王允の愛妾となっているのなら、当然その血に縛られている」

 妖狐にとっての房事とは本来の繁殖とは別に吸精、食事の意味がある。

 しかしそれは同時に、その異性が『妖狐の吸精に耐えうる気力体力に優れた生命強者である』と深層心理に深く刻み込まれ、強く束縛をされる事になる。

 尾も少なく未熟な妖狐であれば、それは隷属に近いものとなる。

 神仏に匹敵する力を持つ筈の妲己が、国が滅ぶ直前まで紂王の元を離れなかったのも妖狐の体に流れる血の束縛によるものであった。

 それは本能に近く、時に情深き妖魔と言われる事もある。

「もし王允が銀蓮を道具として何かに利用しようとしないか、それが気がかりでな」

「しかし殿。

 仮にそうなったとして相手は司徒。

 例え殿でもおいそれと手を出せる相手ではありませんぞ」

 呂布は黙って頷き、目を閉じる。

「そしてそもそも殿のその思いの根は何でしょう

 恋愛の情ですか。

 過去を取り戻したい後悔か、自責の念ですか。

 あるいは銀蓮殿の今日に至るまでの境遇を想っての同情ですか」

 高順は一旦言葉を区切り、手を翳して砂埃を避けた。

「もし同情心で手元に置こうとされても互い不幸な事にしかなりませんぞ。

 親愛の情でも幸いな事になるとも限りませんが」

 続けられた高順の言葉に呂布は鼻で大きく息を吐く。

「そうだな……

 それはわかっている」

「奥方に嫉妬されて面倒な事にもなりかねませんしな」

 呂布は目を開き、横目で高順を睨む。

「その一言は少し余計だ。

 そろそろ戻るぞ」

 だが目は怒ってはいない。

 高順は笑って手綱を引いた。

「雨に降られても困りますからな」

 練兵を終え、兵舎に戻る頃小さく冷たい滴が頬を打った。

「呂騎都尉、練兵の出来はいかがだったかな」

 持ち場に戻った呂布に声をかけてくる者があった。

「悪くはない。

 もはや大きな成果を求めるのではなく、小さな積み重ねが重要になってくる頃合いだ」

 呂布はそう答えながら声の主、同僚の徐栄の姿を足元から頭へと視線を移す。

「で、その柄にもない出で立ちはどうした」

 徐栄は普段の鎧ではなく、華美な刺繍が施された襦裙を身に纏っている。

「うむ、今夜これから王司徒からお呼ばれしていてな。

 今日はこれで失礼する」

 襟を正しながら言う徐栄の面持ちは少しにやけているようにも見える。

 絹特有の光沢を放つ襦裙は一目で相応の値打ち物だとわかる。

 本来武骨な徐栄であればこそ、余程心に期する何かを感じさせる。

「そうか、王司徒に……

 粗相のないようにな」

 呂布は妙な胸騒ぎを感じつつ、そう言って徐栄の背を見送った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る