第7話 ヒノキ青年




 さくらは朝早くから曽木の滝に向かった。今日20時発の飛行機に乗らなければならない。タイムリミットは17時なので、行きたい場所へ全て行ってしまいたかった。

 ガラッパ荘でスッキリした脳内と身体が気分を高揚させていた。こんなに体調が良いのは久しぶりだ。いつもは夜遅くに帰ってきて、お風呂に入る。ご飯を食べた後は布団に潜って鬱々と考え、泣いていた。今までの恨み妬み嫉みを自分の中で成長させては、何故自分が幸せになれないのか考えてみる。何か、悪いことをしただろうか。人を傷つけただろうか。傷つけられたことはあっても、傷つけたことはないはずだ。いや、知らぬ間に傷つけていて、その付けが回ってきたのかもしれない。そんなことを考えては涙が止まらなくなり、いつしか眠りについているという有様で、さくらはここ数年ぐっすり眠れたことがなかった。


 曽木の滝は美しいところだった。東洋のナイアガラと呼ばれるだけあって壮大な景色だ。ガラッパ荘で見た景色もここで見る景色も、自分が忘れていた何かを思い出させてくれるような美しさだった。私の心のなんと汚いことか。さくらはそう思った。この滝は勢いよく流れて、ただ流れて、こんなに美しい景色を作っている。私も流れる水のように生きれたら良かった。


フェンスに手をかけてじっと滝を見つめた。



「お姉さん、飛び降りはやめようね。」



後ろのベンチから若い男の声がした。さくらはふと振り返ると、少し茶色みがかった髪の青年がいた。彼は足を組み、手を後ろにつけて偉そうにこちらを見ている。前髪が目にかかって少し鬱陶しい印象だ。



「え、いや、飛び降りませんけど。」



少し恥ずかしくなり、さくらはフェンスから二歩下がってうつむいた。あまり人に会いたくなかったのに会ってしまった挙句、自殺すると思われるとは。さくらは早めに退散したくなった。



「冗談ですけどね。俺よくここに来るもんで、たまに思いつめた表情してる人がいたら声かけてるんだよね。まあボランティアみたいな感じ。」


「ああ、それはご親切にありがとう。」



そう言って彼の前を通り過ぎようとした。その時、彼は私をじっと見た。切れ長の目で、何か言いたげにこちらを見る。そして、彼は口を尖らせて口笛を吹いてみせた。



伊佐はとっても いーさ

鳥神山 高くそびえー



口笛と共に、さくらの脳内には子供たちの声がきこえる。

まるでその時だけ他の音が全て止まったかのように、音楽はさくらの脳内を占領した。そして、さくらは自分が彼を振り返るのがとてもゆっくりに思えた。

さくらの目は驚きを隠せず、彼を見つめることしか出来ない。そして、彼もさくらから目を離さない。



「おじいちゃんから言われてきたんだ。あんたを連れて来いって。昨日はガラッパの河童があんたを連れてきそこねた。」



さくらは驚き続けるしかなかった。どうして彼は夢の中のことを知っているんだろう。あれは私しか知らないはずだ。



「あなた、どうして。」



さくらはそれしか言うことができない。

青年は色白のほっぺをポリポリとなぞりながら、少し間抜けな顔をした。説明が面倒だなあとブツブツ言いながら、空に投げた目線をさくらに戻す。



「俺、ヒノキ。とりあえず今日はあんたのお守り係なんだ。よろしく頼むよ。」



そう言って、ダルそうに椅子から立ち上がると、さくらの前を通り過ぎてさくらを振り返った。



「良いもの見せてあげるからさ、ついて来いよ。」



さくらはゴクリと唾を飲み、覚悟を決めて彼のあとを追った。こんなに記憶が薄いのも、変な夢を見るのも、何故なのか。それは彼が知っている。

この人が変質者である感じはしなかったけれど、命の保証はない。けれど、さくらは命なんて惜しいとは思わなかった。彼について行けばわかる何かが知りたかった。

彼は、途中何度もさくらを振り返った。

そして、時折とても嬉しそうに笑った。




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