其の八

 辺りは未だ薄暗いのに目が覚めた。はあ、と一つため息をつく。砂漠は昼は暑く夜が寒い。だから今が気温的に丁度いい時間帯だ。先ず、バケツを見つけて井戸に水を汲みに行く。やはりこの時間の荒涼とした砂漠は好きだ。乾燥した風が少年の寝汗に濡れたシャツに気持ちよく吹き付けてきた。深呼吸を一つ。砂漠の砂を一歩一歩踏みしめながら井戸に行く。ふとG-SHOCKを覗く。時間は午前四時半。ふと、この腕時計を作った国に行くのだなと思うと不思議な気がした。

 井戸に近づいてきたが、人影が見える。勝呂三佐だ。「おはようございます。」と挨拶した。なんだろう、勝呂三佐の顔は確かにカッコいいのだが、どことなく胡散臭い。そして目の下の隈がめっちゃ濃い。あと煙草を吸っている。ポンプをギコギコ言わせながらバケツに水を入れている。「おや、おはようございます。よく眠れましたか。」と聞いてきた。「正直に言うとあんまり…然し勝呂三佐も早起きですね。」勝呂三佐は煙草を人差し指と中指でつまんで取り、フ―ッと息をついた。ニコチン特有の香りと白い煙が辺りを満たす。「そうですね、大体四時から水汲みをしています。これで16回目ですね。」少年は「すげっ」と呟いた。そもそも何故回数を数えるのか。「ところで昨日私の部屋に乱入したお嬢さん達はは、お友達ですか?」反射的に「はい。」と応える。昨日の夜のテントの中がゾワゾワと蘇った。「友達」という言葉は不思議な響きと感覚がする。「そうですか、やはりお嬢さん達も日本に連れて行った方が寂しく無いかもしれませんね。」「ところで勝呂三佐は何歳ですか?」何かヤバい方に行ったような気がして話題をすり替える。「ハハハ、今の話はお気に召さなかったですか。まあいいでしょう、私は三十二歳ですよ。」また話を戻す気だな。なるべく話を逸らしたかった。「嫁さんはいるのですか?」そう聞くと、急にゲホゲホ言い出して、バケツの水を飲んだ。「君は何を聞きたいのですか。」「いや、何か気になって。」まあいいでしょう、そう呟いて砂の上に腰を下ろした。「今は嫁さんというべきものでは無いのですが、まあ許嫁というお方なら居られます。でも実際に結婚するのは四年後ですね。」「其れはどういう意味で?」「実は許嫁殿は私の十八歳年下の十四歳の方なのです。」「其れぐらいの歳で結婚するのは当たり前じゃ無いのですか?」「ハハハ、此処らあたりはイスラム教の地域ですからね。然し日本では十八歳になるまで結婚できないと決まっていますからね。文化は地域によって違うのが実感できますね。」勝呂三佐の煙草の煙が空に向かってまっすぐ伸びていく。「あの、やっぱりアンさんとマリーさんを、俺と一緒に連れて行ってもらえますか。」勝呂三佐は煙草を軍靴で踏み付けながら「最初からそのつもりですよ。」と目を細めて言った。「さあ、水を汲みますよ。暑くなりますから。」

 「なあ、日本に行きたいか?」朝飯を食いながらアンさんに聞いてみた。「昨日の話?」スープがよそわれたスプーンを口に放り込む寸前に聞き返してきた。「あゝ、お前らがよかったらあの自衛官が日本に連れて行ってくれるらしい。」「で、クニオはどうするの?」暫く黙り、「行く。」とポツリ言った。するとマリーさんが駆け寄ってきた。「エッ!日本に行くの⁉︎マリーも行きたい!」相変わらずの調子ではしゃぐ。無論二人はマリーさんの計算を知らない。「でも、お前はどうする。」アンさんは口元を綻ばせて「そりゃー行くでしょ。此処に居たって死ぬのを待つだけだし、厳しい戒律も嫌。自由な普通の女の子になりたいな〜、なんて思う。マリーも行きたいと言っているし。」コロコロ笑いながら言ふ。「お前ならなれると思ふ。でもまあ俺が普通になるのは無理だな、もう人を百人は殺しているからな。其の日本では殆どの人が人の命を奪ったことがないからな。」思わず卑屈な笑みを浮かべた。其れを見たアンさんが口をぎゅっと結んだ。そして爆弾が爆発したかのように口を動かした。「クニオ!いじけるな!そりゃ私はクニオよりは普通になりやすいよ。だけどクニオが普通になれないなんてことは無い!否、私が普通にしてみせる!だから…だ、か、ら…ウッ、ウッ、ウワーン!」アンさんが大声を上げて泣き出した。周りの人達がどよめく。少年は何をすれば良いか分からなかったが、取り敢えず頭を撫でた。「ったく、俺のことでムキになるなよ。」

 「落ち着いたか?」そう聞くと少し不満そうな表情でコックリ頷いた。「取り敢えずテントで寝ろよ。」そう言ってしゃがんだ姿勢になった。其の上にアンさんが乗っかってきた。立ち上がり一歩一歩砂を踏み締める。横をマリーさんがチョコチョコついてくる。テントの中に入りアンさんを横にして、テントを出ようとするとアンさんが「一緒に寝よう。」と言ってきた。「どうした。」そう尋ねると「今は何処にも行ってほしくない。」仔犬の様な顔をしている。取り敢えず胡座をかく。「まあ、さっきはすまんかった。お前を泣かせてしもうてっ⁉︎」アンさんが突然起き上がり顔を近づけてきた。そしてアンさんの口を少年の口に合わせた。アンさんの舌が少年の舌に絡みつく。其れが気持ちよく少年も同じように舌を動かした。そして互いに口を吸いあっていた。

 アンさんが口をゆっくり離した。「はー、苦し。」そう言っても顔は笑っていた。少年は腕で口元を拭いた。「何か安心した。ありがとう、クニオ。」少年は「嗚呼、そうか。」と言ってテントを出た。

 「どうされましたか、國男君?」勝呂三佐からの話の最中に少年はポケーとしていたようだ。さっきの光景が頭にチラつく。取り敢えず勝呂三佐と今後の予定について話し合っている最中だ。「ええっと、取り敢えず勝呂さんが交代のため一週間後に日本に帰るからその時についていくのでしたよね。」「いや、十日後だ。」「すみません。」殆ど話が頭に入ってこない。「先程何かありましたか?」「ふぅぇッ⁉︎」思わず間抜けな声を上げてしまった。「これから、文先輩と呼んでいいですか?」そういうと文先輩は煙草の息を吐きながら「ほー」と呟き、ゆっくり灰皿に煙草を押し付けた。「やはり図星ですか?」少年はゆっくり深く首肯した。「まあ、詳しく話したくないのなら其れで良いですけど。」少年は起立して一礼した。其の後、詳細を決めて文先輩の部屋を出た。

 「取り敢えず十日後だからな、出発は。」ぶっきらぼうに二人にそう言った。どうもアンさんを見ているとさっきの事が蘇り、冷静にいられない。「わかったわ。」アンさんもそう呟くだけで、それ以上の会話は無かった。テントを出ると、マリーさんも後について来た。「ねえ、さっきテントの中でお姉ちゃんと何かあった?」少年はギクリとした。「ふーん、やっぱあったんだ。」口元が笑っている。少年は観念して、首を縦に振った。「やっぱり、昨日のアレの後、お姉ちゃんの様子がおかしかったもんね。まあお姉ちゃんは箱入り娘みたいなものだからね、私と違って。」「ん?私と違って、だって?」何か引っ掛かった。「嗚呼そうか。お兄ちゃんには話して無かったか。」独り言の様に呟いた。然しマリーさんはニッコリして「ああ、気にしないでね。」と気丈に振る舞うが、少年には其れが虚勢に見えた。

 目を開けると昌福が机の上に問題集とノートを広げて、其れを解いていた。「アレ?俺寝てたっけ?」確か回想を語り出して、其の後どうなった?「おはようございます、って言ってももう十五時ですけど。最初の方の初陣の話はわかったのですけど、其の後完全に寝落ちしてましたよ。」そうか。「いやあ、スマンスマン。メシは食ったか?」「この部屋に誰かいるのをバレるとマズイのでね、あと例の件もありますから、給食は食ってません。」そう昌福が言うのと同時にギュルルーと彼の腹が鳴った。「すみません。」昌福は小さくなって言う。「嗚呼、じゃあラーメン奢るわ。いい店を知っている。」

 学校からチャリを飛ばして二十五分のところにあるオンボロなショッピングモールに来た。元々百貨店が入っていたらしいが撤退してパチンコ大手の企業が買収したと聞く。噂によると建築基準法の前に出来たから、地震が来たら一発で潰れるらしい。そういうオンボロなところに美味いラーメン屋が入っている。向かいのテナントがパチンコ屋なのでパチンコ屋ならではの喧騒に包まれている。そこは豚骨醤油ラーメンが売りだ。一杯六百五十円と割高だが、其れでも金額に見合う味だ。濃厚な豚骨のスープに醤油に濃口の醤油が効いて、舌の上にとろりとした脂とさっぱりした醤油が乗っかる不思議な味だ。少年は土曜の晩にいつも来る常連だ。だからなのか、ラーメン屋の大将は少し驚いた顔をした。「どうしたんだい、國さんこんな平日の真っ昼間に。」「ちょっとコイツにメシ奢らないけん事情があってのう。まあ、いつものヤツ二つ。」「へいまいど!」

 まず、スープだけを一口飲む。そして麺を啜る。口の中にスープを流し込む。味変に胡椒を三振り。また同じくスープを口の中に流し込み、麺を啜る。次にシナチク、ナルトを食べる。「大将、又別の例のやつ。」大将は牛筋煮込み串を二本出す。「サービスしとくぜ。」「あざっす。」美味い。昌福も無言でひたすら麺を啜る。

 「大将、チャーシュー麺二つ。」何か聞き覚えのある声だなと思い、顔を上げると、少年はスープで咽せた。「ぶっ、文先輩⁉︎」「おや、國さんではないですか。」文先輩の横にはセーラー服を着て、頭の上の紅いリボンをつけた少女が居た。軽く眴をして、今、口の中の麺とスープを急いで飲み込んだ。「こんちわ。」「こんにちわ。」丁寧な挨拶だ。「嗚呼、姫花さんこの人が例の白沢君です。そして國さん、この人は」其の姫花という少女が文先輩の言葉を遮る。「は、初めまして、私は文様の許嫁の華岡姫花と、申します。」この人か。そう思った矢先、昌福がゲホッゲホッと咽せた。「えっと、どちらの中学校ですか。」当たり障りの無い様な話を訊く。「第三中学校です。ちなみに部活は家庭科部です。」もしや、と思った。「水谷杏さんを知っていますか?」向こうは一瞬驚いたのか会話が途切れる。「何で、アンちゃんの事を知っているのですか。」「ちょっとね。」流石に言えないな。「いえ、文様からお伺いしています。國男君は歴戦の荒武者でアンちゃん姉妹は難民だと言うことは。アンちゃんから聞いたんです。」吃驚した。何故少年の事を。「無論秘密は守りますよ。それにしても、何かアンちゃんから聞いた國さんのイメージと実物は何か、迫力というか貫禄がないというか。」「自分で言うのもなんですが、こう見えても気配を隠すのは結構得意ですよ。実際戦闘に於いては敵に如何にこちらの気配を感じさせない事が肝要になるからなあ、そうですよね、文先輩。」「御明察で。」そう言って文先輩は煙草を取り出して、火をつけた。いつのまにか文先輩の皿は空になっていた。

 「お家ではどうなさっているのですか?」姫花さんは俺に聞いて来た。「まあ俺は体力と技術が鈍らない様に、学校から帰ってきたら他の自衛官達と同じ訓練を受けとる。其の間に洗濯や掃除をアンさんやマリーさんがやってくれたら助かるのだがなあ。家に帰ってきても学校の宿題が忙しいのか飯の時以外ずっと自分の部屋に籠って何かしているんだ。」そう言い終わると姫花さんは何か勘付いた顔をした。「ハハーン、そういうことね。」そして少しにやけていた。「何すか。」「鈍感っすね、先輩。」昌福も口を挟んできた。「何が鈍感だ。俺は今まで一度も敵に不意打ちされたことは無いぞ。」「じゃあ朴念仁。」「別に良いことだろ。俺は戦場上がりだからな。」姫花が突然話に割り込んできた。「そういう意味じゃ無いのですよね、文様。」文先輩は煙草を灰皿に押し付けながら「そうですね。」と言った。「ぶっ、文先輩まで。」また昌福が口を挟む。「じゃあこう言えば分かりますか。其のアンさんとかいう姉ちゃんは、先輩の事を好きなんですよ。」少年は飲んでた麦茶を噴き出した。「んな訳あるかあ!そもそも、何で俺が。いっつもパシリさせられて。」そう言った直後少年は首を垂れて黙ってしまった。

 間を繋ぐ様に姫花さんは言う。「確かに部活ではアンちゃんはいつも國男君の文句を言っています。だけどそう文句を言っている時が一番笑っているの。普段教室じゃあ滅多に表情を出さないのに。」この事は少年にとって意外だった。思わず顔を上げた。「其れに気付いた時からその文句が惚気に聞こえる様になったの。アンちゃんは心を傷を國男君に見せない様にしているのだと思うの。だってアンちゃんは國男君になるべく気丈に振る舞いたいのだと思うから。」姫花さんは一息吸って俺に面と向かって言う。「お願いだからアンちゃんの事を心から受け入れてあげて。そうじゃなかったらあの子が可哀想よ。國男君しかアンちゃんの心の傷を慰められないから。」

 少年はポツリと言った。「怖い。」姫花さんの目が見開いた。「アンさんは確かに俺の大事な人だ。だけど他の人を心の中に受け入れるのが、怖い、です。なぜならそうするとその人を傷つけて不幸にしてしまいそうなので。アンさんの過去を俺は知らないわけじゃないので、そりゃあ幸せでいてほしい。そうなる為に俺が其の幸せの踏み台になっても構わない。だから俺はこの国で自衛官をしている。俺みたいな奴はさっさと死ぬのが吉さ。」突然文先輩が立ち上がって少年の方を見た。「國さん、お前は其のオヤジさんから何を教わったのか。」「生き残る術。」「だったら其の教えに恥じない様にしなさい。自分の心の傷は何なのか、よくよく学びなさい。」わっかんねえ。バカだからすぐに答えが出ない。だから考えるしかない。

 遠き月 映るる闇は こころかな 

  己の亡骸 水面の様に

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