第三話 犬辺野家が祀りしモノ

 入り口に戸はなかった。

 ただ、黒々とした奈落が、大きく口を開けていた。

 誰知らず、ゴクリと唾を呑む。


 もしも単純な肝試しに来ていたのなら、この場で回れ右をしていただろう。

 それほどの圧迫感。

 近づいてはならないという、本能の警告がやかましく鳴り響いている。


 以前センセーは、俺が日だまりの中にいるから、恐ろしいものたちが見つけやすく、寄りつくのだと説明してくれた。

 ならば、ここに在るのは無明の闇だ。

 遠くからではなにもうかがい知ることが出来ない暗黒が口を開いているので、思わず覗き込んでしまう。

 深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているとは、俺ですら知っている哲学者の言葉だが。

 同じことが、この屋敷にも言えた。


 きっと、取り返しの付かないことになるという確信。

 人が持ちうる、原初の闇に対する恐怖。

 全員が、凍り付いたように動けない。

 絶対的に肉体が、精神が侵入することを拒んでいる。


「――い、行こうよ」


 一歩、踏み出したものがいた。

 小春。

 彼女はぎゅっと魔鏡を握りしめ、俺たちを振り返り。

 胸の前で、強く拳を結ぶ。

 そうだ、ここに来た理由を忘れてはならない。


 犬辺野家がまつる神――〝ぬえ〟の正体を暴き、対策を立てること。

 だから。


「行こう」


 俺は、彼女の横に並んだ。

 頷き合い、さらに一歩を踏み出す。


「やれやれ。若人わこうどたちを先に立たせるなんて、怪奇作家失格だね」

「……これ、やっぱわたしも行かなきゃ駄目ですかねぇ。いえ。置いてかれるのはもっと御免被ごめんこうむりますが」


 センセーと海藤さんが、軽口を叩きながら動き出す。

 俺たちは、ついに〝鵺〟を祀る総本山へと突入する。



§§



 屋内は、想像よりも遙かに保存状態がよかった。

 蜘蛛の巣ひとつなく。

 ホコリすらも積もっていない。

 屋根が崩れたり、床が抜けているなんて事もないし、まるで定期的に掃除がされているようだった。


 壁に貼り付けられたカレンダーは、四十年以上前を示している。

 あるいは、ここでは時が止まっているのかも知れない。


「箱は、ないようだね」


 センセーが言っているのは、幽霊屋敷にあった鏡が入った箱のことだろう。

 確かに、見当たらない。

 家具などはそのままなので、もしかしたらと思い、タンスを開けてみるが、中身は空だった。


「切人くん。土岐洲町の幽霊屋敷へ、実際に入ったのは君だけだ。様子は違っているかい?」

「……カビの臭いがしない。床や屋根が壊れてないことを除けば、だいたい間取りは同じような感じです」

「ふむ……」


 全員が、身を寄せ合うようにして、奥へと進む。

 風呂、台所、廊下、寝室、奥座敷。

 なにも、おかしなものはない。

 なにもなさ過ぎる。


「……あれ?」


 パシャパシャと写真を撮っていた海藤さんが、怪訝けげんそうな声を上げた。


「どうしたんすか」

「いえね、どうにも違和感がありまして」


 彼は撮影した写真をチェックしながら、頻りに首を傾ぐ。


「ここだけ、オーブが映らないんですよ」


 いいながら、彼が指差したのは、奥座敷にある押し入れだった。

 土岐洲町では、仏壇のようなものがあった場所。

 ここだけ、露骨に配置が違う。


 俺は、無言でふすまに手をかけた。

 ギシッと音が鳴り、戸が横に滑る。


 そこには――階段があった。

 地下へと続く、階段が。


 驚きはなかった。

 ただ、全員が覚悟を新たにして。

 降る。


 それほど長い階段ではなく、数度呼吸をする間に階下へと降りることが出来た。

 幽霊屋敷も床が高かったが、ここはどうやら地下を掘っているらしい。

 ライトを前方へと照らす。

 物々しい扉が、そこにはあった。


「開けるぞ」


 自分に言い聞かせるように口に出して。

 俺は、扉を押し開ける。

 キラリと、なにかが光を反射した。


「鏡だ」


 センセーの声は、わずかな感慨かんがいを含んでいた。

 二十畳ほどもある半地下に、所狭しと鏡が並べられている。

 よくよくみると、すべての鏡が同じ方向――奥に面した白塗り壁を指していた。

 そうして、部屋の真ん中には、何本ものろうそくが並んでいる。


「ひょっとして……魔鏡じゃない?」


 小春がつぶやいた言葉を、俺たちは無条件で正しいと感じた。

 センセーが歩みだし、ポケットからおもむろにライターを取り出す。

 ろうそくに、一つ、二つ、三つと火がともる。

 初めは弱々しかったあかりが、徐々に大きくなっていく。

 揺れ動く灯火ともしびに照らされて、俺たちの影が蠢動しゅんどうする。

 すべてのろうそくに火をともし終えたセンセーが、こちらへと戻り。


 そうして、俺たちはた。


「〝鵺〟」


 光を反射した鏡が、一点へと光を集める。

 魔鏡。

 鏡面のわずかな凸凹によって、反射した光に濃淡を与える祭器。

 無数の赤い光が束ねられて浮かび上がったのは、異形だった。


 蛇の尾を持ち、狗のような体毛を全身にはやして、鋭いかぎ爪を持った結跏趺坐けっかふざの像。

 その頭は、角をいただく山羊のようで。


「犬辺野家が祀っていたのは、鵺ではなかった。まして、これは、神などではない……神などと、呼ぶことすらおこがましいっ」


 水留浄一が。

 震える喉で。

 唾棄するように、吐き捨てた。


「彼らが崇拝したモノ、それは」


 それは。



「――〝悪魔〟だ」


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