第13話 神聖王の臣下・ウル

 屋根の崩れた農家の庭の、天水井戸チュルトゥン

 地面に壷の口のようにすぼまった汲み上げ口があり、底に行くほど広がっている、雨を貯めておくために掘られた天水井戸。

 廃された穴は乾いて、ぱっくり口をあけていた。

 ガサッと音がしたのはそのあたりだ。

 念のために、チタムは冷刃を放った。

 ドスドスドス!と突き刺さった。

 声はしない。

 誰もいないらしい。

「猿でもいたか……」

 そのとき、バサバサバサ……と穴から影が、

「なんだ、鳥かよ。眠ってるところを起こしちまったか……、下に木が生えていたのかな」



 そのチタムの声を聞いている、穴の底のバーツはというと、膝ごと自分をきつく抱きかかえ、心臓が、飛び出しかねない。

 不注意で穴に落ちて、物音をたてた。チタムの注意を逸らせられたのは、懐炉代わりに服に入れてきていた、空色の鸚鵡のおかげだ。



「剣呑。私がいたら、どうする気だ」

 天水井戸チュルトゥンとは違う方向から声がして、地上でチタムは、ぎくっと振り向いた。

 誰もいないと思っていた岩の丸彫りの陰から、スキンヘッドの大男が現れる。

 息をのむチタム。

 生きて会うはずのない人物。

 ひやりとして、周囲を見回す。

 唇が厚く、まつげの長いその男の顔立ちは、髪の色を染めただけで別人になりすませた自分より特徴的で、人々の記憶に刻まれていよう。その名と共に。

「お、お前……」

「ラカン、と呼べばよいではないか。かつてのように。久しぶりだな、ウルよ」

 その名を出すな! 誰かに聞かれたら、とチタムは拳を握る。心臓のあたりを掴む。落ち着け、と言い聞かせる。

「早速だが、神聖王ワシャクムート様が、お前の助力を欲している。私とともに還れと、ありがたい仰せだ」

「あっ」

 焼けた石を押しつけられたように、悲鳴が漏れたチタム。

 どうしようもなく、心がうずいたためだった。

 名を聞いて、神聖王のお姿を思い出してしまった。

 崇敬していた御方の眼を見、言葉を聴くことを、切望する。

 チタムはかつて、前々神聖王を、続いて前神聖王を、崇拝していた。

 カトゥンの暦の始まりの日という遠い過去から三千五百年も続く神聖王たちの引力は、効く者には未だに効きすぎるほどに効く。

 特に、神聖王に流浪者の身分から拾われて、居場所と仕事とを与えられて孤独を癒されたウルつまりチタムは、神聖王に依存し、依存されるのを快とする心の癖を植えつけられていた。

 神聖王と接触しなくなって久しかったとはいえ、かつての戦士仲間に接触され、帰還を望まれていると聞かされただけで、昔のように彼の僕になりたいという、度し難い気持ちが湧きあがった。

 慕わしくて、たまらない。

「黙って姿を消した罪を許し、帰還を許す故、都の翡翠の配置地図を持ってきてくれとお望みだ。今も変わらぬ敬愛の証に」

 チタムは、意気込んでうなずきそうになり、危うく、首を振った。

「断るか。あのお方が傷つくぞ」

「あっ!」

 こんどは胸が裂かれる痛みを覚えた。

 傷つけるのは厭だった。

 悪いことはしたくなかった。

 あの美しい方には。

「冗談だ、お前が帰ってきてくれたら、それで十分だ、とおっしゃっていた」

 気づくとチタムは、うずくまり、目をじんわりとにじませていた。

 安堵で、ほーっと吐息をつく。

 思い起こせば、かつてもいつもこうだった。

 四年離れていた罪悪感で、ドキドキしてきた。

 やはり、あの方のそばにいたい。

 いつも心の底ではそう思ってきたこの四年間の日々だった、と、今、思い知った。

「よし、私と共に還るな? ウル」

「い、いやだ」

 チタムは、自制心のありったけを総動員。

 思い出せ自分、と、頭を抱える。

 もう一度神聖王の元に戻って、同じ苦しみを繰り返すのか。

 チタムは過去、神聖王の側近の戦士として戦闘能力を磨いた。

 が、神聖王にどれほど尽くそうととも神聖王はチタムに報いないと気付いて、幸福になるために、神聖王から離れた。

「誰が勝手に姿を消した!! オレは、オレは、オレのほうが王様に裏切られたんだ!」

 声に込もった勇気に呼応するように、曙光が闇を打ち払った。

 新鮮な朝の陽光が時を告げ、とたんに気温が上がりだし、湿気が腐葉土から立ち上って、真っ白な靄があたりに渦を巻く。

「未熟な葛藤だな。愛とは、見返りを求めんことだ。それが魂の救済される、たった一つの道であると、……」

 チタムはぞっと耳を塞いだ。これを聞いてはいけない。

 だが体が聞きたがっている。

 いつものラカンたち、神聖王崇拝者たちの説。

 無音のチタムの視界の中で、ラカンは分厚い唇を動かし続け、聞け!!と、冷刃エツナブを放った。

 ハッとして、チタム、迎撃の冷刃。

 手が塞いだ耳から外れてしまった。

 それがラカンの目論見だった。

 続けて語り聞かせようと、ラカンは次々に攻撃した。

 チタムは恐怖した。

 ヒョウタン片手のチタムと違い、大男は水を持っていない。

 なぜ打てる!

 至近距離での撃ち合いになる。

 発生して渦巻く靄を逆流させて、めまぐるしく入れ替わる相対位置。

 ラカンと思えば靄に映った影であり、影かと思えばラカンである。

「そうか、靄も水、これを打っているのか!」

「他の誰が見抜くだろう、さすがウルよ! 天才め!」

 柔らかな地面に、鋭い痕が、透明に穿たれていく。

 射線が交錯。

「こんな水まで使うのか!! なんて発想力だ一体!! でも、オレは、もっと異様な水を使ったことがある。分かるかよ?!」

「……涙か」

「なんでか分かるか!! いつのことだか分かるかア!」

「あの方のご敗走の折か。負傷したお前を置き去りにしたこと、王は、迷ってなどいなかったぞ。ウルなら分かってくれる、犠牲になることを誇りに思ってくれる、と、信頼しきっていらっしゃった。お前は殿軍として手持ちの水を撃ち尽くし、涙まで使って生き延びておきながら、何故、戻ってこなかった? 王は本日、戻ってきたアフの部下の生き残りからお前の生存を知って、ならば何故、と。見放された幼な子のように、悲しげであったぞ」

 チタムは、ドキリとした。

 不安で、今すぐ、神聖王の足下にひれ伏したくなってしまっていた。

「そも、王が敗走をよぎなくされたのも、お前が負傷などしたせいではないか!!」

「なっ……!!」

「痛かったか? 負傷した者を鞭打つな、と?! さように報いを求めおるから、お前は、辛くなるのだと何度、言ったら悟る!!」

 ラカンの連射一方になった。

「報われなくとも尽くすのが僕の道、それが幸福!」

 チタムの水は、尽きてしまった。

「尽くされようと考えるな、尽くそうと思える相手がいることが、幸福!」

 靄を捕らえて使いこなすなど、思ってもできない。

「それこそが尊い想いというものだ、徳の高いふるまいだ!」

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