「お前もずっと一人だったのか?」


 シゲルは一通り泣きはらした後、数分を置いてタスケに声をかけた。まだ、緩まっている涙腺をぐっと堪えていた。

 佐世保の海は夜の色に染まって、不動のまま目の前で月を映している。夏の夜にしては涼しい、生温い風が二人の短く切った髪をゆれゆれと靡かせ、騒めいていた。


「人は、一人じゃ生きていけないって言うだろ? 俺だってずっと一人だったわけじゃない」

「だが、伏龍ってのは『孤独に耐えうる者』が条件で選ばれるんだろ? だったら、孤独に慣れているからこそ選ばれるべきだろう」

「んん……どうかな」


 タスケとシゲルは、浜辺で焚火をしながら、少しずつ流れる時間を感じていたのだ。カーキ色の軍装が砂で汚れてしまうのが嫌だといって、タスケは尻に色の褪せて朱色になった布を置いて、腰を深くして座っていて、シゲルはどうせもう汚れているならと、そのまま手を膝に据えていた。

 二人は伏龍に選ばれ、いずれ敵艦隊に突っ込み、死ぬ運命を背負わされた少年であった。成人もしていない、まだ垢抜けない顔で只々、今、その命を燃やし尽くすことから離れ、海を覗き込んでいる。


「俺はこの地で生まれて、この地で死ぬ」


 タスケはゆったりとした表情で、つらつらと言葉を作る。


「小さいころからこの海を見てな、育ってきたんだ。この町は『海軍の街』だなんて呼ばれててさ、そりゃこの海では凄くたくさん人が訓練してたし、怒号が聞こえることもあったし、楽しそうな笑い声が聞こえることもあった。それが海軍だってずっと父親から言われてきて、ちょっとした憧れみたいになっていたんだ。まだ頭ではちゃんと理解もしてないしさ。ただ、楽しそうに皆と過ごしている声が魅力的で、時々近くで見る兵隊さんも、皆俺に優しくしてくれて、最後は笑顔で手を振ってどこかに行ってしまうんだよ。そして、もう帰ってくることはなくて、俺はずっと不思議に思っていた」

「……やめてくれ。それ以上は、今は考えたくない」

「そんなこと言っても、考えないほうが無理だろう? 俺はさっきお前の話を聞いたんだ。今回はじっくり話させてもらうぞ」


 タスケはそう言って、少しばかり笑った。


「今考えるとさ、その人たちは本当に帰らぬ人になってしまったんだなって」

「そうだろうな、笑えねぇぞ」

「本当、笑えないよ。……俺がそれを知ったのは、父親が兵士として戦場に散った時だ。父親が帰ってこなくなった時、今まで俺へ手を振った人たちの顔が一気に蘇って、教えてくるんだよ。『もう会えない』って。それで、俺は初めて人は消えてしまうことを憶えた」


 赤赤と燃ゆる炎が、入道雲のような煙を上へ上へと巻き上がらせていた。その煙は、不思議とある程度の高さになると無くなったかのように見えなくなっていて、空の一部になったように見える。


「俺は、その頃から、やけに人々の言葉が安っぽく聞こえるようになってきたんだ。そこら中から聞こえてくる、戦争を賛美し、戦争に尽くす者を称賛し、俺たちにも同じことを欲求してくる社会が、なんだか全部嘘っぱちの様な気がして堪らなかった。それはきっと、父親が死んだことに、どうしても納得のいかなかった自分がいたからなんだと思う。戦争が殺した父親が本当に偉くてすごいのか、そんな簡単な答えでいいのだろうか、もっと別の方法があるのではないか。そんなことを考え続けたんだ。そして、最後には戦争が全部悪いってことに気づいた。戦争があるからこそ、俺の周りの人は死んでいくし、知らないところで知らない人が涙を流す。だけど、それを褒めたたえる社会がある。……頭がおかしくなるぐらい悩んで、もう誰とも話したくなくなって、ずぅっと海を見ていたんだ。今俺たちが見ている佐世保の海を、沢山の人の声を混ぜ合わせた音と一緒に。その頃ぐらいから俺は孤独になったのかもしれない。誰とも話さなかったんだ、皆が怖くて仕方がなかったから。皆が教育という名のもとで洗脳されて、足の根本から頭のてっぺんまで戦争に向けて、『自分も戦場で死ぬ』って本気で言ってるが、なんだか心から同情……というか、寂しくて。こいつもいつか戦場で死ぬのかもしれないと思うと、怖くて。だから、もう関わらないようにしようと思って孤独でいることを選んだ。ただ一人、この海を見て、あんまり考えすぎないようにって」

「じゃあお前は、孤独に耐えられたってことか?」

「……俺は孤独ってのが恐ろしいと思う前に、この社会が恐ろしいと思ってしまったんだ。だからこそ、孤独に耐えるしかなかった。沢山の人に囲まれていたこの海を愛していたんだ。俺はすごく臆病で、皆と面と面を向かって話すのが嫌だったから、この場所で聞く声を味わって、一つ一つを丹念込めて聞いて、それだけで救われようとしていた」


 タスケは今、目の前に広がる潮風を喉で震わせる。その音は決して大きいものではなかったが、もう一人の男の耳にはやけに反響して聞こえるようだった。

 タスケは几帳面な男で、昔から考えすぎる性格だった。明日には塵になるであろう軍装を未だに綺麗に残しておこうという思案や、皆が信じていたものを疑って自ら答えを導きだそうと、頭で何度も自問自答をしていた。少し前までは、なぜ自分が戦争の為に死ななければならないのかと考え続けていたが、その答えは曖昧のものしか出てこなかった。例えば、どうせこのまま戦争が続けば死ぬのだから今死んでおくだとか、これが決められたことだからだとか、そんな戯言ばっかりだった。それでもなお、タスケにとって海を見るという行為は、死を受けいる唯一の肯定的な対象であった。だから、心穏やかに語っていられた。

 それを聞いていたシゲルは、さっきまでの自分の惰性が恥ずかしく思えていた。シゲルはただ死ぬのが嫌で、涙を流していた。

 シゲルは小さいころに母親と父親を空襲で亡くしており、その後は祖父母の家に引き取られ、それもまた潮風の通る小さな町で過ごしていた。祖父母は何か吹っ切れたように、シゲルの両親が死んだ意義を、シゲルに毎日のように語った。「お前を守って死んだ」だとか「戦争の為に死んだ、これは無意味な死ではない」と、頭に刷り込まされた。それでもなお、シゲルは親が死んだことに納得がいかなかった。何度も枕を濡らしては、その意味を考えるわけでなく、ずっと否定的に物事を考えるようになった。

 町の子供は、残酷だった。皆が皆、シゲルの親のことを「羨ましい」と口にするのだ。それを我慢して、思いを内に引っ込めては笑い、嘘を繕った。しかし、そんなシゲルでもある時突然、孤独になってしまった。それはまだその町に来て一年経たない頃、年も両手で足りるほどの時だった。

 シゲルには特に仲のいい友達が、一人いた。名前はユウサクと言って、その子供も、両親を空襲で亡くし、この町に越してきたというのだ。ユウサクはよく、「俺の父さんと母さんは名誉な死だった」と、鼻高々に語った。最初は思いの違いにあまり好きになれなかったシゲルだが、日がたつにつれ、同じ境遇のユウサクに惹かれていき、自分みたいに嘘を身にまとってそんな言葉を言っているんじゃないかと思うようになった。そして、堤防の上に足を浮かせながら座り、空の高い冬の海を眺めながら、シゲルはユウサクにすべてを話した。自分が今まで嘘をついて笑っていたこと、本当は親の死に意味を感じていなかったこと。包み隠さず、全てを投げ出した。

 一通り話し終えるまで、ユウサクは黙ったままであったが、話し終えた瞬間に小さい爆弾が炸裂するよな勢いで、こんなことを言った。


「贅沢な悩みだな」


 シゲルは思わず耳を尖らせて聞いた。ユウサクはその後も、シゲルを嘲笑するような素振りで話をする。


「お前の親の死に意味がないだとか、そんなの決めつけているのはお前だろう。俺は両親が死んでよかったと思う。それによって心が固まって、御国の為に尽くせるようになるんだったら、親の二人分の命よりも多くの命を守り、相手国の多くの命を奪えるのならそれでいいと思う」

「……お前が殺したいと言っている相手国の兵士にだって、家族がいて、繋がりをたくさん持ってて」

「お前馬鹿か。本当に馬鹿なのか。逆にお前は自分の親の死を無駄にしたいのか、そうじゃないだろう? だったら戦うしかないじゃないか。それでお前が活躍するのであれば、お前の母や父は正しい死であったはずだ」


 シゲルは「正しい死」という言葉を聞いた瞬間、頭の中でぷつんと、大きく響いたような気がした。そこからは、目の瞬くような速さだった。

 ユウサクは左頬に飛びつく拳によって、勢いよく堤防から落ち、地面に頭をぶつける。鈍い音を出し、頭を抱えながら何が起きたのかわからないように立ち上がる。ふと抑えた右手には、微量ながら血が付いていた。夕闇が迫った山吹色の光の陰にいるユウサクを、シゲル自身も何があったかわからないように見つめて、二人は一寸の間目を合わす。そのまま、ユウサクは何も言わず去っていった。それをぼうっと、シゲルは見ているだけだった。

 そこからは、ユウサクを殴り怪我をさせた張本人として、子供からは勿論、大人からさえも遠目に見られるようになり、日々孤独に耐える生活となった。

 シゲルは、本当にそれが辛かった。


「お前が海軍に入った理由、当ててみようか?」


 藪から棒に、タスケはシゲルを指を差していった。


「海が近くにあると、思えたからだろう」

「なんで、そう思ったんだ」

「だってお前、海が好きだろう? 俺もそうだからさ」

「……当たりだよ。まぁ、無理やり陸軍に入らせられるならばって所もあったが」


 二人は短い笑いを溢し合った。タスケは笑いの余韻紛れに、こんなことを言った。


「今日で夜の海は見納めだ。明日ここは戦場になって、俺たちだけじゃない、沢山の人が散っていく。今だって、兵士たちは俺らの見えないところで仕事をしていて、明日の為に俺らの着る防護服を準備して、多くの怒号に塗れている。だけど俺たちはここでこうして、海を見ていられる。それは、俺らが明日、確実に死ぬということが分かっているからなんだよ。生きる道が残っていないから、見納めになってしまうんだよな」


 タスケが言った言葉に、シゲルはまたもや、胸を締め付けられるような感覚に陥った。


「死ぬのは、怖いか?」

「そりゃ、もう」

「それにしては、穏やかだな」

「そうか?」

「そうだ」

「そう言っているお前も、随分と穏やかだ。さっきまでの泣き面とはオサラバしたんだな。あんなに、『死ぬのが嫌だ』だとか吠えていたくせに」


 シゲルは顔を赤らめて、小声で「うるせぇ」と言った。それでも、浜辺に聞こえる音は漣の波を巻いていく音だけだったから、タスケの耳にはしっかりとその言葉が聞こえていた。


「まだ泣けるか?」

「泣けるもんか、そんなこと言われて」

「最後の夜だぞ」

「最後の夜だからだ」


 二人の間は、暫くの静謐が制した。

 明日の朝、この海は晴れた青を見せてくるだろうか。海中で黙りこくっている龍は、二人に微笑んで昇華してくれるだろうか。この海は、月を掴んで離さない。反射する淡い月の光を、焚火の炎と共に四つの影を別方向に描かせる。耳元を過る小さな砂の粒が、潮の匂いを思い起こさせる。


「俺は、幸せ者なのかもな」と、シゲルは言う。


 夜の深まった海は、夕闇とは違う底知れぬ深さを漂わせており、まるで世界を吸い込むような容貌をしていた。陸から海へ流れる風が、それを余計に思わせるようだった。空気が、その空間へ呼び起こされるような。


「幸せ者? なんでだ。俺らは明日には死ぬ運命なんだぞ」


 タスケは不思議そうな顔をして、シゲルの顔を覗き込む。


「俺らは孤独に耐えてきて、今まで生きてきた。そんな糞みたいな人生の最後を、お前という友と一緒に過ごせるんだ。これは幸福なことだろう?」

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