取引32 花束レゾリューション


 エレベーターが階を上る。以前にミアと乗った時は、あっという間に到着したが、今はその倍以上の時間がかかっているように感じた。


(……あと少しで、ミアの和室だ)


 思い出す。この前ここを訪れた時の、ドキドキ感と、ミアのてた抹茶の味。それらがものすごく前の出来事に感じられて、胸が痛むと共に勇気が湧いてくる。


(……今、いくぞ、ミア……)


 チン、と音が鳴って扉が開く。駆け足で階に踏み込んで、


「ミア……!」


 しかし、次の瞬間、横から手が伸びて何者かに腕を掴まれる。


「……ッ!」


 信じられないくらいの勢いで視界が上下反転し、天井が見える。少し遅れて、背中や腰に鈍い痛みが走った。投げられた、との自覚と共に、デジャブの間隔がした。しかし、身体に焼き付けられた痛みの記憶とは、かなりの練度の差を感じ、その違和感から周囲を見回す。

 米太の視界に入ってきた顔は、


「……ジョエルッ」

「これはこれは、お急ぎのところ大変失礼ながら、ミア様はこちらにはおりませぬ。貴方に気付いて、安全な場所に避難していただきましたので」


 ジョエルは乱れた手袋の裾を引き、皺を伸ばしながら、


「しかし、身に覚えがあると思いませぬか、この技……」

「まさか……」

「お察しの通りにございます、ミア様に護身術をお教えしたのは、わたくしめにございます」

「ちょっと待て。どうしてそんなこと、アンタが……?」

「全部お見通しでございますよ、わたくしめにかかれば、ね?」


 米太の顔に向けて、写真が投げられる。内容を見た米太が、戦慄した。監視カメラを印刷したような低画質だが、土下座から半裸まで米太とミアの密会がことごとく写っていた。


「……無策で放り出すとお思いですか、エレセリの公女という御方を」

「……これ、本人には?」

「もちろん言っておりませぬ。それどころか、メリッサでも知らないでしょう。……ああ、そうでした。こちらも失礼します、旦那様」


 ジョエルは長身を屈めて写真を拾った後で、米太のポケットから財布を抜き取り、その中から硬貨を一枚取り出す。……しかし、よく見るとそれは硬貨ではなく、


「……なんだ、それ」

「いわゆる盗聴器にございます」

「……は? ……何、言ってんだ、アンタ……」

「全部お見通しと、申したはずですよ、花野井米太様。貴方のように金銭に執着のある人間なら、財布を常に持ち歩くと思ったのですが、……実際その通りにございました」

「……そんな……」

 

 あの時だ。と米太は以前にここに来た時のことを想起する。セキュリティチェックと称して荷物を調べた隙に、こんなものを仕込まれていたとは。ここまで気付いていなかった自分が悔しく、歯噛みをする。


「しかし、なんとも滑稽な話です」

「あれほど、金銭を手にするチャンスを何度も作ってあげたというのに。それにも関わらず、このザマですか。妹君の可哀そうなこと。……わたくしめとて心が痛みますが、お金は返してもらうことにしましょう。もちろん、ミア様に会うことは許しませぬ」


 深く刻まれた皺の奥から、鋭い眼光が米太を貫き、


「貴方には、若さゆえの痛い失敗談として、記憶上の人物になっていただきます。この件があってこそミア様、……否、次期エレセリ公は、そのお立場に相応しい人格へと成長なさることでしょう。貴方にできるのは、せいぜいそのことを糧に、自らを慰むことくらいです」

「……そんな……!」

「幸いにも貴方はまだお若い。異性との出会いなど腐るほどあることでしょうし、ただ相手が悪かっただけ、そうお思いになって、どうかお引き取りくださいませ」


 丁重ながらも、冷たく突き放すような口調で、ジョエルが言う。ショックを受けた表情の米太は、それでもゆっくりと身体を起こし、


「確かに、……アンタの言う通りかもしれない、でも」


「…………残念ながら、それは、できない相談だ」


 自虐的な笑みを浮かべながら、口を開いた。


「俺、知らなかったんだ。お金が人を幸せにできるって。……俺、昔からずっと、お金のことが嫌いだった。ずっと敵だった。お金がないことが、こんなにも人を不幸にするんだって。だから、是が非でもお金に執着して、貧乏から抜け出すことだけを考えて、全ての人生設計をしてた。……でも」


「ある迷惑購入者に言われたんだ。……恥を知れ、って。そのこと自体は誤解だったけど、今思うと、本当にその通りだと思うよ。……そしてそいつは、身をもってその間違いを正してくれた。やることなすこと、突拍子もなくて、でも、どこまでもまっすぐで、潔白で。誰よりも生き生きとお金を使っていた。その姿に俺は、会うたび、まるで目からうろこが落ちるようだった」


「……お金が全てなんて、思い違いもいいとこだった。大事なのは、その先だ。お金の向こうにいる誰か。その誰かがいなければ、幸せになんてなれやしない。……この歳になって、やっと今、ようやく気付けた気がする。……そして、そんな大事なことを教えてくれた相手に、俺はどうしようもなく酷いことを言ってしまった」


 米太はジョエルを見上げ、 


「……もう、遅い。出会ってしまったから。ずっと前からとっくに俺は、元になんか戻れない」


「ミアのことが、好きなんだ」


「いくら積まれても、代わりなんていない。だって、俺を変えたのは、ミアだから。それがまぎれもない事実で、仮定や可能性なんかじゃあがなえない」


 困ったように、ぎこちない笑みを見せる。その笑みを見たジョエルは、拳を強く握りしめ、


「……だから、――戻ってきたというのですか、そんな理由で? 妹の進路や借金から解放された生活を捨てると? そう言うのですか」


「……そこまでは言って……」


「甘えるな若造!」


 全身をわなわなと震わせて、ジョエルが怒りの表情をする。


「……何かを犠牲にしなければ、何も手に入らない。それがこの世界の残酷なルールなのです! そして、貴方が求めるものは身に余る犠牲を強いるでしょう、貴方と家族に! 何の覚悟もなしに、一時の感情に任せては、その後の人生ずっと、後悔の道を歩むことになるです!」


「もう一度聞きましょう、貴方にはその覚悟がありますか! 公国を敵に回すということは、欧州いや、世界を敵に回すのと同義です。火遊びなどでは済まされない。こじれれば日本との国際問題にも発展するでしょう。……あの方を愛するということは、そういうことなのです! 下賤な出の貴方にとって、全てを捨てても済まされないような。……貴方にその覚悟はおありか!?」


「…………!」


「……もしくは、一生愛人として日の目を見ず、後ろ指をさされ続けながらも、公然とミア様に不貞をさせ続ける。……耐えられますか、そんな日々に?」


「……それ、でも! ……俺はミアを選びたい! かといって妹を犠牲になんかさせない! それが、俺の覚悟だ!」


「……フ、……アハッ、フフ」


 ジョエルが不意に笑いだす。


「……ハハハッ、ァッハハハッ、フフッ」


 おかしくて仕方がないとでも言うように、その顔を年相応に皺だらけにして、


「……愚かな。若さなんておこがましい、愚かとしか言いようがない言い草。何ができる。何ができようか! 貴方に何が変えられる!」


「……いいことを教えて差し上げましょう、この世の中で一番重いのは恋でも金でもない。……血です。貴方や私の身体に流れる血、受け継ぐ遺伝子だけは、どんなに努力してもがいても、けして超えられぬ壁! 誰も自分の運命から、逃れることはできない!」


「……見なさい。片や歴史ある貴族王の末裔。片や貴方は何者ですか。借金やギャンブルにおぼれ、底辺を這いずる親の息子です。貴方がたは、けして交わらぬ、そのような運命なのです! いくら時代が変わろうと、それが世界の残酷な真実だ!」


「ジョエル様!」


 追いついた黒服が周りを囲み、米太を取り押さえる。もはや逃げられないのは明白だ。


「よろしい。教えて差し上げましょう、わたくしめが、身をもって」


 ジョエルが落ちていた花束を手に取る。少し通路を進んだ後、換気用の窓を開け放ち、花束を持ったまま手を外にやって、


「……!」


「恋や愛が、何になりましょう? そんなものは世迷い事、いい加減目を覚ましなさい……」


 手を離せば、花束ははるか下にある地面へと落ちるだろう。そのことに気付いた米太は、


「ッ、やめろぉおおおッ!」


 必死にもがき、駆け寄ろうとするが、黒服の抵抗に合い、ジョエルがその手袋に包まれた指先をそっと離して……、



「――――ジョエル・マシュ・アルビーナッッ!!!!」

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