Appendix C

Appendix C 春子の話――社会人編――



 原田美雨という女ときたら、私が人生のどん底にいるときに限って私の目の前に姿を現し、いつだって余裕のある表情を浮かべ、ご自慢の美しい瞳で微笑むのだ。それは高校二年生の頃だけでなく、二十五歳、私が婚約者に裏切られ、社会からも排除されて行き場を失い、片耳の聴力をも失って大好きだった音楽やバイオリンからも断絶されて、どうしようもなく死にたくなったある初冬の日の真夜中にも言えたことだった。練炭やその他の道具を買うために立ち寄ったバラエティーショップで、彼女はプチプラの化粧水コーナーをぼんやりと眺めていた。アイボリーのダッフルコートに身を包んだ彼女の目に留まらないようにその場を立ち去ろうとしたのに、見つけられてしまった。バラ色の頬と、ろれつの回らないその話しぶりから、彼女が飲み会の帰りだということはすぐに分かった。ファンデーションも溶け、アイメイクもほとんど消えつつあるというのに、彼女の表情は溌剌として見えた。なんなら、学生時代と比較しても、まったく老いを感じないどころか、自由におしゃれを楽しめるようになった彼女は垢抜けた姿で私の前に現れたのだ。

 二十五になっても何も失わず、のんきに生きている様子の美雨を見て、私は無性に腹が立った。死ぬ勇気すら失って彼女の家に居候するというのに、私は彼女の頬に平手打ちをしてしまった。嫉妬する自分を抑えきれなかったのだ。今思えばそんな私を半年もの間家に泊めてくれた彼女は聖人と言っても良いと思う。余裕のある人間は、優しくもなれるというのだろうか。そんな美雨に、私は自分が聴力に障害を負ったことを話さなかった。美雨がそのような辛気臭い話を聞きたがらないだろうということは容易に想像がついた。それに、恥ずかしかったのだ。学生時代、私は美雨に対して自分を良く見せようとしていた自覚がある。勉強もできるし音楽もできる、可愛くておしゃれで男性にもよくモテる。端的に言えばしょっちゅう軽いマウントをとっていた相手に対して、自分のみじめな状況をさらすのは勇気が要った。




 彼女が母校の教師になったということは聞いていた。本人から直接報告を受けたわけではない。大学時代に、岡田智樹――彼こそが、文化祭のときに合流した男子生徒二人のうちのもう一人の男子生徒なのだが、大学四年生の秋頃、彼と大学構内で偶然出くわした際に、そう聞かされたのだ。おそらく、美雨と再会した日の飲み会も、職場関連のものだろうと思う。彼女の表情から、それなりに充実した職業生活を送っているものと勝手に推測した。

 教師。美雨がそのような職業についたことは少し意外だった。学生時代、私は優等生で通っていた。行事も勉強も手を抜いたことはなかったし、豊桜の学生にしては少し派手な見た目をしていたにもかかわらず、教師からの信頼は厚かったという自覚はある。一方で美雨はというと学業成績こそ良かったけれど、典型的な優等生とは程遠い生徒であった。友人と一緒に意地悪な教師の悪口を言い合ったり、変なあだ名をつけて呼んだり、授業中の居眠りを注意されてもちょっと生意気な態度で受け流したり。能力はあるのに、とにかく態度が悪い。そんな彼女が、あえて母校で教師生活を送るというのは、なんだかとてもミスマッチに感じたのだ。よく採用されたな、とすら思う。

 美雨は仕事の話を全くと言っていいほどしなかった。帰宅時の彼女の表情から、今日は良いことがあったとか、嫌なことがあったということを察することはできるものの、守秘義務を気にしていたのか、それとも単純に業務時間外に仕事のことを考えるのが嫌だったのか、その真意は不明だが、私が彼女の異変に気が付いた頃――それこそ、トレーニングジムの更衣室で、彼女のスカートが切り裂かれていることに気づいたときには、一人ですべての問題を抱え込んだまま、にっちもさっちもいかない状態まで来ていたのだろう。美雨は昔からそういうところがある。人に悩みを相談することがないのだ。学生時代、友人関係や進路、部活動の愚痴をこぼすのは私ばかりで、美雨はそれを黙って不機嫌そうな顔で聴くだけだった。他人を信用していないのか、それとも極度の負けず嫌いなのか。




 半年という長い時間を美雨と一緒に過ごした。少なくとも同居生活の前半、彼女は何でも持っていたと思う。私に隠れてこそこそと智樹とのデートに出かけていることには、ちゃんと気が付いていた。気を遣われるなんて私も舐められたものだと思ったし、智樹のように聡明で、心根が優しく、ちゃんと結婚願望を持っている男を好きになることができ、そしてそのような男から愛されることのできる美雨は、幸せになる才能があるな、とつくづく感心した。恋愛経験で言えば私の方がよほど豊富である。学生時代には複数人の男子に告白されたし、自分のものにしたいと願った男を手にすること自体には、私はほとんど苦労をしたことがない。笑顔で近づいて、少しだけ自分の弱みを見せれば、意中の相手は私の手の中に納まるのだ――だから仮に、私が智樹のことを好きになることが出来さえすれば、おそらく私は美雨から智樹を奪おうとしていたと思う。可能かどうかはわからない。智樹はとても義理堅い人間であり、そして美雨のことを心から愛していたから。結局そうしなかったのは、単純に私が智樹のような男に興味を持つことができなかったから。つくづく、私は幸せになる才能がないし、人を見る目がない。



 こんなにもいろんなものを持っているくせに、いや、いろんなものを持っているからこそ、美雨は努力することを知らない人間だった。あと少しだけ痩せれば完璧に可愛いのに。もっと似合う色は他にあるのに。せっかく可愛らしいアクセサリーをたくさん持っているのに、どうして着けるのを忘れて外出してしまうのか。料理だってしないし、部屋は片づけない。家庭的、という言葉から程遠い人間がプレ花嫁だなんて、お笑い種。努力だけでどうにでもなる部分を平気で投げ出す美雨の姿を目にする度に私は苛立ち、口を出したくなる。上から目線で指摘し、だからあんたは残念なんだと勝ち誇ったような顔で言い放ちたくなる。しかし私はそういう欲求を飲み込み、最低限の助言に留める。そんなことをしたところで、自分の醜さが際立つだけだということはよくわかっていたから。

 高校生時代、休日に遊んだときの私服のダサさをイジられたり、いわゆる「女子力」の欠如を笑われたりしている美雨の姿は度々目にした。そうやって友人からマウントを取られる度に彼女はあっけからんとした様子で舌を出し、照れたように笑うのだが、その困ったような笑顔はとてもチャーミングで、周りで歪んだ笑顔を浮かべる誰よりも魅力的だったりしたものだ。しかも、友人にどんなに理不尽な言われようをしたとしても、当の本人が全く気にしていない。横で聞いているこちらがもどかしくなるほどに、言い返したり怒ったりしないのだ。自己肯定感という言葉そのものを知ったのは大人になってからだったけれど、そういったものが普通の人よりも高いのだろう。そういう美雨の姿や、その周りにいる友人たちの様子を傍目に見ながら、私は美雨の周囲にいる愚かな友人のようにはなるまいと誓ったものだが、そんな愚かな彼女たちの気持ちはそれなりに理解はできる。

 同居していた半年の間にも、美雨は当時の同級生と遊びに行ったことがあった。学生時代の友人とはほとんど縁が切れてしまった私としては羨ましい限りである。帰宅後に楽しかったかと訊いたところ、「二十五にもなると、色々あるよね。なんか皆大変そう」なんて抜かしながら、自分は機嫌良さげに智樹と一緒に買いに行ったという〇.三カラットのダイヤの指輪を眺めていた。こいつは本当に一回ぶん殴られた方がいいと思ったし、それと同時に、なぜか美雨の人生が一生欠けることなく、彼女には変わらずにいてほしいな、と願う自分も居た。






 美雨の人生を大きく変えたといっても良い豊桜学園でのあの事件から数日経って、私は初めて智樹からのLIN〇で彼女の身に起きたことを知らされた。本人の意識が戻っているというのに、美雨自身ではなく、智樹から事情を聞かされるのも変な話だとは思う。いつもそうだ、美雨に関する様々な報告は、智樹や、その他の高校時代の知り合いからの風の噂で初めて耳にする。

 あの美雨の完璧な世界が壊れるだなんて想像もつかなくて、居ても立っても居られない気持ちになった。美雨に直接連絡を取り、彼女に勧められるまま、彼女の入院する病室に向かった。右目の視野の下半分を失うというハンデを負っても、彼女は決して私の前で落ち込む様子は見せなかった。そして、そういった状況下においてもやはり、美雨は私に事故がどのようにして起きたのか教えてくれなかった。私も詳しく聞こうとしたわけじゃないけれど、結局、私がその事故の原因を知ったのは、オンラインの小さなニュース記事だった。美雨は、豊桜高校の生徒のいじめ問題に関わって、その報復として階段から突き落とされた。彼女は中学の担任をしていると聞いていたから、おそらく自分の担当クラスですらない生徒のために動き、事件に巻き込まれたということになる。

 思えば私は、彼女が考えていることを何一つ理解できたことがない。ブランクはあれど十年近い付き合いになるというのに、いまだに彼女の性格を掴み切れていないという自覚もある。豊桜学園に馴染めなかった学生時代、私は何度も美雨に助けを求めた。同じクラスの女子と揉め事が起き、嫌がらせを受ける度に、私は唯一の中入生の友人である美雨を頼るしかなかったのに、彼女は決して私の味方をしてくれるような子ではなかった。それはあくまで美雨が臆病で、長いものには巻かれよ、を座右の銘にした利己主義者であるからだと私は心の中で彼女を軽蔑していたのだが、それも勘違いだったのだろうか。――美雨は、私のことが嫌いだった? ふと、そんな思いがよぎり、私はあわてて首を振った。そんなわけがない。だって彼女は、こんな私を半年もの間、守ってくれた。死ぬしかないと追い詰められた私を、つかず離れずの距離感で見守ってくれた。そんな彼女が私のことを嫌いだっただなんて思えないし、思いたくない。この半年はなんだったのか。そんな相手と半年もの間同居していたなんて、怖すぎる。

 あるいは美雨も、この何年かの間で成長したのかもしれない。高校時代にできなかったことを、大人になってから果たそうとしたのかもしれない。――かつての自分に罪悪感を抱いていたとしたら、それは何度も何度も彼女を責めた私のせい? そして、その罪悪感を思い出したのは、私と再会したからなの?

 怖かった。本当だったら、静かにこの世から姿を消していたはずの私との邂逅が、美雨の完璧な世界を壊してしまったのだとしたらと考えると、おぞましいことだと思った。これ以上美雨とは関わらない方がいいのかもしれないとも考えたし、だからこそ、新居の住所を教えるのを忘れていたことに気づいても、それを伝える気にはならなかったのだ。

 もっとも、互いの住所や電話番号なぞ知らなくとも、今の世の中、SNSのアカウントさえ交換していれば私たちは簡単につながることができてしまう。私自身が積極的に連絡を取らずとも、美雨の方から連絡は来た。美雨たちが無事に入籍を済ませた日、私たちは再び会うことになった。そのときにはもう、美雨に聴覚障害の件についてはバレてしまっていた。おそらく、彼女は私にその件を伝えようとして私を呼び出したのだろう。美雨は、とても回りくどい表現で自分の気持ちを伝える傾向にある。その日だって、気づいているものは「気づいている」と直接言ってくれればよいものを、カフェの店員の説明があまりよく聞こえずに困っている私の姿を眺めることで、あえて私に白状させようとしたのだ。美雨のそういうところはあまり好きにはなれないまま、彼女の十年来の友人をやっている。





 ほどなくして美雨は職場に復帰し、豊桜男子部に異動になった。結婚生活も無事にスタートし、そこからしばらくの間は私に連絡を寄こしてくることもなかった。

 つい最近、同居を解消する直前の約束はどうなるのだろう、と思った。お互いに生活が落ち着いたら、一緒に旅行に行こうという約束。


 美雨と再会する前の、最後のLIN〇の内容は、とてもよく覚えている。あのとき私はやはり、美雨に一緒に卒業旅行に行こうと提案していたのだ。大学生になってからはお互いに忙しく、また、理想の友人関係を結べなかったという想いからか、なんとなく疎遠になっていた。しかし、大学卒業を目の前にし、卒業旅行の予定を立てていたとき、思い立ったのだ。――やっぱり、私の学生生活と美雨とを切り離すことはできない、と。

 大学四年生だった私は、勇気を出して連絡をとった。彼女がかなりインドア派だということは知っていたので、海外じゃなくても、国内旅行でも構わないのだ、と前置きをした上で、私は彼女を卒業旅行に誘ったのだ。こちらがこれだけ熟慮の末に送ったLIN〇に対する返事は考えておく、の一言だけだった。

 丸三日返信を放置された挙句、「行けたら行く」以上に気乗りしない返事を受けた私は、それ以上彼女に追いうちをかけることはしなかったし、当然ながら卒業旅行の話は立ち消えとなった。社会人となった今、当時の美雨の態度は結構失礼なものだったと改めて思う。仮に今、彼女がそんなことをしたら返信を催促した上で多少責めるものだと思うが、当時の私は自分と美雨との間の、互いに対する想いのアンバランスさに打ちひしがれ、それまでの美雨との関係はなんだったのだろうと絶望したのだ。そうやって縁が切れてしまったはずの友人と再びこうして同居したり、旅行の約束をしているのだから人生ってよくわからないと思う。






 例の事件後、八月の中頃、私は再び美雨に連絡を取った。


『ご無沙汰です。身体の調子はどう? もしも大丈夫そうなら、前に計画してた旅行についてちょっと考えてみてもいいかなって』


 送信マークをタップするとき、少しだけ指が震えた。――あんなに大変な思いをした直後だというのに、なんてのんきなことを言うんだ、とキレられたらどうしよう。時期尚早だっただろうか、と送ってしまってから少しだけ後悔した。


『そういえばそんな話もあったね』


 美雨からの返信は結構早かった。彼女は基本的に、勤務時間外であればすぐに連絡がつくタイプである(つまり、学生時代に丸三日も返信を滞らせたというのは、かなり乗り気ではなかった上、こちらへの返信の文面に気を遣った末のあの返答ということになる)。


『私の都合で延期になってごめん。夏休みの間はもう全部宿の予約も埋まってるだろうから、シルバーウィークあたりにしない?』


 かつての無礼を忘れやがってこいつ、と私は苦笑する。美雨は、高校生だったあの頃と比べて変わったのだろうか、変わっていないのだろうか。やはり彼女のことは分からない。私のこと、ちゃんと友だちって思ってる? 今も昔も。一番の友だちではないにしても、せめて五本の指くらいには入れてよね、なんて。あれだけお世話になっておいて贅沢にもほどがあるけれど、濃密な時間を共にしたからこそ、そういう想いに駆られる。





 九月に、また会える。ふたりの間の約束はそれだけだ。その後の世界で果たして私たちは時間を共にすることはあるのだろうか。仮に、私たちの時間が再び交差することがあったとして――その頃世界は一体どのようになっているのだろうか?


 二〇一九年、夏。



※この後は、Appendix Aを投稿後、完全に完結となります!

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彼女の瞳に映る蒼、あるいは紺色の空 まんごーぷりん(旧:まご) @kyokaku

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