付録

Appendix B

Appendix B 春子の話――高校編――


 思えばあの子はいつだって、普通の女の子が欲しいと思うようなものをたくさん持っていた。それなのにどういうわけか、彼女のことを羨ましがったり、やっかんだりする人間はとても少なくて――それどころか、どちらかといえばいつも友だちからイジられる側だったし、何かにつけて軽視されがちな傾向があり、私はいつも判然としない思いで彼女とその周りの友人のことを見ていた。今思えばそれは、あくまであの子自身の作戦だったのだろう。一時のプライドを優先するより、多少の理不尽は華麗に受け流し、周囲との調和を保つことを選んだ。それが、私があの春出会った原田美雨という女の生き方だった。

 初めて彼女を見たとき、なんとなく目を奪われた。音楽室の暖色の照明に透けるショートボブや、どこかけだるげな雰囲気を持つアーモンドアイ、特徴の薄い顎のラインや、血色の良い頬を、ずっと見ていたくなった。そのとき彼女は、いたってまじめな顔で、音楽の教科書の偉人たちに小学生レベルの落書きをして遊んでいたのだけれど、そんな彼女のことをぼうっと眺めていたら気づかれてしまったのだ。目が合ってしまい、私は困って「これからよろしくね」と口走った。彼女は微笑み、こちらこそ、と短く返答すると、再び目をそらし、教科書の別のページを開いた。彼女の瞳に、ほんの少し恐怖の色がにじんだのを見て、ああ、人見知りなんだな、と察する。

 なんとなく目を奪われた、という言い方をしたのは、そのとき私は決して美雨のことを綺麗だ、とか美人だ、と感じたわけではなかったから。まったく着崩されることのない制服に、一ミリの化粧っけもない顔、極端に短く切られた前髪に寝ぐせの残った髪型や、少し残念な行動を総合すると、彼女を美少女と定義するのは難しいところがあった。結局、美雨のことを可愛らしい顔立ちをした子なんだな、と認識するに至るにはそれから数か月を要した。

 中学入試で入学した彼女は、友人がそれなりにいた。特別に人気者だというわけではないけれど、いつも固定でつるんでいる五名ほどのグループの中の一人で、だからといってそのほかのグループの子と全く話さないというわけではなく、そして美雨のことを悪く言う人は彼女のことを全く知らないクラスメイト以外、ほとんどいなかった。




 美雨と私は、クラス合同で行われた音楽の授業、そして音楽発表会の練習を通じて、一気に仲良くなった。あの頃のことは正直はっきりとは覚えていない。私は指揮者を務め、やる気のない生徒たちをまとめ上げることに疲れ果て、美雨がどのように発表会の練習に協力してくれたのかとか、そもそもどのようにして美雨とまともに話すように至ったのか、といったことは正確には記憶に残っていない。覚えているのは、発表会の出来は散々だったこととか、度々放課後練習に参加し、一緒に頑張ってくれたはずの美雨はその出来栄えに全く残念そうな様子を見せなかったことだとか、そういう嫌な思い出ばかり。

 おまけに、美雨と関わるようになったことで、クラスメイトから奇異な目で見られるようになったのだ。


「春子ちゃん、最近、中入生の子とよくしゃべってるよね? 名前知らないけど、あのショートカットの女の子」

「うん、原田さんっていうんだよ」

「中入生ってさあ、ぶっちゃけどんな感じよ?」


 中入生、というのは、美雨のように中学受験で入学した生徒のことを指し、一方で私たちのように高校入試で入学した生徒のことは、高入生と呼ばれていた。


「どんな感じって?」

「なんかあいつら、お高くとまってる感じしない? 私たちは高入生のあんたらとは違って、生粋の豊桜生なんですって」


 一部の生徒ではあるが、中入生のことをあまりよく思わない人間もいて、そういうとき私はどう答えれば良いのか、本当は知っていた。


「うーん、原田さんはそんな感じじゃないような気がするかなあ」

「うわあ、さすが全方位外交の春子ちゃん」

「結構親しみやすい子だよ? あの子」

「ぜーったいそう見せかけてるだけだって」

「それは偏見じゃない? 原田さんと話したこと、ないんでしょ」


 実際、美雨はそういう姿を見せることはなく、どちらかといえば自らを必要以上に卑下するような話し方をした。そのことはどちらかというと私を結構イラつかせたのだが、とにかく彼女はかなり謙虚な人間であると、少なくともそのときは感じていた。――もっとも、後ほど気づいた話ではあるが、そのクラスメイトの言うことは決して百パーセント誤りというわけでもなかった。美雨はとても恵まれた人間だった。顔面にコンプレックスを抱く点がないこととか、地頭の良さと教育熱心な両親だとか、そういったものに自然と囲まれて育った彼女は、自分が恵まれていることにちゃんと気が付いていて、そういったものを周囲の人間に見せないように、敵を作らないように、わざと謙虚で自分に自信のない人間を演じていた。彼女がそういったある種の傲慢さを持っているということに思い至ったのは、彼女の友人の中でも私くらいではなかろうか。


「あの子、見た目が地味だから騙されてるだけだって。春子ちゃん、気をつけなねー」


 そのクラスメイトはそう言ってその場を去っていったけれど、そのときにとても残念そうな顔をしていたのをよく覚えている。本当は美雨や中入生の悪口で盛り上がりたかったはずだ。いずれにせよ、その時点で私はその子に嫌われてしまったようで、その後何かと避けられたり、嫌みを言われるようになってしまった。

 元々、私は友人を作ることには苦労しないタイプだった。件のクラスメイトが「全方位外交」と揶揄したのもあながち嘘ではなく、私は物心ついた頃からそのときまで、人間関係において苦労したことがなかった。美雨を含む中入生の悪口を振られたときの正しい答えを知っていたにもかかわらず、私がそうしなかったのはひとえに、昔の自分を捨てたかったからだ。――




 中学生の頃、私には親友がいた。三島夏菜。それが彼女の名前で、私は彼女のことを「カナちゃん」と呼んでいた。カナちゃんとの出会いは、中学一年生のときに、席が隣になったこと。美雨との出会いと大差はない。結局中高生って、最初は席順だとか、出席番号順が近い人と仲良くなるものだと思う。カナちゃんは私と比べ、大人しく人見知りで、だからといって美雨のように小賢しくふるまうこともなく、全体的に要領の悪い子だったと記憶している。しかし、面倒な日直の仕事を押し付けられても、皆が乗り気じゃない学校行事も、文句の一つも言わずに全力で取り組む彼女の姿勢を尊敬し、私はカナちゃんと親友でいたのだ。

 何か明確なきっかけがあったわけでもなく、カナちゃんはなんとなくクラスの女子に疎んじられていた。すぐ泣くとか、いい子ぶってるとか、そういうふわっとした悪口から始まった。彼女は(別のクラスにいた双子の弟とよく似た)可愛らしい顔をしていて、男の子からの人気はあったはずなのだが、中学生くらいだとまだ幼い人間もいるもので、そういった大人しくて可愛らしい子をいじめてしまう子も多く、結局彼女への嫌がらせに拍車をかける要因にしかなっていなかった。

 中学二年生になっても私と彼女は同じクラスで相変わらず親友をしていた。


「春子ちゃんがまた一緒なクラスになってくれてよかった。今年もよろしくね」


 カナちゃんのその言葉を、私はそんなに重く考えることもなく、これからもなんとなく休み時間に話したり、体育の時間にペアを組んだり、そういうことだと単純に解釈していた。まあ、実際彼女もその程度のことを意図していたのかもしれない。――いずれにせよ、私は彼女を裏切った。結局私はそんな簡単なことすらしてあげなかったのだ。

 何がきっかけだったかというと、中学二年生のときのクラスは、当時私が所属していた管弦楽部の生徒が私以外に三人もいたことだった。私の出身中学校の管弦楽部の生徒はやや自己主張の強い人間が集まっていたこともあり、クラスの中ではちょっぴり怖い、女王様的な立ち位置に君臨していたと記憶している。当時、管弦楽部で良好な人間関係を築いていた私は、彼女たちとは教室でも仲良くしていた。人数が偶数人だったことも良くなかったのかもしれない。私たち管弦楽部四人で、うまい具合にぺアが二組できるから、私がカナちゃんと組む余地はない。気が付けば彼女はいつも一人ぼっちで、体育をはじめとした授業やちょっとしたホームルームの時間、ペアを組んで作業をするときには必ず先生と組んでいたと記憶している。

 クラス替えがあっても、カナちゃんへの嫌がらせはやむことがなかった。歯に衣着せぬタイプの人間がそろっていた管弦楽部の生徒たちとカナちゃんは馬が合わず、彼女の悪口を本人にわざと聞こえるように言う子もいたりして、私自身、表立って彼女と仲良くするのが憚られるようになっていた。

 そうこうしているうちに、カナちゃんは徐々に学校を休みがちになり、ついには一切来なくなってしまったのだ。中学三年生になってからは違うクラスになってしまったから、彼女が結局学校に復帰できたのか、高校受験はどうしたのか知らぬまま卒業し、そのままお別れとなった――




 中学生の頃の苦い思い出の中で、私は何度も「春子ちゃんみたいな子が、どうして三島さんなんかと仲良くしているの」と問われた。そのとき私は決まって「仲良くしているわけじゃないよ、前同じクラスで席が近かったから、話す機会があるだけ」とやんわり流していた。決して仲が良いことは認めず、言い訳をする。そんな言葉が、本人に届いていたとしたら、どう思っただろうか? あの中学校を離れ、憧れだった豊桜に入学したばかりの頃は、まだその絶望感にピンとくることはなかったけれど、あの頃の自分には、絶対に戻りたくないと思ったのだ。高校生になり、おしゃれに敏感な同世代の女子生徒たちに舐められないように眼鏡をコンタクトに変え、ロングヘアはケアを欠かさず、スクールメイクを覚えた私は、自分の在り方を曲げない生き方を目標として、そして、いきなり詰んでしまったというわけだ。

 おまけに私は本当に人を見る目がない。美雨という女は、私ごときにそうやって味方してもらわなくても勝手に強く生きていける子だったし、そもそもたった一人の知らない高入生に嫌われたところで全くのノーダメージだったはずだ。私はあくまで美雨を守ったのではなく、自分の理想の自分になるためにいらない軋轢を生んで、勝手にコケたのだ。




 高校一年生の秋に開催された文化祭は、美雨と一緒に回る約束をしていた。当時、美雨は映画研究会に所属していたけれど、あまり展示に力を入れている様子はなかったし、私は体験入部のときに肌に合わないと感じた管弦楽部をやめ、そのほかに行く当てもなく帰宅部であったため、二人とも文化祭はのんびりと見て回る時間が取れたのだ。

 お手洗いの鏡の前で、アイテープを直し、ビューラーでまつ毛を上げる私の姿を見て、美雨は笑った。


「別に、誰が見てるわけじゃないんだし。……それに、一重か二重かなんて、遠目に見たってわかんないし、どうでもいいじゃん」


 そう言った彼女が、手を加えずとも美しい二重の瞳を細めて笑うのを見て、私は少しどきりとした。普段、彼女は必死に隠している。しかし彼女はやはりいろんなものを「持っている」側の人間で、そういう人間はどうしたってそういったものを持っていない側の人間の気持ちを本当の意味で理解することは不可能なのかもしれない。私が欲しくて欲しくて仕方がないものを「どうでもいい」と笑い飛ばして、そんなに綺麗な瞳で微笑んだ彼女のことが怖くなって、なんだか緊張してしまったのだ。


 豊桜は当時、かなりの人気校だったこともあり、小中学生とその親で校内はごった返していて、途中で美雨のことを見失ってしまった。やっとの思いで人込みを抜け出し、休憩スペースを確認したら、彼女は不機嫌そうな顔で、二人の豊桜男子部の生徒二人に囲まれていた。

 彼らの間に割って入った私は豊桜男子部の二人と打ち解けて文化祭を楽しんだものの、美雨は警戒心をむき出しに、二人に対して一言も話さなかった。男子とああやって話せる春子はすごいよ、と後で自嘲気味につぶやいた彼女に、私は「そう? 男の子って、優しいよ」と返答した。「やっぱ共学出身は違うわ」と呟きながら、わずかに美雨が不愉快そうな顔をしたのが、そのときの私にとっては妙に嬉しかった。




 その後も私たちとその豊桜男子部の二人との間の交流は細々と続いた。それは主に、私が豊桜男子部の生徒のうちの一人、佐原くんと同じ塾に通い始め、また、高校二年生になるころには彼と付き合い始めたからである。もっとも、顔に惹かれただけの彼とはそれほど長くは続かず、数か月と経たないうちに私の方から別れを告げたのだけれど、私と佐原くんとの関係はあっという間に高校のクラスの女子に知られるところとなった。――その辺りだっただろうか、私があの学校に居場所を失ってしまったのは。

 高校二年生で一緒のクラスになったとき、美雨はいつも私と彼女のグループの友人とを引き合わせようとしてくれた。正直、美雨の中学時代からの友人たちは、ぽっと出の私のことを快く思っていないようであったし、美雨もそのことには気づいていたようだった。最初こそ頑張っていたものの、高校二年生の修学旅行を機に、そのような配慮を辞めてしまわれたのは、美雨自身があきらめたのか、それとも彼女の友人がやめてほしいと頼んだのか。

 いずれにせよ、苦しかった高二の一年間、私はいつだって美雨のことを妬んでいたように思う。中学時代からの人脈、ニキビの出来にくい肌や美しい瞳、授業中に居眠りしていてもそれなりに良い成績を残せてしまう地頭の良さに苛立った。だから、高校二年生の三学期に返却された模試で、うっかりクラスの秀才キャラの生徒より上の成績を取ってしまい「あんな頭の悪そうなやつに負けるなんて」と聞こえるように悪口を言われている美雨の姿を見ても、たまにはそれくらいのことがあったっていいよな、と思っていたものだ。




※※※

まんごーぷりんです、ご無沙汰しております。

いよいよAppendixの投稿が始まります。

本編は美雨の視点で物語が進みましたが、Appendixではそれ以外の登場人物の視点から、様々なエピソードを書いてみたいと思います。

Appendix Aは智樹の話、Appendix Bは春子の高校時代の話、そしてAppendix Cは春子の社会人になってからの話です。

予定より話数が増えてしまって恐縮です。

また、執筆の都合上(?)、Appendix B→C→Aの順番での投稿となる予定でおります。

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