第37話

 スパゲティが二つ運ばれてきた。春子が食べよ食べよ、と私を促す。


「……なんていうか、もうちょっとどうにかならなかったのかな」

「何が」

「別れるタイミングとか。……春子の性格に耐えられなかったのなら、もっと早めに気づいたはず。それなら、春子が仕事を辞める前に言ってくれたって良かったよね」

「そんなの、わざとに決まってるじゃん」


 春子は事も無げにそう言った。


「婚約破棄した彼女と一緒の職場で働くのが気まずかったのか、それともただ単純に、私を困らせたかったのか。そのどっちかだと思ってるよ」

「ええ……」


 そんなクズなことある? 口約束とはいえ、ある種の契約を破るのであれば、それなりに誠意を持った対応をした方がいいと思うのだが。


「おいしー、このパスタ。美雨も一口食べてみる?」

「うん。……あ、こっちもどうぞ」


 私は春子に自分の皿を差し出す。春子の注文したボロネーゼは、結構香味野菜がきいていて、子ども舌の私にはちょっとインパクトが強かったけれど、春子の舌には合いそうだ。


「……それほどまでに、私のことが嫌いになっちゃったんだろうね」

「何したの」

「美雨に求めた程度のわがまま」


 確かに彼女は、食材は少し高くてもなるべく国産が良いとか、掃除を丁寧にしろだとか、そういったうるさいところがあるのは事実である。しかし、なにも耐えられないというほどのものではなかった。それに彼女は他人にもそういった気遣いを求める一方で、彼女自身もよく尽くしてくれる人間だ。本当に春子が言うとおり、婚約者にその程度のものしか求めていなかったとしたら、彼はかなり狭量だと思ってしまう。しかし、男と女は、そう簡単にはいかないものなのかもしれない。春子との同居が短期間限定だった私なら耐えられることも、これから一生となると苦しい、みたいなのはあるのかもしれない。私には、春子の彼のことを狭量だと判断する資格はない。そのことを胸に留めておきながらも、絶対に春子の前で口にすることはない。「春子側の話しか聞いていないから、私はあんたの元婚約者を一方的に責める気にはなれない」なんて口走ったところで、誰の心も救われないことを、大人の私はよくわかっている。


「……どんな理由があろうと、突然その仕打ちは酷いね」


 私の言葉に、春子は苦笑しながらありがとうと返した。少しわざとらしいと思われてしまったのかもしれない。


「慌てて転職先を探したんだけど、なかなか決まらなくて。……私は私で、それまで大きな会社でちゃんと働いてきたプライドもあるし、それまでと同じような規模か、むしろもっと上の企業をって思っていたんだけどね。寿退社しようとして失敗して、妙にブランクの空いた私は、自分で思っていたほどには市場価値がなかったみたい」


 自らの市場価値に思いを馳せることはあるけれど、理想と現実が一致しなかった場合に、私たちが感じるのは絶望だろうか。教え子に階段から突き落とされるという事故を経てもなお、私は豊桜学園に固執し、自らの価値を試すような真似を避けてしまった。それは自分の価値に改めて目を向ける胆力が備わっていなかったから、というのもある。


「新卒のときの就活も辛かったけれど、その頃の数ヵ月間が本当に辛くて。……そうこうしているうちに、私、病気になったの。突発性難聴ってやつ」

「ああ、聞いたことある」

「はっきりとした原因は不明だけど……やっぱり、ストレスや疲れがめちゃくちゃ溜まってたんだと思う。私っていつもハードモードな方を選んでしまうんだ。元々いた会社もすごくブラックで、こんな会社辞めてやるって思って婚約して、婚約者にも裏切られて、新しい就職先探そうとして病んで? ……たぶん、この社会を生き抜くセンスがあんまりないんだって気づいて、本当に死にたくなった」


 月並みだが、春子もものすごく苦労したんだな、と思った。


「左耳は、今でもほとんど聞こえていない。美雨は、いつから気づいてた?」

「……いつだろう、でも結構時間はかかった」


 本当は春子のバイト仲間に聞かされるまで気づかなかっただなんて、失礼すぎて言えなかった。


「別に隠してたわけじゃないんだけどね、わざわざ言う機会もないし、言っておかなければならないってほどのことでもないなって」


 そう言って春子はふふ、と微笑んだ。言ってくれれば良かったのに、という言葉を飲み込んだ。






 プリクラをとろう、と言い出したのは、今回も春子の方だった。


「今時? スマホの自撮りアプリの方が主流だし、ゲーセンに行ってももうプリ機なんてないんじゃない?」

「そんなことないって。ゲーセンなんて数年行ってないけど、外から覗くと普通にプリ機はいっぱいある」


 私たちが高校生の頃は、クラスの目立つ女子たちが、パステルカラーの長財布にプリクラを入れて持ち歩いていたものだけれど、最近ではあまりそのような様子は見られない。その辺、「盛れる」タイプの自撮りアプリに全てとって代わられているのだろうと勝手に解釈していたけれど、プリクラもまだまだ捨てたものではないらしい。


「美雨が大ケガしたから、ゴールデンウィークの旅行がパーになったんだからね、これくらい付き合いなさいよ」

「全然OKだけど、なんか照れ臭いな」


 日々女子高校生と接していた私は、自分と彼女たちとが全く違うものであることを春子以上によく分かっている。――そんな彼女たちが楽しむものを、アラサーに片足を突っ込んでいる私が享受することが許されるのだろうか、といった気持ちになってしまうのだ。

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