第35話

 楽しそうに話す店員の声を遠くに聞きながら、私は混乱していた。片耳が不自由。聞こえないのかもしれないし、聞こえにくいのかもしれない、はっきりと言ってくれなかったからその辺はわからない。春子、一言もそんなことは言っていなかった。私も気付かなかった。――片耳が聞こえているから、会話に支障がなかったのだろうか。しかし、半年も一緒に暮らしていて、気付かないなんてことがあるだろうか。そんなことがあって良いのだろうか。

 ふと、春子が初めて私に料理をしてくれた日のことを思い出した。フューシャピンクのエプロンを身につけて、髪の毛をひとつに結わいたあの横顔。私は春子に声をかけたけれど、最初、彼女は反応してくれなかった。

 思い返してみれば、何度もそんな場面はあった。帰る度、思いの外大きな声で「ただいま」を言わないと気付いてくれなかった。私や、デパートの店員が話している途中で会話を被せてしまう傲慢なクセ。人混みや、うるさい場所において、その傾向は強かったかもしれない。――そうだ、私が春子に無視されたな、と感じたとき、彼女の左側に居たことが多かったような気がする。彼女はたぶん、左耳が聞こえていない。ついでに言えば、私が入院先で自分の治療について話したときの反応も、変だった。――なんだ、「そういうのもステロイドなのね」って。あんたもお世話になったことがあるの? あのときどうして、私はそう聞き返さなかったんだろう?


「……それでね、永野さんはいつも居候先のお友だちが面白くて可愛いんだって。写真も見せてくれたから、お顔が分かってよかったぁ」

「……ありがとうございます、教えてくれて」

「ええ、何を? こちらこそ、長話に付き合ってくれてありがとうございます」


 店員は不思議そうな顔をしていたけれど、私はとにかく彼女に感謝した。待っている人が居るので、と頭を下げ、私は本屋を後にした。

 智輝との待ち合わせ場所のタクシー乗り場へと向かう。スーツ姿の彼を見慣れてきてしまったが、改めて見ると彼はやはり、スーツが似合う男である。優しそうなほんわかオーラを、適度に中和してくれるからだろうか。筋肉のない、ほっそりとした体型にも合っているのかもしれない。


「飲み会はどうだった?」

「楽しかったよ。エンガワの刺身が美味しかった」

「ツウすぎる」


 特に意味のない会話を交わしながら、私は智輝にリュックサックを渡した。


「重! 何が入ってるの」

「本買ったの。二冊」

「もしよければ俺にも貸して」

「いいけど、一冊は仕事の本よ」


 智輝の顔を伺う。――辞めて欲しいと言っていた仕事の本を買うだなんて、彼がどんな顔をするだろうと思ったのだ。


「……ごめん、結局仕事辞めなくて」

「全然? 俺としては職場さえ変えてくれればまあいいかな、って思ってたから」

「でもあのとき智輝、仕事辞めてくれないかって」

「そのくらい言わないと、美雨は女子部にそのまま残りそうな気がしたから。ほら、美雨って結構現状維持バイアス強いタイプだし、案外負けず嫌いだし」


 完全に読まれている、と思った。たしかにあの日、智輝に仕事を辞めるよう言われるときまで、私はあの職場に残る気でいた。クビにするなら許さない、と意気込んでいた。彼の賢明な判断がなければ、今度こそもっと大変なことに巻き込まれるかもしれない。

 タクシーが来て、智輝が手を上げる。私たちの前に止まり、ドアが開く。後部座席に座り、私は外を眺めた。雨が降りはじめている。各地で梅雨入りが発表されていた。


「……智輝、」


 私は彼に声をかけた。


「行きたいところがあるんだけど」

「どこ?」

「……春子の勤めている会社。◯◯って言うんだけど。ダメかな」

「特にダメってことはないけど……こんな時間にどうしたの? 永野さんに用事?」


 ただ、彼女と会って話がしたい気分だったのだ。


「……直接、会いたくて」

「今の時間なら、家に帰ってるんじゃないか?」

「新居の住所、聞き忘れてたから。もしかして、残業後に出てくるかもしれない」

「あれ、じゃあ、永野さんにはまだ連絡を取ってないの?」


 春子の都合なんて無視して、とにかく突撃したい気持ちだったのだ。いざ突撃して、彼女を目の前にしてどんな言葉が出てくるのか、自分でも想像がつかなかった。気付いてあげられなかったことへの謝罪をしたいのかもしれない。あるいは、私の家に居候をしていながら、そんな重大なことを相談してくれなかったことへの怒りをぶちまけたいのかもしれない。後者だとしたら、それこそとんでもなく傲慢だと思う。――それでも、そうせずにはいられない、というほどの強い衝動が押し寄せたのだ。

 質問に答えない私に向かって微笑むと、智輝は再び口を開いた。


「……美雨の用事ってのは、誰かの命がかかっていること?」


 私は首を横に振った。別に今さら、春子の難聴のことを持ち出そうが出さまいが、誰かの人生を左右することはない。


「じゃあ、一刻を争うような用事? ……例えば、明日朝使う資料を、永野さんが美雨の家に忘れて行った、とか」

「そういうんじゃない。……私がただ、今そうしたいって思っただけ」


 智輝の質問に答えるうちに、その衝動に身を任せることは得策ではない、ということに思い至る。春子の都合を全く考えていなかった。私の立場も、考えていなかった。


「落ち着いて、ゆっくり考えてからでもいいんじゃない?」


 智輝の言葉に、私は素直に頷いた。――普段、あまり衝動的な行動を取ることはない。割と理性的だと自負している私が衝動に身を任せた行動を取ると、ろくなことにならないのだ。

 智輝との新居までの道を、タクシーに揺られながら考えた。今週末、彼女に会えないか訊いてみよう。明日の朝に、智輝と一緒に区役所の時間外窓口を訪れ、婚姻届を提出する。その後でもいいし、翌日でも良い。そうだ、春子の自宅の最寄り駅近くのカフェで、甘いものでも食べよう。スイーツに目が無い彼女は、絶対に来てくれるだろう。どういう話の流れで、彼女のことについて訊こうか。冷静になって考えてみれば、わざわざ辛いことを話すよう求めるのは、彼女にとって酷ではないか。自然に、さらっと、まるで「気づいてますよ」とでもいうように。――一緒に遊んでいれば、いい感じのきっかけは絶対にあるはずだ。

 その日の夜に、春子にLINEをした。返事はすぐに帰ってきた。







 智輝と一緒に入籍を済ませたその足で、私は春子との待ち合わせ場所に向かった。結局、春子が気を利かせてくれて、待ち合わせは区役所の近くのカフェになり、やや時間をもてあます。智輝は私のことをカフェの近くまで送ると、春子が現れるよりも先に自宅に戻った。女友達二人、水入らずの関係に混じるのは野暮だと感じたみたい。

 待ち合わせ時刻より少し前に春子は現れた。彼女が時間を守ることは珍しいけれど、おそらく怪我人の私を待たせてはいけないという配慮なのだろう。水色のワンピースを身に纏った彼女の、大きな変化に、ちゃんと気づくことができた。


「あれ、春子、もしかして髪の毛染めた?」

「そうだよ、こないだの土日にね」

「良かったじゃん」

「そう? ……なんか、美雨の髪の色が羨ましくてやってみたんだけど、私だとなんだか老けて見えてダメだったー。やっぱり、美雨みたいに元々ちょっと色素が薄い子じゃないと似合わないのかな」

「そんなことはないよ」


 春子はどんな髪色をしていても間違いなく美しいのだけれど、黒すぎるほどに真っ黒な、いつもの髪色が一番似合っているのは確かに彼女の言うとおりだった。


「とりあえず、入ろう」


 私は彼女をカフェに誘導した。


「いらっしゃいませ。何名様ですか」

「二名です」

「では、こちらへ」


 店員さんは向い合わせの席を私たちに勧めた。右側が通路となっている席へと私は足を運ぶ。――こうすれば春子の席は自ずと左側に通路があるものとなる。店員によるメニューの説明やオーダーは、おそらく通路に立って行われるだろう。この混んだ店内で、左側から話しかけられる春子は、店員の声が聞き取れないはずだ。そのときに、あくまで自然に、「気づいていますよ」ということをアピールする。そうすれば、何かしら話をしてくれるのではないかと思ったのだ。

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