第32話

「……仕事、やっぱりダメ?」

「ああ。あそこは、労働環境として不適切としか言いようがない。危機管理がなってない」


 智輝にはあまり仕事の話をしたことがなかったから、彼がそう判断したということは、つまりは私の職場の人たちと話したということなのだろう。


「そうね。……智輝がそう言う気持ちは、分からんでもないよ」


 私が智輝の立場でも、おそらくそう言っただろう。そして、私立豊桜学園女子部は、(私も含めた)教師のそういった危機管理能力が低く、また、生徒と教師のパワーバランスもやや片寄っているという点で、やはり問題がある。


「でも、私だって教職とるのはそれなりに手間がかかったわけだしさ、正直お金はほしい。……ただ単に辞めるのはちょっともったいないな、とは思うんだよね」

「お金は、俺が将来的には結構稼ぐと思うけど」

「そういうんじゃないんだよなあ」


 私は、私が稼いだお金で、たまにデパコスのリップを買ったり、少し上質なお洋服を買ったりしたいのだ。


「……豊桜女子部は、いずれ辞めるよ。だけど、なんかうまいこと、次の転職先を探すつもりでいる」


 智輝はそれについてダメとも良いとも言わなかった。ただ、彼の場合、ダメであれば明確に「ダメ」と言うので、その辺は安心している。





 結局、退院の日になるまで、ここを辞めることは伝えずじまいとなった。いずれにせよ、私がこれ以上、現在受け持っている中学三年生の担任を続行することは難しいとの判断で、二年目となった三島先生が私の後を引き継ぐことになった。


「原田先生、引き継ぎありがとうございます」

「いえいえ、途中で投げ出してしまって、こちらこそ申し訳ないって感じ」


 退院から一週間、私はとりあえず職場復帰をした。ただし、生徒の前に出ることは一切せず、中途半端になっている事務処理等を終わらせる業務がメインである。

 担任業務は、決して楽な仕事ではない。本来なら、そんな余計な仕事を後輩に押し付けるのは、あまり気が進まない。


「大丈夫です。僕だって、いずれは通る道でしたし。一年ほど早まったっていう感じですね」


 優秀な三島先生なら、たしかに一年くらい前倒しで経験するのもアリなのかもしれない、と思った。

 その日の業務後、私と三島先生は二人で学校を後にした。校門の外に、ロングヘアの美しい女性が立っていた。


「美雨、お疲れ」

「春子? なんで」

「智輝くんに頼まれて、迎えに来た。病み上がりだし、荷物も重いだろうからって」

「ああ……ありがたいけど、なんかごめんね、智輝が過保護で」

「ううん。……明日からは、智輝くんが来るってさ」


 いけない、三島先生を完全に置いてきぼりにしてしまっている。――と思った瞬間だった。


「あなた、永野さんですよね。永野春子さん、静峯せいほう中学出身の」


 静峯とは、たしかに春子が卒業したといっていた中学の名前だった。たしか、公立の中学校だったと思う。


「……そうですけど」

「三島夏菜かなという生徒を覚えていますか」

「……カナちゃん?」

「そうですね。……そう呼んでいらっしゃいましたね」


 置いてきぼりになっているのは、私の方だ。


「……カナちゃんは今、どうしているの」

「双子の姉は、いまだに社会に出られずにいます」


 牧野先生が言っていたことを思い出した。――三島先生の姉は、いじめをきっかけに、いまだに引きこもりを続けている。姉というのは、双子の姉だったのか。三島先生は二年コースのロースクールを出ているので、実は私や春子と同い年。中学時代は、同級生だったはずだ。


「……どうしてあなたみたいな人が、原田先生みたいな格好良い教師とお友だちでいられるのか、僕には全く理解できません」


 三島先生の声が震えていた。どうもこの頃、人の悪意に触れる機会が多すぎる。






「……私ね、中学の頃、カナちゃんていう子と親友だったんだ。美雨とは違って、繊細で、結構傷つきやすいタイプの子だったと思う」


 たしかに私はあまり繊細なタイプではないが。


「でもさ、そういう子って、やっぱりいじめられちゃうじゃん。……もちろん、どんな子だっていじめちゃいけないってのはそうなんだけど、実際、そういう目に逢いやすい子っていうのが居るのは、教師をやっている美雨ならなんとなく分かると思う」


 私が初めて藤井と接したときに、強く感じたことだ。陰気でおとなしく、だからといって従順なわけではない、自分が傷ついたことはしっかりと表明してしまうような、自己愛の強い人間。


「カナちゃんは、そういう子だったんだよ」


 たぶん、春子はそのカナちゃんとやらに不満をためていたんだろうな、ということはなんとなく察した。もちろん、大切な友人。その子がいじめられていたらかわいそうだと思うし、助けてあげたいと思う。しかし同時に、傷つける側に回りたくなってしまう自分もいる。

 それは、高校時代に私が春子に抱いていた気持ちそのものだったのかもしれない。


「……細かいことは忘れちゃったんだけどね。私、カナちゃんのことを裏切ったんだ」


 春子は左下を睨み付けながら、そう言った。


「……その中学校の、キラキラしたグループの子に誘われるようになったんだよね。その子たちはカナちゃんに積極的にいやがらせをしていた子たちだったんだけど、それまで地味な女の子で通っていた私としては、彼女たちと遊べるようになったことがとても嬉しかった」


 高校二年生のころ、春子の中学の卒業アルバムが流出したことがあった。その頃と比べて、似合わないメガネをかけ、メイクをしておらず、髪型もいまいちあか抜けないお下げだったことから、「永野春子は整形だ」という噂まで流されて、可哀想な目に逢っていた。


「カナちゃんは、その子たちと遊ぶようになった私を責めた。『どうして私の味方をしてくれないの』って」


 過去の春子の言動と被った。――そうか、だから彼女は。


「私がそのことについて言い訳をしたり、逆にカナちゃんを責めたりする度、カナちゃんは本当に悲しそうな顔をした。……そういう日が重なって、彼女は学校に来なくなった」


 そうか、高校時代の私は、中学生の頃の春子と一緒だったんだ。納得した。あんなにも友だち甲斐のない私のことを春子が手放さなかったのは、単純に彼女にその資格がないと感じていたからだったのだ。

 春子は、自分にもできなかったことを私に求めていた。


「美雨は、学校の先生になって、そういう問題に正面から向き合ってこうなったんだよね。三島くんが美雨のことを『格好良い教師』って言ってたけれど」


 春子は自身の顔を覆った。


「……美雨にそんなもの、求めなければ良かった」

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