第31話


 身体中の怪我が痛むし、右目の視界不良に慣れていないにもかかわらず、かなり早い段階から松葉杖での歩行の訓練をさせられるのだな、と内心少しだけ不満に思っている。病床数も限られているし、私一人を甘やかすわけにもいかないのだろう、看護師の方に「若いし元気だから回復が早くていいわね」という言葉をかけられる度に、言外に早く退院できるように調整してね、という圧を感じる。仕方のない話だ。

 そんなある日、春子からLIN○が届いた。


「どういうこと」


 その一言だけのLIN○に、彼女の動揺っぷりが伝わってきて、なんだか笑ってしまった。


「どういうことか知りたいなら、見舞いに来る?」


 ちょっと軽いノリで、まるでちょっと近所に飲みに誘うようなテンション。あんまり深刻になるのは、好きじゃないのだ。






 実は、両親と智輝を除けば、私の見舞いに来たのは春子が初めてだった。


「智輝から事情を聞いたの?」

「そう。……美雨が、職場で怪我をして運ばれた、とだけ。詳しいことは聞いていない」

「そう」

「返信が来たから安心したけれど」


 こういうとき、春子はなにを考えているのか分からないような表情をすることがある。


「いやでもさ、大変だったのー。実は私、右目があんまり見えてないんだけどね」


 彼女の表情の変化を見るのが怖くて、私は目をそらした。


「視神経の治療のための手術が終わったと思ったら、ギャンギャンにステロイド投与されてさ。お陰で大分見えるようにはなったんだけど、顔とか、今の二倍くらいに腫れあがったんだから……とても、春子とか職場の人とかに見せられるような感じじゃなくて、報告が遅れた。見舞いに来たのも、あんたが初めて」

「……そういうのもステロイドなんだ。いろんなところで使われるのね」

「え?」


 春子の意見が少々独特だったので、驚いたのだ。

 しかし、彼女は話をそらした。


「……智輝くんは、何て言っているの」

「いや、正直めちゃくちゃキレてるっぽい。私の前ではあんまりそういうの見せないんだけど、この間うっかりうちの母親と話しているのを聞いてしまって」


 そこまで言って、やはり黙っておこうと思った。智輝の口から学校に対する法的措置、という言葉が聞こえ、私は縮みあがったのだ。


「……美雨の職場にぶちきれてた、と」

「そう」


 適当にまとめてくれるのは、ありがたい。


「まあ、そりゃそうよね。婚約者が死にかけてニコニコしていられる男なんて、逆に不信感しかないよ」

「言えてる」


 本当は、もっと色々訊きたいことがあるのかもしれない。同居していたころ、私のスカートが切られた事件を知っているだけに、人間関係トラブルを抱えていたことはよく分かっていたはずだから。

 それでも彼女は、その話題に触れることはなかった。その辺りは、当事者だとか、親族・婚約者だとか、職場の人間に任せるべきだという判断なのかもしれない。私と春子は、ただの友人。この関係はなんの契約も、法的効果も有しない。

 時々、不思議に思うことがある。友情って、なんなのだろう。互いのことを大切に思っているのは間違いないと思う。でも、ある一定の範囲から内側に入ることはできない。私と春子との関係は、私と智輝との関係を越えることは、一生あり得ないのだ。





「失礼いたします」


 春子が来てから一時間ほど経ったであろうか、カーテンの仕切りの向こうから声がした。――しまった、つい春子を長居させてしまった。今日は司法修習の用事で、智輝は一日中病院に来られない。そのタイミングを利用して、見舞い希望の予定を詰め込んだのだった。


「えっ、どなたかいらっしゃる予定だったの」

「うん……ちょっと、職場のね」

「マジで? 言ってよ」

「忘れてた、ごめん」


 私は仕切りの外に向かってどうぞ、と返事をした。佐伯教頭と、竹下先生の姿がそこにあった。


「どうも、失礼しております。それでは」


 春子は軽く頭を下げると、その場を退出した。

 今日、二人がやってきた理由は、例の事故のことを詳しく訊くためだと思う。短く世間話をした後で、彼らは本題に入った。


「……結局あの日、何があった? 俺が来たときには原田ちゃんが階段の下で倒れていて、踊場付近で藤井さんがガタガタ震えてたんだけど。あと、その前に必死って感じで走っていく生徒数名を見た」

「竹下先生、また原田『ちゃん』になってますよ」


 教頭のお叱りに、竹下先生は首をすくめた。竹下先生の中で、私はいつまでも「原田ちゃん」。その関係が、いまだにとても、心地よい。

 私は正直に、詳細に、あの日のことを話した。あの場に居た女の子全員の名前も、しっかりと覚えていたのだ。高一の少女たちはきっと、自分の行いを誤魔化そうとするだろう。しかし、相手は所詮高校生。具体性のある真実に勝る嘘をつきとおせる訳がない。

 竹下先生は、私の言葉を聞くたびに眉根に皺を寄せた。痛そうだ、と感じているのか、それともそんなの酷い、と憤っているのか。教頭は、私の話をメモに刻んでいた。後で生徒たちに話を聞く際に使うのだろう。


「……状況としては、そんな感じです。動機とかそういうのは、なんとなく想像できるところはありますが、生徒から話を聞いてからの方が良いですよね?」

「分かりました。……お辛かったでしょうに、詳しく話してくれてありがとう」


 教頭は、頭を下げた。


「原田先生。……先生のなさったことは、何も間違ってなんかいないんですからね。いじめられた生徒を救うことが間違っていただなんて、そんなはずは――」

「え? 全然、間違ってましたよ」


 私は教頭の綺麗事に思わず吹き出し、そう答えた。


「いやいや、今さら何仰るんですか、やだなぁ。私は後悔してますよ。あの日、当時中学三年生だった彼女たちの問題に足を突っ込んでしまったこと。仮にも、自分をいじめから救った教師を階段から突き落とすような生徒ガキ、いじめられて然るべきだし、それで自殺するならすればよかったんです」


 教頭は、口をパクパクとさせてこちらを見ていた。


「私は、一人の生徒の命より、自分自身の右目の方が大事です。――そういう人間ですから。意外とそういう人、いると思いますよ? あの子藤井を助けたこと、ものすごく後悔していますし、そう思ってしまうことを反省する気持ちは微塵もありません」


 私が笑顔で畳み掛けたのが怖かったのか、教頭はそれ以降、なにも言葉を発しなかった。通常、私がめちゃくちゃなことを言ったり、臨戦態勢になったりすると、竹下先生はすぐに制してきたものだった。しかし、今日の彼は一切そんなことをしなかった。教頭の言葉が的はずれだな、と感じていたのかもしれないし、はたまた私に共感してしまったのかもしれない。


 その晩、美味しくもない病院食を食べながら、今後の仕事について考えていた。――教頭、職場復帰のことについて、何も言わなかったな。そんなことを不意に思い出した。もしも私のことをクビにするなら許せない、そう思った。そんなことが許されるのなら、どうにかして私立豊桜学園をめちゃくちゃにしてやる、と誓った。





 退院前日、智輝が病院に訪れた。車椅子を借り、病院の敷地内をゆっくりと散歩する。


「智輝」


 私は、彼が言葉を発する前に、早口で弁明をした。


「私、ちゃんと新生活送れるから」


 ええ、急に何? と智輝は微笑んだ。


「確かに片方の目が見えにくくなって、多少は不便を感じることもあるかもしれない。だけど、絶対に智輝には迷惑かけない。左目はちゃんと見えるわけだし、同じような状態で、普通に仕事をして、運転だってしている人もいるんだ。それまで怠惰に生きていたぶん、これからは一生懸命なんでもする。だから、そんじょそこらの女より、絶対良い妻になるから」

「ええ、何? 俺、美雨との結婚をやめようとしているって思われてたの?」


 智輝は吹き出した。


「……だって、智輝は当然初婚だし、弁護士になるようなエリートなわけじゃん。そんな子がさ、わざわざ目が不自由な私と結婚するメリットってないじゃんって。少しだけど、顔にも傷が残っちゃうだろうし。たぶん皆そう言うだろうなって」

「そんなことで決心が揺らぐような人間と、婚約なんてしない方が良いよ……」


 智輝は終始、おかしそうにしていた。


「そんなもん、家族になって、何年かしたらどちらかが病気になって、介護生活になる可能性だってあるんだから。結婚って、そういうもんじゃん。楽しいことばかりじゃない、だから決心が必要なわけよ」


 その決心って、俺だけじゃなくて、美雨にも必要なんだよ? と智輝は笑った。

 目の前の景色がにじむ。このとき、私は智輝の言葉が嬉しかったのだろうか。それとも、こんなに思いやりのある人間に対して、完璧な自分を手渡すことができなかったことを悲しんでいたのか。前者だったらマジで嫌だなあ、私らしくない。結婚していただいて嬉しいだなんて、なんだか本当に私らしくない。私はいつでも幸せで、幸せを当然のような顔をして享受する原田美雨なのに。

 本当に、笑えるほどにプライドが高い。


「あ、ただ、ひとつ頼みがあって」


 智輝がふと思い出したかのように、口を開いた。


「仕事のことなんだけど……申し訳ないけれど、辞めてもらえるか」

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