第30話

作者注:今回はかなりの鬱展開です。ある程度覚悟して読まれることをおすすめいたします。

 こういう暗い展開がとても苦手な方は、「原田先生、ちょっと待ってよ」という台詞まで読んだら一旦閉じて、次の話から読むことをおすすめいたします。





 大きくて古い体育館倉庫の前で足を止め、ふと考えた。――信用しても大丈夫だろうか。あんまり疑心暗鬼にはなりたくない、相手はよりによって、いじめられていた藤井だとか、元々その友人であった、おとなしいタイプの子たちばかりだ。私への復讐はあくまで例のいじめの件で処分を受けた子たち側によるものであって、藤井たちがそれに便乗するのは不自然であると考えるのが一般的だ。

 しかしもし、彼女たちのパワーバランスが完全に狂っているとしたら、どうだろう。処分を受けた本田たちが、自分等の言うことを聞かないと、再びいじめを行う、とでも言ったとしたら――


「ごめん、ちょっと用務員さん呼んでくるね」


 Gがいや、というのもある。九割方それだと言っておく。しかし、万が一にもこの倉庫に閉じ込められたとしたら、その後が面倒くさい。

 地下の体育館前から、一階の用務員室に向かおうと、階段を駆け上がった。もし本当にただ虫がいるだけなのだとしたら、逃げないうちに始末してもらえばいい。

 そのときだった。


「原田先生、ちょっと待ってよ」


 呼び止められて振り返った、その瞬間、背後から強く右腕を引かれた。

 私の右目の端に最後に映ったのは、あの藤井の動揺した表情だったと記憶している。






 痛い、よりも先に気色悪い身体の浮遊感が来たことはよく覚えている。あのときと一緒だ、ドアに指を挟み、迷走神経反射を起こしたときのアレ。

 やっぱり、信用してはいけない相手だったのだ。故意に腕を引かれ、階段から落とされたことに気づくと、こんなところでうずくまってなどいられないと思った。私はとても勝ち気で、こういうシチュエーションを悔しい、と感じてしまう性質たちだったのだ。段数にして、十段以上滑り落ちただろうか、私は無理矢理身体を起こそうとした。

 悲鳴が聞こえた。――演技交じりでない、本物の悲鳴って、なんとも汚い音である。曖昧母音に濁点がついたような、のどの奥から絞り出したようなその声が遠くに聞こえ、自分が相当ヤバイ状態であることを察する。


「私……私、悪くないから」

「私だってこんなつもり……藤井がやったことだから、私は知らない!」


 そんな声と共に、生徒の上履きの音が遠ざかっていく。せめて、誰か他の教師を呼んでくれ。どうしてこんなときに、体育科の先生がいないの? 自らの間の悪さに、絶望する。

 横向きに落ちたせいか、身体の右半分で痛くない部分が逆にあるのかと疑問に思うほどだったが、一番まずいのは、側頭部を打っていることかもしれない。深いあかが地面や私の袖を染めるのを、まともに開けられる左目でずっと観察していた。


「……原田先生!」


 階段の上から男性の声が聞こえた。その姿を確認せずとも、竹下先生だとすぐに分かった。


「原田先生、大丈夫か……あっ」


 焦って私を起こそうとした竹下先生の表情が強ばるのを見て、急に怖くなった。


「助けて……死にたくない。死にたくない!」

「原田先生、大丈夫だから。死なない、すぐに救急呼ぶから待ってて」


 叫んでいるはずなのに、自分の声すらひどく遠く聞こえたのは、とてもよく覚えている。







 次に目を覚ましたときには私は病院に居て、複数箇所の手術を終え、幾多の管に繋がれた状態だった。ナースコールが押され、両親や智輝の泣き顔が鮮明に左目に映った。ああ、助かったんだという思い。世話になっている人々の顔を思い出すことができていることへの安堵。麻酔が切れ、耐えがたいほどの全身の痛みに、生きている実感を得た。私は本当に、今、死ぬわけにはいかなかった。――ただ、生きながらえることを是としていたから、こうなったのだろうか、そんなつもりはなかったんだけどなとぼんやりと考えていた。


 側頭部、というより眉毛の横辺りには、視神経が通っているということを聞かされたのは、事件があった翌日の朝だった。目自体には傷がないのに、どうして右目が見えないのかという疑問への単純明快な答えだった。

 外傷性視神経症、という診断を受けた私は、絶望しない理由を探していた。左目は普通に見える。片方だけ見えれば、とりあえず本も読めるしスマホも触れる、アイメイクはちょっと手間取るかもしれないけれど、おしゃれだって問題ないじゃないか。仕事は――したいかどうかは別として、数学を教えることはできなくもなさそう。黒板に文字だって書けるはずだ。第一、私よりハードな環境に置かれている人はたくさんいる。こんなことで弱音なんて吐いていられない――

 私の理性はとても優秀で、たぶん、こういう発想は私の不安をかなり和らげてくれていたと思う。しかし、今まで当然にあったはずの感覚を失ったことに対する恐怖というのは、自分が想像していた以上のものだった。

 ただ、そんな感情にゆっくり浸っている余裕もなく、次々に治療は行われた。腕や足の手術と同時にやっておいてくれよ、と思わなくもないが、視神経管周辺の手術が行われ、数日間にわたる高濃度のステロイド投与が行われた。麻酔酔いや薬の副作用に苦しみ、眠れない夜が続いても、不思議と私は死にたいとは思わなかった。


 入院五日目の朝には、右目の視野の半分ほどが回復した。これ以上の視力予後は期待できないと言われたとき、私はいろんなこと――例えば、仕事を辞めないための言い訳や、智輝との結婚を諦める必要がないという言い訳を探していた。普通の人はもう少ししっかり悲しむと思うし、私がちょっと変な人間だということはよく分かっている。しかし、そんな自分の呑気さは嫌いではない。


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