第29話
よくよく考えてみると、私はやっぱり生意気な後輩だったと思う。竹下先生は優しくて、企業での社会人経験もあるから、大きな懐をもって私と接してくれているのだろう。本来、仕事場で出会った人間が仲良くなれるはずなんてないと、企業に勤める友人からは聞いている。私は学園の外に出たことがないから分からないけれど、そうなのかもしれない。
そのように考え始めると、今まで竹下先生にはなんて失礼な態度をとってきてしまったのだろうという気持ちになるのだ。
「原田先生は頑張ってるよぉ」
宴もたけなわ、竹下先生がくだを巻き始めた辺りで、牧野先生はまたですね、と私に目配せをする。
「だって、当時の担任よりもちゃんと生徒のことを観察しててさあ……」
「竹下先生、その話もう四回目ですよ」
三島先生が優しく突っ込む。
「原田ちゃんが新卒で入ってきたときから、この子はすごい教師になるって思ってたんよぉ」
「竹下先生。その話も、三回目です。あと、原田先生のこと『原田ちゃん』呼びしちゃってますよ。前に教頭に怒られてたじゃないですか」
三島先生が竹下先生を諭しているのを尻目に、私はその場を抜け出した。なんだか、いたたまれない気持ちになったのだ。
荒れた唇に、焼き鳥のたれが染みる。軽くうがいをすると、ポーチからお気に入りのリップを取り出す。
「お疲れさまでーす」
「どう? 竹下先生は」
「相変わらずご機嫌な泣き上戸です。三島先生が面倒みてます」
後から化粧室にやってきた牧野先生が、事も無げにそう答えた。
「……原田先生がそうやってメイク直ししているの、めちゃくちゃ久しぶりに見ました」
「そう?」
「はい。ここ最近、委員のことやら保護者会のことやらでめちゃくちゃ忙しかったじゃないですか。そういうのもあって、お互いあんまり余裕がなかったですよねー」
牧野先生は、艶やかなロングヘアをバレッタでまとめ直した。その慣れた動作に、思わず視線が釘付けになる。
「休憩時間に、原田先生と服とかアクセの話とかするの、私結構楽しみだったんですけど、最近そういうわけにもいかなくなってるじゃないですかあ」
残念そうに肩を落とす牧野先生の言葉を聞いて、少しばかり驚いていた。
「……すみません。回りくどい言い方苦手なんで、やっぱりストレートに言いますね。私、原田先生のことめちゃくちゃ心配なんですけど」
牧野先生の気の強そうな瞳が、こちらを真っ直ぐと見つめた。
「竹下先生も、酒の力を借りてあんな感じのこととしか言えていないですけれど、本当に気にかかっているご様子です。――どんどん、いつもの原田先生から離れていくって」
「私が、いつもの私から?」
「そうです」
牧野先生は少し怒っているかのようにも見えた。
「いつもの原田先生なら、誉められたら秒で調子に乗るし、竹下先生がボケたら必ず突っ込む。そういう、当然のやり取りがなくなっているのって、原田先生がかなり追い詰められている証拠なんじゃないかって思ってしまうんですよ」
「……正直、ここ最近はそうかも。イレギュラーな仕事が入った上、保護者対応は得意じゃない」
今さら弱みを隠したって、無駄だろう。
「私生活でもちょっと変化があったりして、だいぶん疲れていたのかも」
自己分析をしてみると、なんとも単純な話だったりもする。婚約に、春子の転出。めでたい行事であっても、連続することで少し心が置いてきぼりになっているのかもしれない。
ただ、それらは間違いなく大切なものなのだ。
「……ようやく仕事も一段落したところだし、久々に休暇でも取ってみようかな?」
教頭には結婚の件をすでに伝えてあり、再来週いっぱいは結婚休暇を取得する予定でいた。一方、そんなことはまだ知らされていない牧野先生は、少し不安げな顔をしていた。
その週の週末は、主に引っ越し作業に追われた。実際に転居するのは来週末、その勢いで婚姻届を提出することとなっている。
春子と違って、私はやはり、荷物が多い。それなりに長く住んだということもあるが、それ以上に、物をあまり捨てないでいたことが大きな原因だと思う。手伝いに来た智輝はなにも言わなかったが、改めて私の部屋の汚さに驚いていたのではないかと思っている。智輝と住み始めたら、きちんと掃除する習慣をつけたいと思う。
手伝いを終えた智輝は少しお疲れ気味の様子で、船をこぎだした。布団を用意すると、あっという間にすやすやと眠りにつき、その寝顔があまりに可愛らしかった。――守りたい、この笑顔。なんて。
なんだか少し元気を取り戻しつつある、水曜の昼下がり。私は週番の体育教師に用があり、体育準備室へと向かっていた。
「きゃーっ」
体育館倉庫の方向から、生徒の悲鳴が聞こえてきたのだった。複数名の高校一年生の生徒が駆けてくる。
「原田先生! 早く来てください」
その中にはあのいじめられていた藤井も居た。
「なにがあったの」
「倉庫に、Gが出たんです。……ちょっと、処理してくれませんか」
私も虫は苦手である。Gなんてごめんだが、そうも言っていられないのが、教師の悲しき性である。
「ちょっと待って、今そっちに行く」
私はひとつため息をつくと、彼女たちのいる方向へと歩き出した。
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