第28話



 講堂には、大勢の保護者が集まっていた。私の母がそうであったように、どこにでもいるような、なんの変哲もないお母さん、といった雰囲気の方が多数いる一方で、明らかにこの人はただものじゃないな、という方もいる。そういう方は大体、有名企業の社長の奥様だったりする。――人の立場や内面って、外見にしっかりと現れるんだな、と思ってしまう。


「それでは、高校一年生の保護者会を始めます」


 司会役の教頭の声に、自然と背筋が伸びる。今週は高校の保護者会。中学三年生の担任であるはずの私がここにいるのは、単純に高校二年生の数学を担当しているから、それだけの話である。本来の本番は来週、中学の保護者会。


「まず始めに、田丸学年主任、よろしくお願いいたします」


 学年主任、生活指導、進路指導。それから、各教科の担当教師。順繰りに生徒たちの現在の状況、家庭でフォローアップしてもらいたいこと等を発表していく。形式上、教師ごとに質問を受け付けることにしている。しかし通常、その場は何事もなく次の議題に移る。大きな講堂でマイクを使って発言をするのは、大抵の人間は躊躇いを覚えるものである。講堂発表の後、クラス単位で集まった際に、個別の質問を受け付けることがほとんどなのだ。


「以上で、数学科主任より説明を終わります。ご質問等ございますでしょうか。――それでは、マイクの方を」


 ある保護者がマイクを手渡され、話し始めた。耳の奥がキーンと音を立て、何も聞こえなくなる。私は、ゆっくりと目を閉じた。聴きたくないものは、聴かない。


 次に目を開けたときには、既に高校二年生の保護者会が始まっていた。そうだ、高二の数学科が呼ばれたら、私も壇上に登らなければならない。手のひらが、ひんやりと冷たくなった。


「それでは次に、数学科より高校二年生のカリキュラムについてお話をいただきます」


 壇上に上がる。私はなにも考えず、ただ用意されたパイプ椅子に座っていた。だだっ広い講堂がやたらと平面的に見えたし、数学科学年主任の言葉も呪文のようにしか聞こえない。私は何をしに来ているんだっけ? やんわりと疑問を抱いたまま、その場をやり過ごし、なにも考えないまま、用事が済めば段を降りる。早く帰って、春子とおしゃれなカフェで、甘いものを食べたいな。なぜか今さら、そんなことを考えていた。





「原田先生。……大丈夫ですか」


 保護者会終了後、私はいつのまにか職員室の自席にいて、牧野先生が私の顔を覗き込んでいた。


「私……保護者会、ちゃんと出てたよね」

「もちろんです」

「……竹下先生は?」

「竹下先生だって、ちゃんといましたけど」

「今は? どこにいらっしゃる」

「数学部の活動に向かいましたよ……原田先生、竹下先生と何かあったんですか」


 私はやんわりと首を振った。こめかみのあたりに、じわりと痛みが走る。


「原田先生。……最近、本当にお疲れでしたよね。そろそろ、また若手会、開いちゃいません? 私、行ってみたいお店ありますし、もし今日空いてたら他の二人も誘って――」

「ごめん、今日はちょっと。……お誘い、ありがとう」


 私は荷物をまとめると、職員室を後にした。

 ワンルームの自宅に戻った。食卓の上に、書き置きが残してあった。



『美雨へ

 半年弱もの間、お邪魔させてくれてありがとう。全てを捨てたのに、生きながらえてしまった私としては、本当に助かりました。

 美雨と過ごしていると、高校一、二年の頃の楽しかった想い出がよく思い返されました。大人になった美雨と一緒に暮らすようになって改めて、あの頃は楽しかったんだと再認識しましたよ。

 教職って、大変なんですね。お体に気を付けて、智輝くんとも仲良く頑張ってくださいね。五月の頭には、遊びに行きましょう。個人的には鎌倉希望です

春子』



 春子の手紙はとてもオーソドックスで、特に感動したというわけでもない。寂しいとも感じていないつもりだ。

 ただ、不安だった。私が一番苦しい時期に、春子はずっとそばにいた。どんなに荒れた生活を送ろうと、彼女が勝手に整えてくれた。彼女は別に、相性の良い友人ではないし、どちらかといえば厳しく口うるさい人間だけれど、なんというか、その部分だけは絶対に崩れないという安心感があったのだ。仕事とも、恋愛とも関係のない、私のもうひとつの世界。オタクの友人はよく「推しからしか接種できない、特別な栄養がある」という言い方をするのだが、私にとって春子はそう。彼女と一緒の食事でしか摂れない心の栄養がある。

 あの日――私たちが再会した日、酒に滲んだ世界で、救われたのは春子だけではない。結果論として、本当に救われていたのは私自身だったのだ。これからは彼女なしで、この崩れ始めたユートピアを生きていく。大丈夫、私にはまだ、智輝がいる。牧野先生だって、三島先生だって味方してくれるだろうし、やっぱり竹下先生だって、頼れる先輩で居てくれるはず。きっと、そのはず。私の幸せな世界は絶対に壊れない。そう信じたい。





 周囲の先生の話から察するに、あの日の講堂発表で、竹下先生と私の件については、話題にならなかったらしい。文句を言っているのは田中家くらいのもので、他の家庭からは特に苦情が来ているわけではないという。田中母だって、あんな大きな講堂で、衆人環視の中、自分のわがままを聴いてもらおうとするほど常識のない人間ではない。あのとき手が上がったのは「もしも数学の授業についていけなくなったら、家庭ではどのようなフォローをすればいいのか」という内容の、相当一般的な質問が出たのみであり、私と竹下先生に直接関わるものではなかった。少々気にしすぎたのかもしれない。

 一方、その後のクラスごとの集まりにおいては、少しばかり数学科の担当変更の件について話題になったと聞いた。授業の質の差については触れず、あくまで「どうして急な人事異動があったのか」という疑問にとどまったようである。


「結局、高一の件について正直に話すことになった。……隠そうって言ったっていずれはバレるし、正直に事情を話せば親御さんだって分かってくれるはずだっていう判断」


 高一のクラス担任をも務める竹下先生は、何気ない風にそう言った。


「……この度は本当にご迷惑を」

「だーから、本当に気にしなくって良いんだって」


 竹下先生はそう言ってくれるけれど、私としてはいつもみたいに「ではお言葉に甘えて」というわけにはいかない。

 少なからず、彼のプライドを傷付けた。厄介ごとに巻き込んでしまった。その罪悪感を拭うことができないままでいる。


「来週、中学の保護者会だったよね」

「……はい」

「俺はあんまりすることないけれど、原田先生もそっちが終わったら暇になるだろうから、そしたらまた四人で飲みに行こう。……結局今年は新卒採らなかったな。若手会のメンバーがまた増えるかなって期待してたんだけど」


 いつもなら間違いなく「これ以上若手会のメンバーが増えたら、私たちが押し出されるだけですよ。いつまでも若手ではいられないんですから」と乱暴に突っ込んでいたはずだった。しかし、それすらできずに私は曖昧に笑っていた。竹下先生は、少し不思議そうに首を傾げた。






 翌週には、中学の保護者会も無事に終わり、私たち若手教師四人組は牧野先生が行きたいと言っていた、もつ鍋が美味しいと有名な居酒屋に来ていた。


「それでは、保護者会お疲れっていうことで。かんぱーい」


 竹下先生の音頭に合わせて、私たちはビールのジョッキを鳴らした。

 お通しのだし巻き玉子は、居酒屋にしてはややマイルドな味付けで、普段の私なら間違いなく好みのものであった。


「どうするー? 気になるメニューあったら、皆順番に言っていく? ……あ、原田先生の好きな竜田揚げあるけど」


 竹下先生がメニューを指差し、私をいじる。


「あ……そうですね、皆さんも食べるなら」


 ここでも、なんとも曖昧な返事をしてしまって、やはりちょっと場の空気が変な感じになる。いつもの私なら「欠かせないです」と短くきっぱり返答していただろうか。どうにも調子が出ない。


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