第27話





 保護者会当日の土曜日に、春子は引っ越しを行った。


「あんまり手伝えなくてごめんね」

「いいの。どうせ荷物も少なかったし、これまでいろいろ手伝ってもらったし」


 春子をうっかり拾った翌日に、あれだけデパートで爆買いしたと思っていたのに、彼女の荷物は非常に少なかった。私物が小さめの段ボール箱五つ程度に収まってしまったのと、家電等は新居に移ってから購入する予定であるため、もはや引っ越し業者ではなく宅配便に頼んだ方が安上がりという有り様であった。

 彼女の人生が、一から始まる。


「そうだ、これ。……新生活祝いってことで、大したもんじゃないけれど」


 私は春子に内緒で用意していた小包を渡した。


「何これ、開けてもいい?」

「いいよ。……本当につまらないものだから期待しないで」


 彼女は厚手のビニール袋のセロハンテープを丁寧に剥がした。


「みじん切り器?」

「そう。いつもうちの家で使ってたでしょ? 春子の家にもあると便利かなって。……またいつかハンバーグとか作ってよ」

「ははっ。ありがとう、確かに便利だわ。またうちに遊びに来な、なんか作ってあげるから。……あれ、もうひとつある」


 彼女は、ビニール袋の中に一緒に入っていた小包をゆっくりと開く。

 花柄のラッピングを解くと、小さなアクセサリーケースが出てきた。こういうとき、もしも店員さんの手違いで、ケースの中が空だったらどうしよう、なんていう想像をしてしまう。


「えー、何?」


 春子が少しだけ、ワクワクしたような表情を見せる。……いよいよ、中身が空だったらどうしよう。

 まさかそんなことはあるはずもなく、そこには一組のイヤリングが収められていた。


「これ、あれじゃん」

「そうそう、私の持ってるやつの色違い。……ほら、春子、いつもあのイヤリング着けてたからさ。気に入ったのかなって思って」


 ちょっとしたファッショングッズ――ネックレスとか、イヤリング、マフラーといった類いのものは、この数ヵ月間、しょっちゅう春子に貸していた。その中でも一番よく貸していたのがラン○ン・オン・ブ○ーのイヤリングだった。縦長オーバルの、やや大振りなデザインのそれは、顔周辺に適度なインパクトを与えてくれる。


「私が持ってるのはゴールドだけど、春子は本当はシルバーが好きって言ってたからそうした」

「うん! ……理想のやつだ、ありがとう」


 春子って、プレゼントくらいでこんなに嬉しそうな顔をするんだ。なんとなく、不思議に思ってしまった。こんな小さなことで喜んでくれるような人間の笑顔を見た記憶があんまり無かったから、学生時代の私はやっぱり友人失格だったんだと思う。

 ――私、この五ヶ月間、ちゃんと春子の友人を務めることができたかな? そんな問いを本人に投げ掛けることはできないけれど、少なくとも、十年前の自分とは違うなって思ってもらいたい。




「引っ越し当日までお弁当作ってもらって申し訳ないや」

「保護者会の日に引っ越しをぶつけた私が悪い。……どうか、頑張ってきて」


 午後十時、普段なら休日だったはずの土曜日。保護者会のためだけに登校する私に、春子はエールを送ってくれる。


「……じゃあ、私はそろそろ家を出るけれど、春子、ちゃんと鍵を閉めていってね。合鍵は、そのまま持っていってくれたらいいよ。今度、旅行に行くときにでも持ってきて」

「了解」


 忘れ物はないね? 私は自分に言い聞かせた。私が学校から帰宅する頃には、春子はいない。


「春子。……じゃあね」


 玄関で見送る彼女に向かって、私は手を振った。







 最後の弁当は、私の大好きな唐揚げと、ひじきの煮物にブロッコリーサラダだった。


「おっ、唐揚げなんて珍しいんじゃないですか? 原田先生、結構ヘルシーなメニューだったじゃないですか」

「自分へのごほうび、みたいな」

「もしかして先生、ダイエットされてたんですか? 良かったぁ、てっきりここ最近のストレスで痩せてしまわれたのかと思って」


 牧野先生が顔をほころばせる。


「マジ? 私、そんなふうに思われてたの」

「ええ、もちろん」

「そんなわけないじゃん。私、ストレスで痩せるタイプじゃないよ」


 どちらかというと、やけ食いしてしまうタイプ。そんな私を春子がうまくコントロールしてくれていたのは、今となってはありがたい。


「ほら、原田先生、牧野先生! ゆっくりしゃべっている暇があったら、早く食べて、こっちを手伝ってちょうだい」


 教頭のお叱りに、二人揃って首をすくめる。とりあえず静かにしておきましょうか、と牧野先生が舌を出した。


「そういえば、竹下先生は? 私、万が一保護者から異動について質問を受けたときの回答の準備をしておきたくて」

「ああ……そういえば、見ませんね」

「数学科準備室かな……」


 いそいそと弁当を食べ終わると、私は竹下先生の元へと足を運んだ。

 竹下先生は、案の定、数学科準備室に居た。


「竹下先生。……一人でこんなところで、何をしてらっしゃるんですか」

「ああ……原田先生」


 心ここにあらず、といった様子で、彼は私を出迎えた。


「うーん。ちょっと一人で考えをまとめようと思っていたところだったんだけど……もう、時間切れだな」


 竹下先生が、ちょっと悲しそうな顔で微笑んだ。時間切れということは、やはり今日の保護者会と関係することなのだろう。


「あの、もしかして」

「今日の保護者会では、おそらく原田先生と俺の授業の質の差について問われることになると思う」

「私、今日の保護者会のための想定問答集作ってきたので――」

「田中桃乃さんのこと、ご存じ?」

「ええ、もちろん。桃乃さんが高一、妹の七海さんが中三。私、去年は七海さんのクラス担任をしていました」


 私がそう答えると、竹下先生はそうか、と相づちを打つ。


「その、桃乃さんの方なんだけれど……最近、全く数学の授業についていけてないらしい」

「はあ」

「……桃乃さんはD組、元々は原田先生の授業を受けていた。それが僕に変更になったのが問題なのではないかって、親御さんからのクレームの電話が入った」


 参っちゃったなあ、なんて言っておどけたけれど、竹下先生の口調からはショックを隠しきれていなかった。


「……先方は、原田先生が高一の担当に戻ることを望んでおられる」

「でも、私」

「もちろん分かってる。……全力で、守るよ」


 竹下先生はそう言ってくれたけれど。


「それにしても情けないなあー。原田先生を助けるつもりで代打を引き受けたのに、こんなことになるなんて」

「そんな、竹下先生が悪い訳じゃ」

「でも実際にクレームが来てるわけよ。……いやあ、何とかしなきゃな、参ったな」


 竹下先生は、優しい先輩だ。たぶん、こんなことで私に意地悪をするような幼稚な人間ではないし、これまで通りを装って――あくまでも「装って」、私に接してくれるだろう。

 でも、立場を逆にしてみたら容易に想像がつく。――今まで通りの関係には、戻れない。あくまで私は一年後輩。本来竹下先生に教えを乞わなければならない立場。しかし、先輩教師である竹下先生が私と比較され、叱責される。私が彼の立場なら、発狂しているかもしれない。

 教師と生徒というのは、残念ながら相性というものがある。ある生徒にとっては大変分かりやすい解説をするカリスマ教師であっても、他の生徒にとっては、全くそうでないということも、しばしばある。おそらく、言葉のセンスだとか、イメージ構築の仕方が自分と似かよっている教師を「優秀な教師」と認識するものなのだろうと思っているが、実際のところは分からない。分からないし、そんなことを竹下先生に伝えたところで、ただ嫌みったらしいだけだ。


「いやあ、ごめんなあ。ただでさえ心配ごとが多いだろうに」

「そんな」


 正直、私と竹下先生との間で授業のクオリティに差はないと思っていて、仮に田中桃乃の成績に明確な変化が見られたとしたら、それは彼女自身の問題なのではないか、と思っている。


「ああ、そんなこと言ってるうちに時間が」


 竹下先生は大きなため息をつきながら、数学科準備室を出た。ふいに、田中七海――妹が言っていたことを思いだし、私はあっと声をあげた。


「どうした? 原田先生」

「えっと。……いえ」


 言うか言わまいか迷った挙げ句、私は口を閉ざした。


 ――お姉ちゃん、他校に彼氏を作ったの。田中七海の甘い声が脳裏に再生されたのだ。お母さんには内緒だって、めっちゃ口止めされてるんだ。


 確定的なことは言えないけれど、かなり有力な説だと思っている。思春期の生徒は恋をすると成績が落ちることがある。田中桃乃もその例に漏れなかったのかもしれない。しかし、そのことを教育熱心な母親には言えずにいるのではないか。成績の降下を指摘され、とっさに数学教師が代わったからだ、と言い訳をしたとは考えられないか。

 竹下先生には、伝えた方が良いのだろうか。――しかし、今の私が何を言ったところで無意味なフォローをしているようにしか聞こえないだろう。だから私は、口をつぐんだのだった。


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