第26話





 その週の土曜は、智輝と一緒に新居を探しに出た。駅から徒歩五分程度、2DK以上で、風呂・トイレ別。

 ゴールデンウィーク直後に空くというある物件を内見し、仮押さえして、私たちはその場を後にした。


「ちょっと古いかもだけど、家電とか家具とかをこだわればいい感じになると思う」

「そうだね。美雨は、どんなのが好きとかある?」

「いや、正直あんまりデザインにこだわりはないんだよね。ただ、今うちにある洗濯機はボロいから、あんまり使いたくない」

「そんなにボロかった? ……僕は、結構アンティーク調のデザインの家具が好きなんだ」

「あ、じゃあ私の持ってる鏡台とか好みだったりする?」

「あれ、すごくいいよね! おしゃれで好きよ」


 新生活には、それなりにお金がかかる。金でワクワクを買っているな、と強く感じる。

 ふと、自分の左手薬指を眺める。冷たい光を放つ指輪に、ダイヤが煌めく。普段、職場につけていくことはない。しかし、家にいるときや、こうして智輝と外出するときにはちょいちょい着けたりして、自分のテンションを上げている。――生魚を投げられたり、スカートを切られたり、生徒に変な心配をかけてしまったりはしているけれど、なんてったって私、もうすぐ結婚するしな。そう思うと、大概の不運な出来事が、どうでも良いことのように思えてくる。


「嬉しいねえ。……本当に、もうすぐ美雨と一緒に住めるんだ」


 智輝のためにも、今、変に仕事を無理する必要はなかった。本当に、そう思う。


 結局、私は高校一年生の数学の担当を降りることとなったのだ。


「原田先生のおっしゃるとおり、いじめ対策に関わっていた先生を、高一の担当とするのは少々浅はかすぎましたね。申し訳ないです。――一週間の引き継ぎ期間を設けて、竹下先生と代わってください。竹下先生からは高二の引き継ぎを受けてくださいね」


 教頭からそう告げられたとき、少しだけ寂しいと感じてしまった。自分で言い出したことなのに、なんだか左遷されたような気持ちになったのだ。


「いやあ、大人気教師の原田先生の後釜は、緊張するわ」

「なんでですか! 私、別に人気じゃないっすよ」

「そうかあ? 授業分かりやすいって評判だけどなぁ」

ってなんですか、授業って」


 うだうだ言いながら、私たちは大急ぎで互いの受け持ち学年の進捗状況について報告し、引き継ぎを行った。竹下先生はとても話しやすい方なので、彼と引き継ぎを行うことに、全くストレスは感じなかった。


「原田先生が高一降りるって聞いて安心しました」


 牧野先生もそう言った。


「正直あの子たち、教育でどうこうできるレベルから外れてますもん」

「そうなのかなあ」

「ええ……たぶん、上手い方法なんてないです。誰かが貧乏くじを引くしかなかったんでしょうね」


 切り捨てるような言い方をする牧野先生。――彼女はまだ、教師二年目だ。そんな彼女に、そういう考え方を植え付けてしまったのは、果たして先輩教師としていかがだったのか、と内省する。まあ、私も三年目だけど。




 アラサーに差し掛かろうとしている私たちの人生は、多面的だ。趣味に友情、そして仕事と結婚。どれかがうまく行かなくても、その他のものに支えられながら、私たちはなんとか元気にやっていく。同時に、どれかがどれかの邪魔をしてはいけない。

 婚約の報告後に母親から電話がかかってきたことがある。そのときはいじめ対策委員の件で、かなり残業があった頃で、数件溜まった不在着信にかけ直した私に母親が言った。


「あんた、結婚後も仕事続けるの?」

「そのつもりだけれど」

「智輝くんはどう言ってるの」

「もちろん応援してくれているよ。……まあ、そもそも仕事優先、それに納得してくれない人とは結婚するつもりもなかったけど」

「それはどうなの?」


 それまで、とにかく職に就き、一人で生きていけるようにと口酸っぱく言ってきた母が、そのように意見を翻したことに驚いた。


「仕事って、あくまで生きていく手段だから……家庭はやっぱり大事なんじゃないの」

「でも、お金がなきゃ、生きていけないけれど」

「それはそう。……でも時には臨機応変に対応する必要もあるよ。智輝くんとあんたのどちらかが病気になる可能性だってある。そんなときでも、『仕事が一番大事だから』なんて言ってられないじゃない」

「……そんな日が来るのはきっと、十何年後かの話だから」


 そのときはそう答えたけれど、おそらく、今がまさにそのことを考えなければならない時期なのだ。辞める必要はもちろんない。しかし、不必要な我慢をし、周囲に心配をかけることの方が、よほど罪深いと感じるのだ。


 高校二年生の授業を受け持つようになって、実際、かなり精神的負担が軽減されたように感じる。ふとした瞬間に疑心暗鬼になり、身構える癖が減ったことに自分で気づき、学生ごときのいたずらに対して、まともに怯えていたことを再認識した。

 本来の私はとても見栄っ張りで、そんなことは認めたくなかった。中学、高校、大学、そして希望の教職。今までなんの問題もなく過ごしてきた私は、挫折に慣れていない。そんなヤワな自分が、今回の件で少しでも強くなれるのなら、それはそれでいいかと開き直る。そう思えるように、努力する。




 ゴールデンウィークを前に、一学期の保護者会が開催されることとなった。


「ああ、またこの季節ですか」

「三島先生、本当に保護者会嫌いそうね」

「だって、親御さんたちの視線って、それだけで怖くないですか? 人を見定めるような」


 三島先生が無駄に注目を集めるのは、若い男性であるということと、そのルックスのよさのせいだと思う。別に、誰も彼のことを狙おうだなんて思っちゃいないだろうけれど、本能として、彼のような人間に目が行ってしまう気持ちは分からなくもない。あるいは、自分の大切な娘をたぶらかしやしないだろうかと心配しているのかもしれない。――多くの母親にとって、自分の娘というものは、絶世の美女に映るらしいということはよく知っている。


「……それに、たぶん今回のメインの話題はだから、三島先生はそんなに力まなくてもいいよ」


 そう言って、竹下先生は私と竹下先生の間を指差した。高校一年生と、高校二年生。――デリケートな時期に、イレギュラーな異動があったことで、不満が出てこないとは限らない。竹下先生の授業はごくごくスタンダードで癖のないものだし、私だってそれなりに研修や資料を参考に、文句の出ないように計算しながら授業を行っている。二人の授業の質に差はないものと理解しているが、変化を気に入らない人間というのは一定数いる。


「ちょっと、竹下先生」

「はい」

「面接室Aに来てくれる?」


 教頭が突然彼を呼び出し、竹下先生がその場を離れた。


「何があったんでしょうか?」


 牧野先生が首をかしげる。――ただならぬ雰囲気を感じたのは、教頭の声色のせいだけではない。彼女が教師を個人的に呼び出し、個別の面接室で話をするときというのは大体、他の教師に聴かせるのが憚られるような話題であり、人事に関する悪いニュースだったり、厳しい叱責だったり、はたまた教師個人の病気や家庭の事情だったりと、とにかく良いイメージがないのだ。

 竹下先生と担当を代わったばかりの私としては、気が気ではない。私の申し出をきっかけに、竹下先生に妙なことが起きていたら、申し訳ないな、と思うのだ。


 小一時間ほどで戻ってきた竹下先生に、三島先生は大丈夫ですか、と伝える。


「大丈夫大丈夫、ちょっと担任のクラスの生徒同士が喧嘩したっていう話。全く、やんなっちゃうよ」


 そういう竹下先生の表情はどこか暗く、彼の言葉に嘘があることを如実に表していた。心臓の鳴りが止まらない。


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