第25話

 そんなのひどい、と春子は憤慨した。


「同僚? 美雨に嫌がらせするのは」

「違う違う。……周りの先生たちはいい人だよ」

「じゃあ何? 生徒なの」


 声が大きいよ、と私は春子を嗜める。


「大したことじゃないから、心配しないで。……安い服を着ていくようにしなきゃなー」

「上に相談しなきゃダメだよ」

「まあまあ、その辺は上手くやっておくよ。ほら、時間なくなっちゃうよ、はやく行こう」


 私は春子をトレーニングルームへと誘った。春子は少し納得の行かない様子で、私の後に続いた。





「ねえ、美雨。こういうの、初めてじゃないんでしょ」


 帰宅するなり、春子は再びあの話題を投げ掛けた。


「ちょっと、勘弁してよ。とりあえずシャワーだけ浴びさせて」

「私の質問に答えてくれたら、自由にしていいよ。……美雨、学校の生徒から『カスハラ』を受けているんでしょ。だって、スカートが切られているって分かったとき、またか、みたいなそういう反応だった」

「カスハラって……カスタマー・ハラスメントのこと?」

「そう。美雨は私立の中高の先生だから、ある意味生徒は顧客だよね。だから、カスタマーって言い方をしたんだけれど」


 春子は本当に憤慨した様子だった。


「この間、指も怪我してたよね。それも、生徒にされたんじゃないの」

「それとこれはまた別だって」


 徐々に面倒になってきて、私は鼻で笑った。


「スカートを切られるまでに、いろいろと嫌なことはされたはずだよね。……他の先生は、どうして助けてくれないの」

「若手の先生たちは、春子みたいにいろいろ言うけれど……正直、私がストップしてる」

「どうして?」

「生徒と対等に争ったところで、分が悪いのは私。騒ぎを起こせば、人事評価にだって影響がでちゃうかもしれない。……本当に大丈夫だから。生徒同士ならまだしも、私は大人だよ? 別に、こんなことで傷ついたりなんてしない。私に優しくしてくれる人なんて、生徒以外にいっぱい――」


 その瞬間、春子は台所にあった包丁を私に向けた。


「ちょっと」

「あんたの心が傷つくかどうかなんて知らない。……でも例えば、生徒があんたのことを刃物で刺したら、あんたはちゃんと死ぬの。私が刺そうが、その生徒が刺そうが、それは同じなの!」


 春子の両目からぽろぽろと落ちる涙を見て、私はとても驚いた。――あんたは私が死んだら、泣くの?


「……分かった。たしかに春子の言うことは正しいよ、私も甘く見すぎてたみたい。教頭にも相談してみる、これ以上痛い思いはごめんだからね」


 その刃物を下ろせ、と言うと、春子はおとなしく流しに包丁を置いた。どうしてこの子が泣き続けられるのだろう、と不思議に思っていた。

 春子はおそらく、とても共感力が高い。人が痛みを受ければ、それを自分の痛みのように受けとってしまう。一方で、自分の痛みや辛さについても、他人に共感を強く求める傾向にある。学生時代、彼女は友人とトラブルを起こす度に私に共感を求めた。ひどいと思うよね、とか間違っていると思わないか、と言われる度に、この会話に一体何の意味があるのだろう、と感じていた。そういう意味では私と春子はまったく相性の悪い人間であった。

 春子にとって唯一の友人だった私がそんな調子だったのは、彼女としてはとても居心地が悪かったのかもしれない。高校生の頃、イケメンくん――改め、佐原くんと春子が付き合うことになったのは、その点において気が合ったからなのではないかと思う。共感力の低い私のことを相談しているうちに、佐原くんは私に対して怒りを抱くようになった。こういう言い方をするとあまり良い感じはしないが、佐原くんの在り方は春子の望むものであり、そんな二人が付き合うのはおかしなことではない。





 翌日、私は教頭のところに相談に行った。


「……そういうわけで、私、たぶん高一の数学を降りた方がいいと思うんです。私だけじゃなくて、生徒にとっても」

「そうですか。少し、時間をください。考えてみます」


 実際のところ、本当に対処してくれるのかどうか分からない。しかしやはり、管理職に相談するというのは必要なことだったのだと思う。万が一のことがあったときに、私の落ち度、ということになる可能性が大幅に減ると思っている。問題を一人で抱え込むことは、社会人として間違った選択肢であるということは、重々聴かされている。


 職員室を後にし、私は担任クラスである中三C組へと向かった。まだ少し時間が早かったので、渡り廊下の窓から、外を眺める。この狭い世界の外では、もっともっとひどいことがまかり通っていると聞く。逃げ出す私は弱いだろうか。――でも私はやっぱり長生きしたい。なんて、絶対にごめんだ。

 ふとそんなことを思い、身震いをする。昨夜、春子が私に向けた包丁の刃が放った鈍い光を思い出す。今ここで、刺されたら? ――どきりとして振り返る。


「原田先生?」


 そこにはあずま――いじめの件を相談してきた生徒がいた。


「あっ、えっと、お疲れさま」


 生徒に向かって変な挨拶をしてしまった。


「お疲れさまです……?」

「うん、こんにちは」


 あくまで慣例ではあるが、生徒と教師との間で「お疲れさま」という挨拶はしない。通常、「こんにちは」だ。東も少々不思議そうな顔で私のことを見てくる。


「あの、原田先生。……最近、A組がヤバイって聞いてます。本当にごめんなさい、私が相談なんてしたから」

「いや、東さんは何も悪くないよ」


 勘違いをさせてはいけない。東の行為は誉められこそすれ、責められるべきものではない。たしかに、今は貧乏くじを私が引いている状態。しかし、藤井がいじめられっぱなしになるよりは、事態は改善しているといってもいい。私は大人だ。


「……これからも何か気になることがあったら、ちゃんと相談するのよ。私でもいいし、担任でもいいけど。今、東さんの担任って、竹下先生だったよね」

「そうです、よくご存じですね。まさか全校生徒のクラス、全員分覚えていらっしゃいます?」


 そんなことはないけれど、と私は首を振る。


「ちょっと心配です。先生、今まで結構おしゃれなお洋服着てきたでしょ? それなのに今日はジャージの上に白衣じゃないですか。数学の先生なのに、白衣なんて必要ないでしょう。もしかして、あいつらに汚されたりしたんじゃないかって」

「ああ、そういうわけじゃないから、大丈夫よ」


 汚されたんじゃなくて、切られたんだけどね。


「……私には何もできないんですけど、ただ、私のせいで原田先生が大変な目に逢っていたら申し訳ないなって、ただそれだけです」


 それだけ言うと、東はその場を去った。ああいう人間を、「強い」と表現するのだろうな、と思った。明らかに分が悪い方の人間の肩を持つことができる者は、そう多くない。頑張らなきゃな、と思った。

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