第20話

 通常、彼が私の家に訪れるときには、事前に連絡を入れてくれる。しかし、必ずそのようにしろとこちらが頼んだわけでもなく、合鍵を渡しており、基本的には自由に入ってください、というスタンスでいたのが悪かった。彼の来訪は盲点だった。逆に、今まで二ヶ月ちょっと、このような状況に直面しなかったことの方が不思議なくらいだ。私は基本的に嘘や隠し事に向いていない。そういう風に、育っていないのだ。


「……はい」

「智輝です。美雨は今帰ったところ? もしよければ、上がりたいんだけど」

「急にどうしたの」

「急に? ごめん、連絡は入れたんだけどな」


 スマホを確認する。たしかに、彼からの連絡は入っていたし、なんなら、なぜか私も返信している。――春子に送ったつもりの「今から帰ります」は、智輝に誤送信していたようだ。「今日の十一時ごろ、美雨の家に行っても良い?」「今から帰ります」。――まあまあ、きれいに文面が繋がってしまっている。これでは、智輝の来訪に備えて帰宅したみたいだ。

 しかし、まずい。智輝には春子のことを伝えていない。


「えっと、そうだったね。何の用事?」

「特別に用事があるわけでもないけど……たまには、美雨のうちに泊まろうかなって」


 そうだ、今までだってこういうことはあったじゃないか。私の家に智輝が泊まったり、智輝の家に私が泊まったり。――そのような関係において今さら「何の用事?」はおかしい。


「……あの、変なこと訊くけど、美雨、なんか隠している?」

「そ、そんなわけないじゃん」


 インターホンの画面越しに、智輝が顎に手をやる様子を確認する。どうやら、信じてもらえていないようだ。


「ごめん、俺合鍵持ってるし……美雨が開けてくれないなら、勝手に開けるけど大丈夫?」


 これはまずい。――智輝がこのような強硬な手段に出るのは、初めてのことだった。それだけ私の言動に不審な点が多く、何らかの疑いを持たざるをえなかったのだろう。例えば、浮気をしていて別の男を連れ込んでいるとか、そういう類いのやつ。そんな誤解、解いておくべきだ。


「私が開けるから待ってて」


 観念した。――春子が居候しているからってなんだ。別に浮気をしているわけでもないし、智輝には何の損もないわけで、怒られる筋合いはない。ただ、誠実で真面目な智輝に隠し事をしていたこと自体が後ろめたいだけだった。智輝の義理堅さを信じず、春子に会わせることに不安を抱いていたことが、情けなかっただけだ。


「お疲れさま」


 扉を開くと、温かそうなダウンジャケットに身を包んだ智輝が立っていた。彼の視線はふい、と玄関先へと向かう。


「……お客さん来てる? そうならそうと言ってくれればよかったのに」


 見慣れない靴を発見したのだろう。春子の愛用するパンプスは、私が絶対に履かない形状――口が大きく開いた、シンプルなデザインのものだ。


「客っていうか」


 私が言い淀んだ瞬間、背後から声が聞こえた。


「――どーも、ご無沙汰です」






 春子との共同生活をしていること、春子は現在求職中であり、就活と仕事が落ち着くまでは現在の家に住まわせる予定であったことを説明した。智輝は驚いたように、私たちの話を聞いていた。


「美雨の家がそんなことになっているだなんて、全く気づかなかった」

「まあ、気づかせないようにしていたけれど」

「そうかあ」


 智輝は、隠し事に対してなんの怒りも見せなかった。彼はそういう人だ。多少の不義理も、「そういうこともあるか」と簡単に流すことができてしまう、良い意味で大雑把な人間。


「でも、良かった。美雨、永野さんと仲良くしていたんだ」


 本当に心から嬉しそうに、彼はそう言った。


「美雨に初めて出会ったとき、いつも永野さんと一緒にいるイメージだったから。……大学以降、全く連絡を取り合っていないって聞いていたから、縁が切れちゃったのかな、なんて思ってたよ」


 学生時代の友だちは、減ることは有っても増えることはないからね、と智輝は呟いた。


「事情はよく分かったよ。――永野さん、美雨と同居する上で頼みがある」


 智輝がふいに、真剣な顔になる。


「……その様子だと美雨から聞いていないようだけど、僕らは婚約している」


 突然の暴露に私の心臓が跳ねた。春子は特に、なんの表情も見せなかった。


「両親への挨拶も終わって、婚約指輪も注文済み、あとは五月の連休あたりに両家顔合わせをしようかなってところ。それが終わったら、僕は美雨と一緒に新居に移りたいと思っている」


 智輝の口から明確に、言葉に出して将来のことを語られると、それらが一気に現実味を帯びてくる。


「だから、五月までにこの家を出る準備をしてもらえないか」


 彼は時として――それこそ二年に一度レベルの頻度であるが、自身の意思をはっきりと表明する。普通の人だったら、驚くようなことではない。しかし、智輝だから皆びっくりしてしまうのだ。ただの大人しい、優しい男ではない。おそらく彼自身は芯のある人間で、様々なことに対して明確な意思を持ちつつも、譲るべきところと譲らぬべきところを取捨選択しているのだろう。


「……分かった」

「うん、ごめん。たぶん、美雨は永野さんと一緒に居ると楽しいから、どんなに長い間この生活が続いたとしても、絶対に君を追い出すことはないだろうね。でも、結婚した僕らの生活だって、大切にするべきだと思うんだ」

「それはそうだね」


 こんなことを思うのはとても不謹慎だし、春子に申し訳ないとも思うのだが、私はとても安心していた。私たちの結婚を春子に明言してくれたこと、そして、私との将来を一緒に過ごす決心をしているのは、智輝自身だと言ってくれたこと。この日のことを思い出せば、私はこれから先どんなことがあっても、彼のことを信じることができると思った。


「だから、この生活は期限付きだってことをちゃんと認識していてほしい」


 それは、春子だけじゃなくて私自身もそうなのだが。





「今夜はお邪魔しました。僕はそろそろ帰るよ、終電逃すと困るから」

「泊まっていかなくて良いの」

「いや、永野さんが同居しているのなら、今は美雨だけの家じゃないわけだから」

「私も一緒にそっちに行くか」

「そうしてもらいたいけど……でも、永野さん一人置いて自分の部屋を出るの、まずくない?」


 智輝は父親のお下がりだという革靴の中に足を滑り込ませると、私に向かって微笑んだ。一人暮らし用のアパートの玄関は、三人ぶんの靴を置くには狭すぎる。


「……僕は、美雨が友だちを大切にする子で、本当に誇らしいよ」


 寒空の下にほっぽり出されるのは寂しいはずなのに、どうしてそんなことが言えるのだろう。智輝の懐の深さには、度々感心させられる。

 春子は、見送りにも来なかった。智輝に対して愛想よくされるのも困りものだけれど、いくらなんでも冷たすぎやしないか。私だったら、形だけでも「私が外で泊まるよ」って言うと思う。目の前に恋人同士が居て、自分のせいで離ればなれになるようなシチュエーション、私なら恥ずかしくて耐えられないから。

 いや、面の皮が厚いのは私の方だ。どう考えても、私だ。同居人に無断で(事故とはいえ)婚約者を呼び寄せて、自分たちの仲を見せつけておいて、春子の方から遠慮しろだなんて。




 智輝を送り出し、春子のいる居間へと戻った。


「智輝くん、全く変わってなかったねー。美雨、結婚? 婚約、おめでとう」


 春子はあまりに呆気からんと、そう述べた。


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