第19話

「……それはそれとして、ちょっと共演NGリスト見せてくれる? 中二と中三のだけでいい」

「どうぞ」


 誰と誰が同じクラスになってはいけないか、という一覧が載っているリスト――通称「共演NGリスト」を、三島先生から受け取った。普段、学年主任が作ったものを特にチェックもせずに新人に渡しているのだが、今年度はイレギュラーなことがあったから気になったのだ。

 中二の共演NGリストには特段問題はなかった。


「ごめん。中三の方、手書きで追加しておいたからマクロに入力するときに参考にして。学年主任にはわざわざ報告しなくていいや、偶然分かれたっぽい感じにしておいたら良いんじゃないかな」


 内心、ため息をついた。今年度起きた大きな事件といえば、中三A組のいじめでしょうが。どうして、その被害者と加害者が共演NGリストに載っていないのか。忙しい時期とはいえ、ポンコツがすぎないか?


「分かりました。たしかに、これはアカンですね」


 三島先生も苦笑いである。


「そうだ、原田先生。さっき竹下先生と話していたんですけど、久しぶりに行きましょうよ。若手会」


 そう言って彼はビールをあおる動作をした。ロースクールを出ている彼は私と同い年のはずなのに、なんだかその姿がちょっとだけおっさんのように見えて、微笑んでしまった。


「えー、いいね! でもお店とか探さなきゃ」

「大丈夫、竹下先生が予約してくださるって。ここの近くに、日本酒の美味しい海鮮料理屋があるらしいっすよ」



 終業後、理由を告げずにごはんはいらないとだけ春子にLIN○をした。『そう』と返信があっただけで詮索してくることはなかった。



 会の名目は「いじめ対策委員会お疲れさま会」。お陰で今日の私の会費は無料。後輩二人+先輩一人から奢ってもらうという稀有な状況である。


「はい、原田先生。今日はたくさん飲みましょう、どんどんお好きなの選んでくださいね」

「ええ……私、お酒は好きだけど、実はあんまり種類を知らないのよ」

「そう言えばそうでしたね。じゃあ、私が選んであげます。辛口と甘口、どっちの気分ですか」

「辛口!」


 こういう平穏な日常がとてもありがたいものであったことが痛感された。

 教師として仕事をして、たまにこうやって仕事仲間とお酒を飲んで、学生時代の友人とも良い関係を築き、そして結婚して、願わくば平均寿命以上生きたい。ひとつひとつの幸せが手に入る度、こんなことが私に許されるのかと疑問に思ってしまう。しかし、冷静に考えてみれば、世の中にこういう「普通の人」って多くない? 普通に働いて、普通に楽しく食事をして、家庭を持って。私は本当に、多くを望みすぎているのだろうか。未だに私は、どういう態度で幸せを享受していいのか分からないでいる。

 二次会まで参加して、解散となった頃には夜十時を回っていた。


『今から帰ります』


 春子に連絡を入れ、私は空を見上げた。――紺色の、美しい空だった。街頭のきらめく紺碧の空を眺めていると、考えが明確になっていく気がする。

 私はやっぱり、多くを望みすぎている。こんなにも楽しい夜に、こんなにも得体の知れない葛藤を抱えているのは、将来の生活が見えていないからだと思う。心のどこかに、常に春子のことが引っ掛かる。春子は、いつまで私の家にいるの? 彼女と共に居たいという想いと、彼女のことを疎ましく思う気持ちが共存している。今後のこと、春子にはちゃんと話さなきゃなあ、なんて思った。




 帰宅すると、春子はパソコンを叩いていた。転職先へ提出するエントリーシートでも書いているのだろうか。


「ただいま、今帰った」


 なにかに集中しているときの彼女は、全然私の声に気づいてくれない。そんなことに、再会後の今になってようやく気づいた。だから今となっては、彼女の目の前にちゃんと姿を現してから声をかけるようにしている。


「おかえり」

「……夜ごはんは、食べた?」

「そういえば、まだ」

「食べる気ある? それなら、たまには私が作ってみたいんだけど」


 大体、居候させているのを良いことに、温かい食事を用意してもらっていること自体が甘えなのだ。そんなことだから、いつのまにか春子の元から離れがたくなっている。


「ええ、美雨って、料理できたんだっけ。……って言うのは失礼か」

「まあ、できるだなんて言ってないしね。一応、これでも一人暮らし歴三年目ってところなのよ」


 春子が買ってきた材料で、オニオンスープとサラダを作る。

 こうして、自分以外の人のために料理をするのは初めてだった。彼女の口に合うものだろうかと心配したものの、ちゃんと残さずに食べてくれたことに安心する。


「ごちそうさま」


 でも、彼女は決してお礼を言わない。仮に「ありがとう」を言ったとしても、彼女の「ありがとう」は、例えば手の届かない位置に置いてあった調味料を取ってもらったときの「ありがとう」のレベルを越えることはない。美味しかったとも言わない。それは、彼女に比べれば私の自炊スキルが下だったとか、そういう話ではないのを、私はよく分かっている。

 彼女は私に興味がない。お世辞をするほどの価値のある人間だとは思っていないし、そう認定してしまった相手に対して、その失礼な想いを見せずにいることができない程度には、不器用な人間なのだろう。

 彼女が私なんかに興味を持たないことは、学生時代の頃からうっすらと気づいており、そして今日、はっきりと確信したことであった。彼女の瞳に映るのは、私が居るような平凡で甘く、心地よい世界なんかじゃなくて、本当は今日見上げた星空のようにもっともっと広くてもっと上で、キラキラしていて遠いものだったはずだ。

 春子とこのままずっと一緒に居たって、なんの未来もない。


「ねえ、春子。……私ね」


 せめてもの意地と、彼女に幸せな報告をしようと考えた、そのときだった。

 チャイムが鳴り、私ははっと顔を上げる。夜十一時、こんな非常識な時間に訪れる客なんて、そう居やしない。智輝だ。インターホンの画面を見ずとも、そう確信した。

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