第4話 忘れられた脚本

 仕事は殆ど機械的な作業だが、データを情報として人に伝える部分に私の手が必要とされる。加えて、だらしのない人間から届く、大雑把な口頭報告に対してはきちんと小言を言わなければいけない。こういう報告をするのは、何故か偉い壮年に多い。交際費であればごまかしようがあるものの、交通費、証明書の発行できる類いのものは面倒なことになる。

 八月半ばを過ぎ、私の仕事も忙しくなり始めた。中間決算書を作成する仕事が日常業務を圧迫してくるのだ。月次決算の時期になると残業、月末よりも、むしろ次の月初めに先月残した業務が押し寄せてくる。これが終われば閑散期、この時期は俄然同僚の意欲も高まるが、社交の苦手な私にとっては、待ち受ける飲み会が憂鬱となる時期。

 木元の舞台はそんな繁忙期の只中に始まった。送った脚本は、男と女の遅れてきた恋の話。筋は平凡だが、私の作風と木元の演出で、なんとかオリジナリティを主張できるようなもの。

 

「脚本見なかった?」朝日を浴びて、寝ぼけ眼の河南に尋ねると、のそりと起き出して、迷いもせずに、カラーボックスの中から冊子の束を抜き取り始めた。カーテンを開けば、清浄な光が片付いた部屋を照らす。

 床に並べられた脚本の冊子は、どれも懐かしく、小生意気に表紙が付いているものもある。「これ、一番初めに私が主演やったやつですね」中から一冊を抜き取って、彼女もまた、愛おしそうにめくり始めた。右も左も分からないのに締め切りはあったから、引退した元脚本担当に泣きつきながら書いた脚本だ。一番新しいものは、札幌のとあるシナリオコンペに送った。少しの実力と多くの運で優秀賞を取ったが、賞金を貰った意外には特に進展することもない。大賞作品は舞台になり、劇場にも足を運んだが、私の書いたものがいかに稚拙であるかを思い知らされ、却って諦めが付いたのだった。

 木元にリクエストされたものは、私が三本目に書いたもの。

「それ、木元さんに?」

「うん」

 演出も脚本も、ようやく先輩の庇護から抜け出した頃、絶対に失敗したくないと、肩肘張って打ち合わせをした記憶がある。表紙を捲ると、登場人物のリスト、人数の多いサークルだったから、苦心してたくさん名前を考えた。今の木元の劇団規模では到底足りないけれど、人物を削ることに大した苦労は無いと思う。

「河南、本気で舞台に立つつもり」

 あぐらをかいていた、下着姿の彼女が顔を上げる。照れたように、臍の横を掻く。

「そうですね、ちょっと気晴らしにやるのも良いかな」

「気晴らしか」

 演技をすることがデトックスになる、という話はよく聞く話で、私は舞台に立ったことがないからよく分からないけれど、多くの人がそういうのだからそうなんだろう。

 それから、木元にデータを送るまで少し時間が掛かった。アナログからデジタルに移し替える、半分職場でやっているような打ち込み作業なのだが、昔書いた台詞を追っていくと、一々今の感性に響かない。感情の論理が捻れている箇所も散見される。よくもこんな脚本で演技を出来たものだと、私の周りから霧散した過去の仲間を思い浮かべる。質問されることはあっても、文句を言われた記憶は無い。脚本を書けるのが、当時は私しかいなかった。結局半分以上の台詞を書き直し、それが六月下旬。


「気晴らし」で舞台に立つと言っていた河南は、稽古場に行くたび、水を吸うように若返った。それまで私は、彼女が老けていたことに気が付きもしなかったのだ。彼女の美しさを損なうような「老い」ではなく、肌や髪質の話でもない。靴を履くために身を屈めたとき、くしゃみをしたとき、片足を突っ張ってパンツを穿くとき、彼女の「老い」は、花粉のようにその場に散るのだった。それで発散するわけでもなく、彼女の周りに漂い続けて濃度を増す。それが稽古を始めてからというもの、動作の節々に、茎を折ったような瑞々しさが漂うようになった。定時で上がって、そのまま稽古場近くの喫茶店に行くと、彼女は大抵ペンを片手に脚本を読み込んでいる。

 琴似への道すがら、脚本に生じた疑問をぶつけてくることもある。「どうして木元に聞かないの」尋ねると、「木元さんにもよく分からないみたいで」という答えが返ってきて呆れた。「解釈」にならない程度の「説明」をするが、その夜、木元を電話で呼び出して叱った。「分からないなら聞いて良いから」「良いのか?」遠慮がちに彼は言う。

「当たり前じゃん。殆ど私が書いたんだから」

「いや、相羽忙しそうだから、あんまりこっちの用事押しつけんのも悪いと思ってよ」

「ああ……」

 彼は働いていないからか、社会人の私に鬱陶しいほど気を遣う時がある。演劇の世界で生きている癖に、俗世に関して神経質なのだ。案外、それも素質の一つかもしれないが。私が連絡を取れる時間を教えてやると、木元は安心したように「悪いな、今度から電話させて貰うわ」そう言って通話を切った。

 そんなことが七月にあって、後の経過は殆ど知らない。河南と木元が持ち込む質問は、時間が経つほど冊子のページを捲った。やがて、私も繁忙期に入り、公演まで、河南と一緒に帰ることも無くなった。


 公演は数日間に渡ったらしいが、結局、私は一度も観劇に行っていない。家に帰って、河南には何度かせがまれたが、繁忙期を断った。「せっかく稽古したんですよ」恨みがましく言われるのだけれど、そんなことを言われても、演じて欲しいなんて頼んだ覚えも望んだ憶えも無い。私の書いた脚本を演じること、それ自体が大がかりな媚に思えて、やるなら勝手にやっていろ、私は関係ない。同居人の出払った部屋、一人言い訳を考える。

 ……でも、本当は劇場に行くくらいの時間はあった。

 怖かった、がらんどうの劇場で自分の脚本の舞台を観ること。実は、公演が始まる少し前からそんな悪夢を何度も見た。舞台裏から、客が数人しかいない客席を見て勝手に傷つく私。舞台では、顔の無い役者たちが楽しそうに、のびのびと演技をしている。彼らは人のいない劇場に慣れている、永遠に青春しているような人の影、それもまた悪夢である原因の一つで、彼らに交じって河南もいる。何故か、それが苦しい。

 残業を終えた繁忙期の夜、急いで行けば観劇できた。珍しく日次の業務が少なく済んで、月次の業務に時間を多く割り当てられたのだった。……その日は千秋楽だった。動機はともかくとして、日頃の河南はごく真剣に芝居に打ち込んで、それが良い発散となったのか、彼女の劣情はいつの間にやら霧散していた。こうなると、私の方にも素直に応援できる気持ちが湧いて、……私の足は確かに劇場に向かっていた。なのに、思い浮かんだあの光景。様々な人間に批判、無視されることの恐ろしさ。次第に心臓が波打ち、足が萎えて、踵を返せば無様な程安堵するのだった。


 残業を言い訳にしている以上、早い時間に帰宅するのは憚れる。喫茶店で時間を潰すも、劇場に人は入ったのだろうか、そのことばかり考えて、鞄に入れていた文庫本も読み進まない。そのうちスマートフォンが震えて、「仕事はどうですか? もし時間があれば、打ち上げだけでも顔出して欲しいです」という河南からのメッセージが入った。千秋楽のあと、舞台に携わった人間はいつも打ち上げをする。わざと間を置いてから、「丁度今、会社出たとこ」返すと、すぐに既読が付いて、続いて店の位置情報が送られてきた。

 スーツを着ている私は、少し歩いただけで雑踏の中に馴染んだ。大通りを少し北に行ったすすきの、どこの店の窓を見ても、人と人とで混雑している。車道では、スピーカーを付けた街宣車が音楽を鳴らして過ぎて、ラッパーのような風貌をした若い男達、ガードレールに腰掛けて楽しそうに話す。騒々しくも華やか。明日は土曜だった。河南は丁度良い頃合いに抜け出して、店先で私を待ち構えていた。雑踏の中から私を見つけると、少女のように右手を振る。

「千秋楽、お疲れ様」

「どうも。それより、お客さん凄く入ったんですよ」

「嘘だあ」

「本当なのに、だから来れば良かったんですよ」

 それから、公演の様子を聞いた。どうやら、彼女は地元の知り合いに、熱心に宣伝していたらしく、初日は取り敢えずそこそこの出入り、それから評判が拡がったのか、二日目、三日目の千秋楽と新規の観客は右肩上がりに増えた。「まあ、黒字でもないんですけどね」既に小上がりに座っていた眼鏡の女性が言う。

 聞くと、丁度この店の食べ放題飲み放題で儲けが無くなるくらいだと言う。そもそも、社会人にもなって演劇をやる連中は採算なんか度外視している。黒字は一種の目標で、劇団の人数と、稽古の頻度、必須となる美術の少なさを考えれば黒字のハードルは低いのだが、その場にいた五人は満足そうにしていた。さっき話した眼鏡の女性、のっぽの男、ガタイの良い男、木元が言うところの「モラトリアム野郎ども」。加えて河南、木元。少ない少ないとは聞いていたが、河南を抜けば計四人。こんなに小規模になったとは思わなかった。

「あの脚本、すごく良かったです」隣に詰め寄ってきた眼鏡の女性、「初めは、木元さんの知り合いが書いた脚本って聞いて、どうかと思ったんですけど」

 文節の合間に、妙な節を付けて話す。経理の同僚に多く見られるようなタイプで、言葉の節々に生来の生真面目さが垣間見える。年齢は外見からは良く分からない。髪の毛は黒々としたウェーブが一重の眼まで掛かって、鼻は高い。近くで見たら美人。裏方だろうかと思っていたら、「ワンシチュエーションでも、こんなに広い世界が作れるんだって、役に入ってて感動してしまいました」と言うから、役者だと分かった。舞台に立って損をする顔だ。

「いや、私が書いたっていうよりは、……あくまで私は木元の手伝いですから」

「そうなんですか。それでも、普段の舞台に比べたら、分かりやすい筋があって良かったです。良かったらまた、よろしくお願いします」

 

 その後も、向かいで話していた「モラトリアム野郎ども」の残りと少し話した。裏方仕事をしていたのはガタイの良い男。彼らは全員SNSのアカウントを持っていたらしく、半ば儀礼でフォローし合うことになった。熱心にSNSをしているわけではないのだが、年賀状のように、薄っぺらい繋がりの関係では重宝することもある。

 初対面の私とのやり取りを終えた後、河南が話題の中心に入っていった。主に話していたのは稽古中のトラブルや、本番前の緊張、公演にまつわる思い出話。彼女はすっかり劇団に馴染んで、彼女もまた私のいるところから一つ、足を踏み出してしまったように思う。

 木元は、レモンサワーを飲みながらずっとスマートフォンを弄っていた。匿名の掲示板や、SNSに寄せられる感想を逐一チェックして、一々声に出して読んでいる。聞いている限りでは批判的なものが多い。そういうものが彼の口から聞こえる度、心を素手で触られる。

 舞台を終えた彼らは、一人一人が成長した人間として見える。河南の期待と舞台の責任、知りながら、知らぬ顔でやり過ごした自分自身が、この場にいる誰よりも子供に思えた。彼らが何と向き合って、私は何に顔を背けていたのかも分からない。もしも劇場にいれば、その正体は分かったのだろうか。

 二十三時を回ったすすきのは、店に入った時間とは違う、もっと静かな熱量に満たされている。街灯やビルの内装、看板から漏れ出る光、余韻で輝いているような寂しさを漏らす。人の流れはあるが、殆どが地下に向かって消える。他人は各々のあみだくじをなぞるように闇の中に埋まって、木元とは、途中までの道を一緒に歩いた。

「今回成功したのは、お前と河南のお陰だな」恥ずかしげもなく小声で話掛けてきた。

「そうかな」

「あいつ、あちこちの知り合い回って劇団の宣伝してたんだろ。お陰で初日のチケットが結構捌けた」

「そうらしいね。よくやるよ」

「結局、客ってあれだな。人の居る舞台に集まってくる」

「ちょっと虚しいね」

 私と木元の先を歩く河南、相当疲れが溜まっているらしく、ワンピースから出している肩を、時折ビルの外壁に擦る。

「寒くねえのかな」

「寒いでしょう、九月の夜は」

 九月も下旬になると、夜の気温は十五度を超さない。昼間は肩を出していても涼しいくらいだが、夜になると冷えるはずだ。この頃の道民は、大概薄い上着をタンスの奥から引っ張り出す。私達の会話が耳に入ったのか、河南は突然蹲って「寒いよお」と悲鳴を上げて笑った。

「当たり前だよ、ここは東京じゃないんだから」

 露出している肌を掌で擦ると、彼女はこちょばしそうに笑いながら身を捩った。

 

「やっぱり地元は良いですね」言って、私の腰に手を回す。抱きつかない程度に抱きつく、微妙な温度感。

「こっちの空気は澄んでますねえ」

「地下だろ、ここ」

 やがて地下鉄が来た。

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