第3話 木元との再会

 私の生活に河南は夾雑した。ベッドルームには物が増えて、朝起きると勝手に食事が並んでいた。動画を撮ったことは非日常の希釈にはなったが、それに濾過されて、日常に戻ることは無かった。家に戻ったら同性愛者がいるというのは、二度寝したときに見る具体的な悪夢のようで、生活空間は意識的に分け、不必要にベッドルームには入らないように注意した。それでも不気味な瞬間はあって、腕を伸ばしてリモコンを取る瞬間、お風呂上がりに玄関廊下で擦れ違う瞬間、ソファで横になっている時、性愛を孕んだ視線を感じることがある。前のような行為には至らないが、少し遅れて、ハラハラと心臓が危機感を訴えることがある。大学時代、彼女にはよくついて回られたが、そうした瞬間は何度もあったのかもしれない。当時の私は気が付かなかった。つまり気の持ちようなのだが、知らぬ顔は今更できない。

 その内始めると言っていた河南の就職活動は、中々始まらなかった。とはいえ、忙しく働いていた頃の貯えはそれなりに残っているらしく、私が仕事に出ている時間、割と頻繁に出掛けているようだった。だが、金を使う遊びをしている雰囲気は無く、せいぜい観るのは映画。時には、私が帰るとベッドに突っ伏していることもあった。「河南」声を掛けても、返事はない。部屋着にも着替えていない。電気を消して、扉をそっと閉めると、何故かリビングに出てくる。ソファに寝転がって、「今日は疲れたー」と呟く。灯りが付いていると眠れない質なのかもしれない。


 昼休憩の時にスマートフォンを開くと、久しぶりに木元から連絡が入っていた。

「明日、飲まん?」という簡潔なメッセージ。木元は、大学の同期だった。彼も演劇サークルに所属していたが、立場は私よりもうちょっと偉い、演出家。私が脚本を書くようになったのは三回生になってからだが、木元は二回生の春には演出の補佐について、その年の夏からは本格的に演出に関わるようになった。今では自分の劇団を立ち上げて、まだまだ規模は小さいながらも頑張っている。SNSでのフォロワーは百人を少し超えるくらいだが、その中には私も含まれる。「外、雨やべー」「めっちゃ天気良い」「道にでかい蛾いた」「ラーメンがうまい」全く意味の無いような投稿の中に時折、演出家としての拘り、自分の創作論を語る。それを見ると、彼はまだあの熱い嵐の中にいるのだな、と遠い存在になってしまった、脚本家としての自分を思い返すことがある。脚本に打ち込んだ日々は、まさしく青春で、周りの人間の熱は嵐のように私を突き動かしていた。嵐の爪痕は、まだ形を残している。ベッドルームの、カラーボックスに整頓された本。とにかく新しいものを摂取しようと思って、当時は小説を買いまくって読みまくった。

 店の看板、突き出たパイプ、ポスト、脂ぎった壁、擦り窓、整列しているように奥に続いている路地が、狸小路にある。木元は何故か、半身だけを路地裏から出して、真顔でいる。けれど、連れてきた河南を見るなり笑いながらふらふらと歩き出てきた。「まるで大学時代だな」痩せ細り、髪が伸び散らかった木元、目も落ち窪んで、まともな食事はしていないんだろう。私たちは地元に残った者同士、何かと飲みに行く機会がある。

 大袈裟でなく演劇に恋をしているような男だから、特別な関係に発展する気配はない。大学時代からそんな具合で、こちらとしても気楽に会える男友達だ。今の彼の経済状況は風貌に現れるから、一目で分かる。大抵は貧しく借金をして、痩せ細り、肥え太る彼は見たことがない。木元と久しぶりに彼に会った河南は、幽霊のような彼の風貌に驚いている。「木元さん……ちょっと不気味ですよ」

「再会して開口一番がそれかよ」

「殆ど骨と皮じゃないですか」

「うるせえなあ」

 木元は見るからに病的なのだが、大きな目だけが異様に輝いている。カットする金も無いのか、天然パーマも髭も伸び放題、老人のようで、彼が二十代とはとても思えない。同期とは言っても、二年間浪人していた彼は二歳年上、だから余計そう思うのかもしれない。

 酔っ払いのような足取りで道半ばに来た木元、「そんじゃ入るべ」と右手を軽く振って、すぐ脇にあった木製のスライドドアを開いて入った。そこはいつも木元と飲んでいる大衆居酒屋。学生の頃からよく立ち寄ったところで、値段も安いから、彼と飲むときは大抵ここを利用している。

 座敷に上がると、四人くらいが座れるテーブルが六つ並んでいる。そのうちの三つには既に客が座って賑やいでいた。大学生と思われる三人組、仕事終わりのサラリーマン四人、見た目からは職業不詳の二人の男。値段は安いのだが、その割には老若問わずこの店に集まる。短冊のメニューが画鋲で壁に貼りつけられていて、それよりも目立つのは所狭しと並ぶ有名人のサイン色紙。丁寧にビニールに入れられていて、テープで貼りつけられている。殆どのサインを私は読めないが、一つだけ、誰のものか分かる。木元はこの店、この座敷に座る度、そのサインに向かって正座して、丁寧に二度お辞儀、二拍手、最後に土下座をする。サインを書いた男は札幌演劇界では生ける伝説、学生時代に立ち上げた劇団は道内最大級のホールを観客で埋め、今なお全国的な活躍をしている。木元は彼を、神として崇めていた。

「まんまと卒業してすんません」

 最後に懺悔して、木元のルーチンは終了する。彼の神は過去、私達の卒業した大学の学生だった。「けれど、演劇に溺れて結局退学しちまったんだよ」誇らしそうに言う木元から聞いたことがあった。顔なじみの店員は、どうせレモンサワーだろうと思っているだろうに、律儀に彼が注文するのを待ち構えている。

 惰性で付き合っているような男だが、今日は河南がいるからか、いつもしている思い出話にも新たな細部が加わり楽しい。役者裏方、男女学年問わず顔の広い彼女だったから、私達が知りようの無かった人間関係にも詳しい。二時間くらいそんな話をしてから、木元が「今度やる舞台な」彼の劇団の話を始めた。

「人も時間も足りんねえんだよ」

 彼が舞台の話を私にするときは、大抵が弱音だ。客が足りない、役者が足りない、稽古が足りない、果ては生活費が足りない。売れない劇団は舞台を演ずるたびに皆が貧乏になる。それでいて、劇場の空きを見つければ取り敢えずスケジュールを入れてしまうからたちが悪い。脚本のアテも稽古場のアテもない。「なるようになるからさ」本人は言うのだが、結果、不幸な人間を量産している気がする。

「独り舞台でもやればいいじゃない」

「うちの劇団に独りでやれるヤツなんているかよ」吐き捨てて、「意識の高い奴らは、どいつもこいつも他の劇団に行っちまうんだ。残った連中は子供見てえなモラトリアム野郎どもだよ」 

「木元さんが独り舞台やれば良いんじゃないですか」河南は言うが、独り舞台というものは非常に演技力が要求されるジャンル。

「俺に主役はできねえよ」情けなくも、諦めた口調で彼は言う。そして、彼は彼の神様のサインを見上げる。「天才じゃねえんだから……そういえば、河南はなんでこっちにいるんだ?」

「え?」素っ頓狂な声を上げ、横目で私の顔を見る。「まあ、色々あって。戻ってきたんですよ」

「じゃあ、今実家か」

「いえ、今は沙織さんのとこに泊まってます」

「居候ってわけか」

「まあ、そうなるかな」

「お前ら、ほんとに大学の頃から変わんねえな」嬉しそうに、レモンサワーの入ったグラスに顔を突っ込む。


 別れ際、私がレジで会計していると、先に外に出ていた彼は、名刺に何かを書き付けて河南に渡していた。彼女は両手でそれを受け取って、何か小声で話をしている。不意に木元が扉の格子越しに私を見て、また熱の篭もった表情で河南と話をする。店を出て、彼らに合流すると、木元は膝に手を突き、頭を下げた。

「すまん。金無くて」

 彼と飲む時は、殆ど私が奢っている。今日は、河南と私の割り勘で、そのことについては彼も、それなりに恥と思っているらしい。私と二人の時でもいつもこうして苦しそうな顔で頭を下げる。

「木元……いい加減働くなりしたらどうなのよ」

「この年で今更まともな就職口があんのかな」

「それより、養ってくれる女の人でも見つければ手っ取り早いんじゃないですか」

「……女か」低い声で呟き、私を見る。

「私を見るなよ!」慌てて言う彼は笑い、「冗談に決まってんだろ」ポケットに手を突っ込んで、彼の帰路を歩き始める。

「そうだな、そんな人がいると良いかもな」天然パーマの頭を右手で擦って、「まあ、そんな物好きいるとは思えねえけど……月、めっちゃ丸いな」

 言われて見上げると、確かに、彼の頭上には紙を貼りつけたような満月がある。


 店から大通り駅まで、河南は俯いて歩いた。

「木元さん、なんか碌でもない感じになっちゃったんですね」

「うん」

 少なくとも、学生時代の彼はもう少し輝いて見えた。彼が禄でもなくなったのは、何時からなんだろう。改めて考えてみると、大学を卒業したときかもしれない。神にはなれないと、悟ってしまったのだろうか。それで、舞台に対する信仰心だけは失っていないのだから、余計に禄でもないのだ。

「そういえば、さっき店先で何話してたの」

「今度の舞台、出演しないかって」

「河南が?」

「どうせしばらく暇してるだろうから、どうしよっかなって思ってて……どうせ出るなら、沙織さんもやりません? 脚本」

「私にそんな時間、あるわけないじゃん」呆れて言った。

 私はもう、創作の世界からは遠い場所まで来たのだ。一度思春期の暴風圏から抜け出してしまえば、雲を巻き込む風の形を、遠くから鑑賞することすらできる。眺めてみると、それがちっぽけな界隈だったことに気が付くのだった。チケットを貰って何度か木元の舞台を観に行ったことがある。贔屓目かもしれないけれど面白かった。舞台に立っている役者の演技は不味い部分もありはしたが、木元の作る舞台、思いの熱さだけはあの頃と変わりなく、いつだって、劇場から出る頃には昔のことを思い返す。

 

 翌朝、スマートフォンの音に起こされた。休日でも、朝はアラームをオンにしている。けれど、窓を見ると青暗い。まだアラームの鳴るような時間ではない。鳥の囀りと、バイクの音、朝の匂いはする。

 時間を見れば五時二十三分。昼夜逆転の木元が私に電話してきたのだ。昨晩、狸小路から歩いてすすきのに帰ったあとは、そのまま次の舞台の準備作業をしていたのだろう。河南の思いつきを本気にしているらしく、「俺の部屋探しても、相羽の書いたホン見つからんのよ」困ったように言う。

 一度、彼のアパートを訪れたことがある。家賃二万ですすきの駅から五分という破格の立地、けれど中は、鼠の巣と遜色なかった。書籍や冊子がクローゼットの中から雪崩を起こしていて、窓辺にかろうじて布団が敷いてあるのが分かる。枕元には、使い古したノートパソコン、そんなある冬の光景。彼の部屋の窓からは雪が降っていて、石油ストーブだけはガンガン焚いていた。確か、飲む約束をしたのに彼が来なかったのだ。ひょっとしたら栄養失調でも起こしたんじゃないかとすすきのを訪れた。創作物で溢れている彼の部屋は、何故か、自分の部屋よりも暖かそうに見えたのだ。

「まだデータ持ってる? 送ってくれねえかな」

 目を擦りながら、どうだったかしらと考える。学生の頃に使っていたパソコンはキーボードが壊れて買い換えた。データの移し替えをした憶えはないから、多分そのときに消えてしまったのだろう。ふと、散らかったベッドルームが思い浮かぶ。

 紙ならまだ、残っているかもしれない。今、河南が眠っているベッドルーム、そのどこかを探せば、印刷して冊子にしたものがあるかもしれないのだ。何冊かある脚本、読み返すのも今となっては恥ずかしいが、あれを捨てた記憶は無いのだ。

「というか、本気で昔のホン使うつもりなの?」

 私が書いた脚本は、正確に言えば木元との共同執筆だ。殆どの文字を私が書いたのは確かだが、演劇的な台詞、小道具などのエッセンスは木元との話し合いで盛り込んだ。だから、使いたいと言われて断る権利は私には無いのだった。ただ、未熟な頃のありのままを見られるようで恥ずかしい。けれど、あの頃は本気でそれが面白いと思っていたのだ。

「うん、俺、相羽の書いたやつ好きだったし」私の思いもつゆ知らず、彼は平然と言う。


 通話を切ってから、何故木元とは、恋愛関係にもならないままなのだろうかと考える。今までを振り返れば、そういう事態に発展してもおかしくはないことが多々あった。彼の部屋を訪れたとき、湯気と共にユニットバスから出てきた彼、「おう!」元気よく挨拶して、そのまま部屋で着替え始めた。思わず陰茎に目が行ったが、陰毛で隠れてよく見えなかった。私にしても照れもせず、「早くしてよ」ただ約束を不意にされた怒りだけ感じていた。

 腐れ縁かもしれない。身を起こすと、頭に残ったアルコールが瞳の奥で揺れた。台所でコップ一杯分の水を飲むと、少し和らいだ。

 ベッドルームは、私が家出をしている間に河南が片付けたのだった。もしかしたら、昔の脚本を捨てられないのを見られたかも。読み散らかした本は山にする癖に、自分の書いた何本かの脚本だけは、本棚に収めていた。そう思うと、無性に恥ずかしい。この世界で、私以外に私の恥部を支配しているのは、恐らく彼女だった。引っ越し初夜に、撮られた動画も含めて。

 部屋を仕切る扉の前に立つと、流石に胸がざわついた。この時間なら彼女もまだ眠っているだろう。起きてから、脚本のことを考え始めていてもたってもいられない。急に読み返してみたい。そこには何かが残っているだろうか? 過去と今を繋ぐもの。――思えば、私はいつの間にかここにいるのだった。大学時代のことは頻りに思い返すくせ、就職して、引退した今とそれらが隔絶している。部屋の中には脚本だけではない、河南がいる。扉を開けば、古びたダンボールを持ち上げて、闇の一列を覗くことにはならないか? いや、あの蟻の大群は始末した。カーペットクリーナーに貼りつけて、じたばた動いて何処にも行けない。

 ふと思いついて、スマートフォンを数回タップする。すぐに、数日前に撮影した河南の動画が画面に映る。腹筋が揺れる度、切なそうに呻いている。これを見ているとひどく安心するのだ。内蔵が、正しい位置に戻る心地になる。

 私も河南の恥部を支配している。その事実さえ認識できれば、彼女を怖がることはない。


 河南は顔と、太ももからつま先までを布団から出していた。寝顔も膝も私の方に向いて、

足の白さに女を感じる。相変わらず下着だけで、これは北海道の人間の性かもしれない。部屋に入ると丁度陽が昇る頃合いだった。窓から差し込んだ光が顔にかかり、蕾が開く様に、ゆっくり目を開ける。

 彼女の瞳、狭まる瞳孔は私を捉えていた。

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