第2話 知らない顔

 それから数日、部屋には戻らなかった。日曜の夜に、嵩張らない衣服の幾つかをタンスからメッセンジャーバッグに入れて、そのまま出勤した。週の初めには私よりも少し早く起き出して、朝食を作っていた。目玉焼き、味噌汁、納豆、茶碗によそったご飯。私が起きた気配を感じて食卓に並べたのか、まだ湯気が出ているのだった。食卓を素通りして、玄関廊下の方にある風呂場に向かおうとすれば、丁度、部屋着の裾で手を拭いながら台所から出てきた彼女、「先輩、ご飯冷めちゃいますよ」と言う。「朝は食べないんだよ」と嘘を吐いたら、彼女は傷ついたように「あ」と、呟く。そして、「でも、朝、食べた方が体に良いですよ」引け目を感じる風に笑う。せっかく作ったんだし、という言葉は、態度で伝わってきた。それには気が付かない振りで、「そうらしいよね」曖昧な同意をして結局、朝食は食べないで出た。

 朝の琴似駅に行くと、売店の前で新聞と煙草を注文しているおじさん、ハンカチで顔の汗を拭うOL、スマートフォンで漫画を読む若い男、そういった人間が地下鉄入り口への渦に吸い込まれて、途中の停車駅でまた入ってきて、大通りでざっと降りていく。職場は大通りにある。大きな商業施設に合併したオフィスで、私はそこで経理をしている。職場の雰囲気は悪くない。ノルマを課されているわけではないけれど、上司に目を付けられるほど仕事をしていないわけでもない。担当している部署から上がってくる雑多な支出のデータを細かく整理して、月次決算書の材料にする。慣れてきたら単純な作業だけれど、古い人間と新しい人間が入り乱れる企業だからか、回ってくる報告が書類であったりデータであったりするものだから、どう工夫しても無駄の多い業務で、それは私の裁量ではどうしようもできない。これくらいなら、いっそ全てのデータが紙な方が良い。

 

 マンションの外壁がやさぐれた白亜だった頃、部屋に蟻の大群が湧いた。崩れた外壁、どこかに彼らが侵入できる穴があったのか、放置していたダンボールを持ち上げれば闇の隊列が幾つもあった。久しぶりにベッドルームを片付けようとしていた矢先のことで、モチベーションは恐怖心で消し飛んだ。それからは長い闘いの日々が続いて、仕事から帰っては、湧いた蟻を退治することに時間が取られた。初めは一匹一匹ティッシュで摘まんでいたのが、何度も何度も殺すうち、彼らの黒さも未知の恐怖ではなくなったことに気が付く。本当のところでは、彼らは小さく、群れて、数が多いからから存在の圧力があるだけなのだった。そう気が付けば、私はカーペットクリーナーを手にして、蟻を潰すことも厭わない。真っ白い粘着テープに、黒い蟻は必死に足を動かし、もうどこにも行けない。リビングで眠る癖はその時期に付いた。

 外壁が真新しい金属系の黒になってからは、蟻が出てこなくなった。けれど、あのベッド、ダンボールをひっくり返せば、一匹や二匹、コロコロ転がり落ちてくる気が今でもしている。

 河南と顔合わすのも気まずく、動画のことが気がかりで出て行けとも言えない。逃れるようにビジネスホテルに入り、一度逃げてしまえば二度、三度と続くのだった。

 ベッドのランプだけ付けて突っ伏していると、不意にシーツが揺れ出した。スマートフォンの画面が緑色に光っている。目に良さそうだから、背景は竹藪にしている。「何時に帰ってきますか」河南からのメッセージが入っている。

「仕事が忙しい」書いてから、送信ボタンの上で親指を泳がせたが、結局消した。枕に顔を埋めながら返信の文面を考え、そのうち、どうしてこんなことに思い煩っているのか馬鹿馬鹿しく思い、放り出すようにスマートフォンをシーツに伏せた。

 うつらうつらしているときに、またスマートフォンが震えた。今度は中々止まない、白い砂地みたいなシーツの振動が伝わって、スマートフォンを捲れば、河南から着信が入っているらしかった。二十二時だった。部屋の灯りを付けて、テレビ番組を映した。そうすれば、何故だか落ち着く気がする。

 通話ボタンを押してから、このシチュエーションは、大学生の頃によくあったことを思い出す。私は学生街の狭いアパートに一人暮らしで、映画のDVDか、落ち着いたトーク番組を見ている。そんなときに、河南から着信がよくあった。「先輩」私を呼ぶ彼女の声色は、あの頃とは随分違うように聞こえる。消えたのは瑞々しさ、若さ……病んだ犬のように焦燥した声、「ビジネスホテル」「なんで? 言ってくださいよ。心配するじゃないですか」心配? お前にその資格は無いだろう。内心腹を立て、罵倒してやろうと思った。

 いや、メッセージを無視した私にも負い目はある。思い直し、「そのうち帰るよ」つっけんどんに言い返して電話を切った。

 それから二日後、河南は職場の出入り口で佇んでいた。出入りの社員に紛れながらも、私の目には輝いて映る。彼女は美しい人なんだ……舞台に立っていた頃からそれは変わらない。それが、どうしてあんな性質を持ち合わせるのだろうか。「先輩って……」追い縋る彼女の声も掠れて聞こえ、事ここに至っても私には何の解決策も見いだせない。ただ機械的に「そのうち帰る」という自分の言葉に従って帰路に就く。彼女はあくまで私と話し合おうと、地下へ降りる階段、地下鉄のホーム、移動する間にも私を呼び続け、次第に声も萎れ、ホームに集まる人の喧噪に飲まれるのだった。

 そのうち、ギターの弦が切れるような音が、二度、三度と地下鉄の来る方から鳴り、続いて轟音、乗降口から出てくる人の暑苦しさ、私たちは押し込まれるように車内に乗り込んで、顔の見えない後ろの乗客に、左の乗降口近くの壁に押しつけられた。眉を顰めて後ろを向けば、おじさんがお尻を向けていて、彼も迷惑そうに首を伸ばしている。私と壁の間にはたまたま河南が挟み込んで、自然、彼女と向かい合う形になってしまった。こうなってしまうと気まずい思いで、目の前の彼女も目を伏せる。

 地下鉄が動き出すと、また人並みが大きく波打って、勢い、私より背の低い河南の脳天が私の下唇に当たった。「痛!」思わず呻いて、図らずも、それが口火を切ることになった。

「ごめんなさい」顰めた声で彼女が言い、顎を引くと、彼女の目が真っ直ぐこちらを向いている。「でも、喋らないのは違うんじゃないですか」また地下鉄が揺れ、今度は河南が後頭部を壁に打ち付けた。私は壁に肘を当てて体を支えた。

「もう、知らない顔はやめて……」


 *

 

 琴似駅から部屋への道中、ふと思い立って、「いい加減、先輩っていうの止めてくれない」言うと、河南は心外なようで、「嫌だったんですか?」「嫌っていうか、変でしょ。もう先輩後輩でもない」「それはそうですけど」

 少しの間無言で歩き、「私には相羽沙織っていう名前があるんだから」きっぱりと言いつける。すると彼女は「じゃあ、沙織さん」と、馴れない呼び方に照れながらも口に出しす。

「うん」

「どうしたら許してくれるんですか?」

「どうしたらって……」

 素直に尋ねられたって、そんなことはさっきから考えている。生々しい感触はまだ体に染みついているし、忘れようったって忘れられる記憶でもない。ただ、目下の気がかりは彼女が撮影していた動画のことで、消せと言ったって本当に消すかは分からない。データなんて、幾らでも複製が出来る。アップロードだっていつでも出来る。

 そうだ、動画だよ。私も河南の動画を撮ってしまえばいいんだ。そしたら立場が同じになる。突飛な思いつきだが、案外悪く無い考えに思えた。


 久しぶりの琴似の家。芳香剤も無いのに、河南の香りが染みついている。けれど、部屋の様子は変わりない。リビングルームから漂う他人の気配は突き詰めれば香りだった。花の香りがする。ベッドルームの方は、開きかけた戸から見た程度だが、その変わりように驚いた。林のように立ち並んでいたダンボール、古本も、綺麗に片付き、新しい家具が増えている。ダンボールは捨てれば良いのが分かるが、本がどこに消えたのか、見当も付かない。

「片付けたんだ」

「はい、結構大変でしたよ」照れくさそうにベッドルームの灯りを付ける。

 中に入ってみると、北側の壁にカラーボックスが積み重ねられている。かつては山だったものが、その中できちんと本として、インテリアになっている。ベッドは、シーツだけ新調されて紺色になっていた。かつて読書をするときに使っていた机には、鏡と、河南が使う化粧品の瓶、蛍光灯を浴びて、てらてら輝いている。前までの面影とは殆ど残っていない、朝日が差す窓と、ベッドの位置くらい。

「本当に撮るんですか」

「撮るよ」

 言い出したのは私だけれど、流石に河南の体を撮るのは抵抗がある。「ネットに上げるなんて、そんなこと考えもしませんよ」言われたけれど、そんなこと口先ではどうとでも言える。「だったら私が河南の動画を撮ったって文句は無いでしょ」「本気ですか」ためらったけれど、不問に付すという私の言葉を信じたのか、黙ってソファに腰掛ける。

 カメラを意識してか、流石に恥ずかしそうに上着を脱ぎだし、ブラをずらして乳首を弄り始める。陶器のような白い肌、汗が滲み初めて、いつの間にか私の心臓も大きく音を上げて、喉は渇いてきた。彼女の顔、みるみるうちに赤く染まり、「これは恥ずかしい」笑いながら表情は硬く、しきりに膝を擦り合わせる。終いにはパンツも降ろして、思いのほか豊かな陰毛を見せつけた。

 ……事が済んだあと、彼女はベッドに腰掛けたまま、片膝を抱いている。

「本当のところ、沙織さんはどうなんですか」

「どうって」

「だって、私には興奮しているように見えたから」

 いや、そんな筈は無い。そんな筈は……頭で否定する一方で、確かに私は彼女の肌を触っていた。二の腕、脇の下の落ちくぼみ、水の溜まっているところ、砂地、夢中で撫でて「ほらね、やっぱり」彼女の言葉にハッとする。

 私はどっちだ? 大学時代には、密かに恋をしている男がいた。彼の顔はもう思い出すこともない。次第に彼女に触れる欲求は悪夢のように膨れ上がり、とうとう二人、横倒しになったところで、それが本当に悪夢だったと分かった。横になっていたソファから起き上がり、西向きの部屋はまだ暗い。意識がハッキリしてしまえば、夢の中の欲望は霧散して、けれど、悪夢の残りのように動画は保存されていた。

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