第5話 青春と結婚

 しばらく職場の閑散期が続くと、日毎に冷え込む空気を楽しむ余裕も出てくる。北海道の春と秋、晴れが多くて、毎朝外に出る度、肺が切れるような外気と、塗りつぶしたような青空を吸い込むことになる。部屋の温度も十度を割るようになった。最近の河南は、殆どの夜を灰色のキャミソールとショーツで過ごす。ユニクロで纏めて買った部屋着らしく、色のバリエーションもない。とはいえ、私も人の事が言えない、白いTシャツと短パンで殆ど過ごす。

 使う部屋が一つ増えた分、暖房費が気がかりだった。

 朝日が差す部屋、彼女は小さな鉢植えにアサガオを植えた。九月までは、咲き終えた花から溢れた種を、また新たに植えてやりくりしていた。けれど、この頃は発芽しなくなったらしい。

「アサガオも、ずっと咲けばいいのに」台所に立つ彼女が溜め息交じりに言う。

「そんなの、アサガオじゃないでしょう」リビングのソファで寝転がりながらテレビを見ている私が言うと、「咲きたいときに咲くのが、一番良いじゃないですか」

 そう言いながら、朝食の目玉焼きを運んでくる。

 それもそうだ。太陽が「咲け」と言うから悪いのだ。アサガオもヒルガオもユウガオもヨルガオも、桜も梅も、咲きたいときに咲けば良い。


 *


秋と春は、結婚式のシーズンだった。今年も一人、過去の仲間が式を挙げる。七月か八月に招待状の返事をしたような記憶がある。

 当時サークルに所属していたメンバーは大概招待状が送られていたらしく、懐かしい顔ぶれが控え室に集まっていた。中には、小さい子供を連れている者もいる。誰も彼も、それぞれの社会に、揉まれたような顔の暗さが染みついて、それでも互いに顔を見合わせて、「変わってないな」と嬉しそうに馴染む。自分と同じ速度で、変化していく世間に安心している、諦観によく似た安堵感。そんな甘いお香のような雰囲気が部屋には充満している。今、愛想笑いで挨拶している私もそう。自分も一人の人間として、しっかり年を取れているという事実を再確認して喜んでいる。

 トイレに行っていた河南が、私より少し遅れて部屋に入ると、空気が一瞬、彼女の方に向いて固まった。それはすぐに霧散して、皆和やかに過去のカリスマを囲ったが、明らかに部屋の空気が異化している。安堵感の中に危機感。異物が混じり始めて、それに気が付いたのは私だけだろうか。河南は皆に囲まれて、愛想かそうでないか判別の付かない笑いを浮かべている。彼女に向けられる「変わってないな」は、私たちが言い合ったものとは別の言葉に思えた。


 一足先に到着していた木元はホテルの喫煙室にいた。久しぶりに会った彼は、頬の辺りに肉を付けていた。頭は相変わらず天然パーマ、しかし美容室に行ったのか、マッシュにセットされている。それが彼を今風の芸術家らしく演出している。体に合ったスーツからは、清涼感のある香りすら漂っている。ただ、髭だけは、元来のだらしない雰囲気を顔に貼りつけたように、顎のラインを覆っていた。彼はジャケットのボタンをだらしなく開いて、伏し目がちに一人、煙草を吸っていた。

「なんだ、ばっちし決めてるじゃない。珍しい」言いながら喫煙室に入ると、彼は私と、付いてきた河南に眼を向けて、嬉しそうに煙を吐いた。

「ほんっと仲良いな、お前ら」

 煙草の煙は誰にも向かわず、天井の大きな換気扇に吸い込まれて消えた。

「木元さん、随分雰囲気変わりましたね」

「スポンサーでも見つけたんでしょう。女をたぶらかして」

「スポンサー?……まあ、そんなようなもんかな。俺のファンらしいんだけど、一度会ってからは、何かと金払わせちまってる。こないだの舞台で声かけられてさ」

「よしてよ、どこかの社長の奥さんとか」

 茶々を入れると、笑って頭を振った。

「ないない。ただの男だよ。すすきののバーで働いてるんだと」

「……男の人が? 何ですかそれ。ちょっと変じゃないですか?」眉を顰めて河南が言うと、「まあ、変だよな」木元はあっさりと肯定する。「変わったやつなんだよ。大体、俺みたいな碌でなしのファンだってんだからな」 

 

 札幌で行われた二次会の店を出たところで、木元に、このまま狸小路で飲まないかと誘われた。彼と河南は、社会に適したかつての仲間たちの中で不思議な程存在感を放っているのだった。そのせいか、あまり楽しい酒が飲めなかったらしい。例の男の話も、彼は他の仲間には話さず、時折順調な人生を歩むかつての同期に絡まれては曖昧な笑みを浮かべた。それは河南にしても同じようで、店を出た彼女は妙に疲れた雰囲気、色気を出した男が二、三、彼女を三次会に誘いをしたものの、離れてみていた私に駆け寄って、「今日は沙織さんと帰るんですよ~」開けっ広げに言うくらい、雑な対応。それが道化であると分かっていたから、私も強くは彼女を拒絶しない。「そういうわけだから。諦めなさい、君たち」私も庇って、彼らは不快感を笑いで漉すように、諦めて帰って行くのだった。

 彼らが視界から消滅すると、河南はそっと私から距離を取って、何も言わない。既に北の方の通りに歩き出していた木元、「はよ来いよ」と急かすと、ようやく普段の距離感を取り戻して、私達は歩き出す。かつてとは幾らかマイルドな雰囲気になったといって、私と河南が互いの距離感を見極めたわけでもない。少し突けば爆発するような、そんな危うさを間に挟んで私たちは生活空間を共にしているのだった。


 木元はいつものように、彼の神に向かって二拝二拍手土下座の儀式を済ませ、「最近サボっててすんません」懺悔をする。既に満腹感があり、三人とも強い酒を頼んで、つまみにしたのは枝豆だけだった。

 私達はカジュアルなドレスで、木元は香水の漂うスーツを着ていたから、いつものような落ち着きも無いけれど、「劇場のスケジュール入れたよ」木元が演劇の話を始めると、空気も軽くなり、話題は自然、いつかの青春時代のようなものになる。

「いつ?」

「一月」

「三ヶ月も無いじゃないですか」

 河南の心配は尤もで、演劇に生活を浸している人間なら、二ヶ月か一ヶ月もあれば良い。けれど、社会人が所属し、稽古が週三日、平日は三時間、休日は五時間の小劇団にはかなり不安になる期間だ。

「急にキャンセルが入ったんだ。劇団なら公演打たなきゃいかんべ」

「しかも、大晦日跨いでるし」

「大丈夫だよ、うちはモラトリアム野郎どもしかいねえからさ」

「にしたって、大晦日まで暇とは思えないけど。しかも働いてる人だっているし、河南は就活するんでしょう?」

 私の言葉に意外にも河南、「いや、まあ、それは追い追い」言葉を濁す。

 割いるように「で、脚本なんだけど」木元が言って、 話が本題に入った気配があった。

「相羽、どう?」

「どうって……私が書くわけないじゃない」

 そもそも、どう考えてもその時間が無い。

「書かないにしても、昔の使えんかな」

「昔のは勝手に使えば良いよ。別に、私の許可は一々取らないでも」

「いや、ホンねえし」

「じゃあもう、持って行きなよ。ウチにある脚本全部。構わないから」

 枝豆の房に齧り付いている河南が私を見た。

「そういうワケでもないんだよなあ」木元は煮え切らないようなことを言う。結局、彼が私に何を求めているのかハッキリと分からない。

 それからは、今日の結婚式で久しぶりに顔を合わせた仲間達の、思い出話で夜を過ごした。店を出る頃には終電ギリギリ、払いは割り勘。木元がまともに支払いをしたのは、随分久しぶりだ。例の男が出掛けに持たせてくれた金だ。木元は、美容室や、きちんとした服を着ること、香水を使うことを、求められたら逆らわない。それが彼なりの恩義であって、同居人が自分をアクセサリーのように身近に置くこと、それをを甘んじて受け入れているのだろうか。尤も、これは私の想像が多分に入った推測、実は、件の男は芯からの好意で、そういったことをしているのかもしれない。どちらにせよ、木元が落ちるとこまで落ちたことには変わりが無い。

 それもまた、私にとっては身につまされる事実だ。

 私は河南の性癖を知っている。知っていながら、彼女の好意を利用している。朝食を作り始めたのは彼女が勝手に始めたこと、けれど最近は昼食、夕食を用意させることも珍しくない。飯時になると、私はわざとソファから動かないで、テレビをじっと見ている振りをする。それで河南が立ち上がって、「何か作りましょうか?」その言葉を待っている。そんなことを何度か繰り返すうち、彼女は勝手に察して勝手に動くようになった。子宮が重い日はもっとあからさま、彼女にあれこれと言いつけては一日中ソファで横になっている。そのくせ彼女が不調の日は、労いの言葉一つも掛けず、リビングから台所に立つ彼女の後ろ姿を眺めている。

 そういうとき、私は落下している感覚を味わう。いつかは底にぶつかって、体がバラバラになることを危惧している。木元も同じような思いなんだろうか。

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