弐拾陸 病床

 目を開けた美冬は見覚えのある景色を見上げていた。この天井は陸軍病院のものだ。指を動かし、体の調子を確かめる。ぎこちなくたどり着いた脇腹には固い感触。包帯の下から鈍痛が響くような気もしたが、傷はふさがっている。首を巡らせ、定まらなかった視界に見覚えのある人が入った。


「おばさま?」


 唇も口の中も乾燥している。かすれた声は静江に届いたようだ。

 眠りこけていた静江は目を見開き、見る見る内に涙を溜める。


「よかった」


 いつも冷笑を浮かべる顔を歪め、怒ったように呟かれた。

 ここはあの世ではないのだと美冬は安堵の息を溢す。何日、眠っていたかはわからないが、体は無事なようだ。内蔵も傷つけられていたから、名医でも手のほどこしようがなかっただろう。

 今も美冬が息をできているのは、静江が異能で治したことに違いない。

 両手で顔を覆う静江に美冬はありったけの気持ちをこめる。


「伯母様、ありがとう」

「もう、ごめんよ。あなたの我が儘には、いくらだって付き合ってあげるわ。でも、死ぬのは、絶対、絶対に、許さないわ」


 そう言って、静江は美冬の額から横顔にかけて撫でた。濡れた指が美冬の頬をつね、涙に濡れた目が細められる。

 美冬も笑おうとして咳き込んだ。唇も喉も乾燥して引きつれている。肩の後ろに腕を差し込まれ、水差しが口に運ばれた。

 美冬が水を飲みのを億劫に思っていても、欲していた体はごくりごくりと飲み込んでいく。気付けば、空になっていた。

 飲むことに体力を使い、再び美冬の瞼が重くなった。


「説教はまた今度にしてあげる。ゆっくり寝なさい」


 静江の小言が子守唄のようだ。

 聞きたいことはたくさんあったのに、美冬の口は上手く動いてくれない。

 ほとんど開いてない目とまごつく口に笑い声が落とされる。


「安心なさい。戦争は、じきに終わるわ」


 美冬はなぜと問いたかったが、抗えない眠気に再び瞳を閉じた。


⊹ ❅ ⊹


 暗闇の中でも白い頭は目立つ。

 秋人と決別した時のようだと美冬は思った。あの時とは秋人の背丈も、体つきも、雰囲気も違う。またこんな風に見下ろされるなんてと寝ぼけた頭はなぜか懐かしんでいた。

 夢だと思っている美冬は見下ろす影に問いかける。


「秋人は、死神になったの?」


 秋人は瞬きを繰り返した後、首を振った。


「俺は死神ではありません」

「あら、残念。死神になって会いに来てくれたのだと思ったわ」


 秋人はしばらく考えて、美冬がからかうように言った理由に行き着いた。淡々と弁明がされる。


「死んでいません。熔けた銃弾が熱かっただけです」

「それが、倒れた理由?」


 夢から覚めたように目の色を変えた美冬に秋人はそうです、と頷いた。

 ベッドから動けない美冬は曇天の瞳をきつく睨む。


「でも、爆発に巻き込まれたじゃない」

「部下が防壁を張ってくれたので、無事でした」


 納得しきれない美冬は口はへの時にして黙り込む。

 沈黙が続く部屋に、お嬢様と言葉が落ちた。

 顔を上げた美冬は初めて彼が怒っていると気付く。


「どうして禁術を使ったのですか」

「使いたかったから」


 眉間のしわが深くなる。こんなに怒りをあらわにする秋人は初めてだ。


「理由はそれだけですか」

「お前が死んだと思ったからよ」

「……意味がわかりません」


 秋人が低い声で訊いたにも関わらず、美冬の答えはあっさりとしたものだ。秋人も人のことは言えないが、美冬も説明を省く節がある。秋人が死んだから、詞に禁術を使うというのは辻褄が合わない。眉間の皺が一本増えた。

 傍若無人な美冬はわからないかと咎めるように口を尖らす。


「お前が死んだら、私がここまで来た理由はないもの。死んだお前に会うためには死ぬしかなくなるでしょう? 一度死んで、殴ってやろうと思ったのよ」


 死ぬことに一度も二度もない。

 屁理屈を通り越して、理性のかけたわがままだ。それでも、それが、美冬の本心だった。

 怒りの矛先をへし折られた秋人は、難解な問題を目の前にしたような顔をしている。


「それに、死ぬ姿は見るのはもうたくさんだったのよ。あそこで我慢していたら、私の心は壊れていたわ」


 そう言いきった美冬は、禁術を使った相手を思い出したようで、顔を上げた。


「詞はどうなったの?」


 口早に訊かれたことは予想の範疇だったようで、秋人は視線を右下にやり、答えにくそうに口を動かす。


「……命に別状はありません」

「含みのある言い方ね。ちゃんと説明なさい」


 美冬の指摘に細く息を吐き出した秋人はとつとつと話し始めた。


「禁術の力で、彼の腹の傷はなくなっていました。ただ、失った血が多く、しばらく意識が戻らなかったんです。先ほど、意識を取り戻したのですが……」


 そこで秋人の言葉が止まった。

 寝転がった美冬は秋人の顔を射抜くように見る。


「何を言われても驚かないわよ」

「……目が、見えなくなっておりました。瞼に受けた傷が深かったようです」


 術で完璧に傷が移っていたと思っていた美冬は首を傾げる。


「おかしいわね、私に傷が移っていないなんて」

「俺は安心しましたけど」


 秋人の言葉は無視されて、美冬はしばらく考え込んだ。口元に当てられていた拳がそっと外される。その手は美冬の額に移動した。


「これに邪魔されたのね」


 美冬は髪をかきあげ、秋人と同じ場所にある傷痕を見せた。時間の経過とともに薄れる傷は今も二人を結び付けている。


「どうして、お前は私のやることなすこと全てに邪魔をするのよ」

「あなたが無茶で無頓着で、危ないことしかしないからでしょう」


 そのことはともかく、と秋人は話題を戻す。


「佐久田には表面上、死んでもらうことになりました」


 どうして、と開きかけた口を秋人の一瞥が止めた。


「あなたが禁術を使ったことを隠すためです」


 宣言した秋人は、さらに続ける。


「佐久田が死にかけている姿を何人もが見ました。俺の部下もです。あれは、助かる傷ではないと、皆、諦めていましたよ。助かるはずがないのに、助かった。事実、禁術を使ったとしても、その事実を広められるわけには行きません。見られたわけではありませんが、体には佐久田と同じ傷ができています。完璧な証拠です」


 秋人は覚悟を決めた目を美冬に向ける。

 美冬は知られてもいいと腹を括っていた。だが、秋人は許してくれそうにない。論破する糸口を見つけるために探りを入れる。


「どうやって隠すというの?」

「照彦に力を借ります。彼は優秀な陰陽師でもありますから」

「……フィンと何処かに雲隠れしたのに?」

「優秀な陰陽師は何だってできるものです」

「言い方がフィンみたいね」

「全然、全く、嬉しくありません」


 至極、嫌そうな顔で秋人は拒否した。

 面白くなさそうに口を歪めた美冬は次の質問に移る。


「家族にはどう説明するの? 兄弟にも隠して生きて行くのかしら」

「箝口令は引かれていますが、本人に希望を聞くという形でしょうね。さすがに一緒に暮らしたり、定期的に会うことは許せません」

「縁を切られて、詞はどうやって生きていくと言うの?」

「陸軍の隠密部隊に入ってもらうか、工作員になってもらいます。あそこは訳ありばかりで融通がききますから」


 禁術を広めないために、軍が詞を管理するということだ。美冬は秋人がそこまでできる権限を持つことに疑問を抱いたが、深くは訊かないでおいた。機密事項であれば、秋人でも話せないからだ。

 美冬は冷めた目で秋人に最後の質問をする。


「どうして、私が使ったことを隠す必要があるの?」

「裁かれるのを防ぐためです」


 美冬は秘術で傷を奪われた時、何も裁かれなかった。つまり、術を使った方が裁かれることになる。理解が及ぶにつれて、美冬は信じられない面持ちで秋人を見た。


「お前は、裁かれたの?」

「……服従の契約をさせられました」


 美冬の強い瞳には逆らえない秋人は白状した。


「国に逆らえないということ?」

「主だってはそうですね。謀反を働けば、最悪、死にます」


 曇天の瞳は底知れない深さを抱えていた。


「後悔はしてないけれど、面倒事が増えたのね」


 反省してほしいんですが、と秋人は一拍置いて、憂いを帯びた顔を見下ろす。


「佐久田は感謝していましたよ。命を救ってくれたことに関しては、俺も感謝しています」

「禁術を使ったのに?」

「それとは別です」


 話が途切れて、美冬はあくびを噛みしめた。泥のように寝たはずなのに、まだまだ足りない。

 秋人が急に姿勢を正し、美冬は寝ぼけ眼を向ける。


「……岩蕗少将に報告しましたよ」


 どうして、という言葉は美冬の喉に引っ込んだ。

 秋人の瞳が死んでいる。熱がないと思っていた瞳が常闇を抱えていた。


「玉砕覚悟で、お嬢様が死にかけているとご報告しました。これまでのいきさつも少将の耳に入れています」


 だから、詞の処遇も決まっていたのか。ようやく合点のついた美冬は目を閉じ、静かに言葉を落とす。


「……終わるわね」


 今まで寝ていた美冬が知るよしもないが、戦争はほとんど終わりかけていた。

 先の戦争で大きな功績を残した岩蕗隆人は『眠り鬼』と影で言われていた。最愛の妻を亡くし、気力を失っていた隆人は最盛期の力が出ないからだ。『氷塊の鬼神』も地に落ちたと言われていた。しかし、美冬の悲報を聞き奮い立つ。氷山を築き、敵を氷漬けにし、恐怖で震わせた。

 これに『白炎の死神』の力が加われば、千人の相手も朝飯前だ。

 敵兵は大型火器や車を軒並み潰され、溶かされ、奈落の底に落とされまいと敗退の一途を辿る。

 戦争は驚異の大逆転が成され、その時機を逃がすわけがない。時期に講和条約が結ばれるだろう。

 後日、それを知った美冬曰く、魔女殺しをしたから敵は負け、異能持ちをみかどと崇めたから神国は勝った、と。さらには、使えるものは上手く使えばいいのよ、とのたまう。

 それでも『白炎の死神』は思う。敵を地獄に突き落とし、国を勝利に導いたのは、戦場に降臨した看護婦だ、と。




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