終章  紅に染む

 戦争が終わった。秋人がそう思えたのは、母国に帰還する船に乗ってからだ。

 船内は傷病兵が寿司詰め状態ではあったが、顔色は明るかった。晩夏を迎え、甲板は空気が揺らいで見えるほどに熱されている。日向の部分には誰も立ち入らなかった。

 海の波に写る太陽の色が変わるに連れて、淀んでいた熱が海風にさらわれていく。

 影を追うように美冬は抜け出した。

 美冬が一人になるのを狙っていた秋人は彼女の背を追う。

 甲板に出た美冬は風に髪を遊ばせ、無謀にも手すりに触れた。

 あまりの熱さに反射で手を避けた美冬の隣に秋人が並ぶ。

 隣にできた影に美冬は瞬き、影の正体を知った途端、ふてくされた。


「一人になりたかったのに、どうしてお前が来るの」


 案の定、憎まれ口を叩かれ、睨みつけられた。回れ右をしそうになった秋人は目的があったことを思い出し踏み留まる。


「……憎んでもいいのよ?」


 秋人が胸ポケットから取り出したものを見せる前に、言葉は落ちた。目を向ければ、自嘲ぎみに笑う横顔が海風に言葉を乗せ始める。


「私は命を救われても、お前を追い出した……お前は不屈の花を覚えていたのに、私はすっかりと忘れていたわ。いつもいつも私の後始末ばかりさせられて、今回だってそう。人を殺さない策があるとほざきながら、結局、最後は病院でぬくぬくとしていただけだもの」


 目を伏せ、海風にさらわれた髪をおさえる様は一枚の絵画のようだ。


「最後は父様の手もわずらわせたわ。二十歳にもなって、まだまだ子供ね」


 紅い海を背景に美冬は秋人を見上げる。真っ直ぐな瞳には海のきらめきが映っていた。

 呆れてるでしょう、と問いかけるような口調で言葉をかけられる。

 秋人は口を開き、幼い頃に投げつけられた言葉を言おうとしてやめた。確かに妬ましかったが、それよりも、言いたい言葉がある。


「俺は、惚れなおしました」


 感情がのらない言葉がちゃんと伝わったかわからない。

 秋人を見つめていた瞳が、波紋が広がるように徐々に見開かれる。信じられないという面持ちでしばしの間、時が止まっていた。

 その一瞬は自分だけのものだ。秋人の心は十二分に満たされる。

 美冬は鯉のように口を動かすが何も言葉にできない。そうしたかと思えば、ひどい渋面が秋人を睨み付けた。

 淑女の欠片もない百面相を見た秋人はつい声を上げて笑ってしまう。


「お前、笑えたのね」


 再び、美冬は目を丸くした。

 秋人は自分でも何が可笑しいのか、わからなかったが、ははと小さな笑い声がもれる。


「心から笑えたのは、初めてかもしれません」

「おおげ……いえ、そうね。お前は子供の頃も人形みたいな顔をしていたわ」

「それ、けなされていると思っていました」

「けなしてないわよ」

「たわしは?」

「……そんなこと言った?」


 美冬は幼い頃のように話せている状態に気付いているだろうか。秋人が感慨深い思いを抱えていることなど彼女は知らないだろう。

 真っ直ぐな瞳に、可笑しそうに笑う男が入り込んでいる。

 顔が渋いまま、美冬はそっぽを向いた。小さく開いた口が拗ねた声を出す。


「もう、秘密はなしよ」


 幼子のような呟きは本心だ。屋敷で父の汽車を見送った時と同じ目をしていた。

 秋人は言うか、言わまいか悩んだが、あの日のようなことが二度とあっては困ると重い口を開く。


「一族を殺しました」

「……殺したかったの?」


 遠くを見つめたまま、美冬は質問で返した。首を振る秋人を目の端で捕らえ、諭すように言葉を紡ぐ。


「終わったことはどうしようもならないのよ。極力、手をかけてはほしくないけれど、仕方のない時もあるでしょう? でも、私の大切なものは壊してはだめよ」


 基準はそこなのかと秋人は拍子抜けした。己が何を恐れていたのか疑問に思うほど、美冬の瞳は凪いでいる。


「もう、秘密はない?」

「……おそらく」


 そうと片付けた美冬は秋人にいたずらっぽい顔を向ける。


「言っておくけど、お前を許したつもりはないから」


 意表をつかれた秋人は、目を瞬かせる。曇天の瞳に映るのは目をすがめ口端を上げた顔だ。皮肉でいじわるで気高い、人を魅了する笑顔に優しさがにじんでいた気がするのは秋人の気のせいかもしれない。


「一生、償いなさい」


 美冬はそう言い捨てて、海上の先を見つめた。

 言葉にはされていないのに、そばにいることを許された気がする。泣きたくなるほどに美しく色付いた世界は、影を抱きながら輝いていた。

 美冬の前に秋人の手が差し出される。そこには、母の形見が乗っていた。


「失くしたと思っていたのに、お前が持ってたのね」


 美冬の手に渡されたものは、彼女の危篤を聞いた秋人に静江が持たせてくれたものだ。

 まだ死んでいないわ、とまじないのように渡され、美冬が起きたら返しなさい、と笑んだ顔は美冬の母に似ていた。生きいそいではだめよと見送られた秋人を現世に引き止めてくれたのは、くれないの花だ。


「これ、私の血よね。ぬぐってくれたっていいじゃない」


 美冬はブローチについた紅を恨みがましそうに睨んでいる。

 秋人は拭わなかった理由を一生教えないと今、決めた。その紅にどれだけ祈ったか、情けなくて言える気がしないからだ。

 指で擦り取ろうとする美冬を横目に、秋人は海の先を見つめた。

 黄色から、橙、赤、紫、紺へと変わりいく太陽が海に沈んでいく。その光は眩しく、目が焼けてしまいそうだ。それでも、目を離せない美しさがあった。

 秋人は海に沈む前の紅を見つけて、小さく笑む。


「きれいね」


 隣からこぼれた声に、はいと噛み締めるような声が返された。



【完】

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