拾陸  美冬

「美冬という名前はね。生まれた日がとってもきれいな冬の日だったから、母様の名前と合わせて、父様がつけてくださった名前なのよ」


 大事になさいね。そう母は寝物語として美冬に聞かせた。母が寝かしつけてくれることが嬉しくてたまらない娘の目は冴え渡っている。

 まだ眠りたくないと渋る美冬に母は可笑しそうに笑った。


「明日は、友達が来ると言ったでしょう? 眠くなくても、目を閉じなさい。寝るまで、母様がそばにいてあげるから」


 足をくずした母は美冬のさわり心地のいい額を撫でた。

 まだまだ目を閉じそうにない美冬は思い付いたままに疑問を投げる。


「母様はともだちいるの?」

「いるわよ。大事な大事な友達よ」

「どんな人か、おしえて?」

「あなたも知っている人。この前も来てくれたじゃない」

「……しずえおばさま?」

「そう」

「なかよしなの?」

「ときどき喧嘩もしたけれど、いつだって隣にいてくれた素敵な友達よ」


 母の声と体温があまりにも優しかったから、だんだんと眠気が近付いてきた。瞼が開けることが難しくて、でも、自分に素直な美冬は言いたいことを夢心地の中でこぼす。


「わたしも……ともだち、ほしぃ」


 母がどう答えてくれたのか、遠い記憶には残っていなかった。


 美冬の世界は狭かった。特に小学校に入る前は屋敷からほとんど出してもらえず、よく癇癪を起こしたものだ。いくら屋敷が遊び回るのに十分すぎる広さといえども、相手がいなければつまらないものだ。

 我慢のきかない幼子はつまらなくて泣き叫び、困った顔に金切り声を上げた。美冬は困った顔が大嫌いだ。まるで、美冬だけが悪いみたいではないか。他人と関わったことのない少女は周りが大人ばかりで自分の非をわかっていなかった。

 父と母と、たまに来てくれる静江以外は固い表情の執事と使用人しかいない。仕事で家を空ける父と床に伏せがちな母は相手をしてくれず、祖父母は異能者は短命という運命さだめに違わず、もうこの世にいなかった。使用人は元気のありすぎる美冬に困り顔で、その顔が見たくなくて美冬は一人で遊んだ。木に登り使用人の顔を青くさせ、池に入ったら執事にこんこんと説教をされた。代わり映えのない日々に小さな心が満たされることはなかった。

 一人娘が巻き起こす嵐が日常茶飯事の家に秋人がきたのは、神の采配かもしれない。表情を動かさずに素直に命令に従う秋人は美冬の心を満たした。たまに口答えをするようになったが、美冬が呼べば必ずついてくる。

 なぜ岩蕗家が世話をするのか。なぜ笑わないのか。出会った日から小学校を卒業するまで気にもしなかったのは、変わらない未来が続くと思っていたからだろう。

 それが当たり前になった時、事件は起きた。小学校に入った年の夏、秋人が池に落とされたのだ。

 美冬は落とした者にも腹を立てたが、やられっぱなしの秋人にも憤りを隠せなかった。傷つけられたことが許せない。激情にかられ、気付くのも当分先になるのだが、美冬にとって秋人は自分の世界に欠かせないものになっていた。

 美冬は秋人がいつまでついてくるものだと思い込んでいた。秋人のことは全部知っていると思い上がっていた。

 高々と伸びた鼻をへし折られたのは小学校の卒業を直前に控えた日だ。中学校に進むはずの秋人が全寮制の軍士官学校、特神科に入ると聞いた時は何かの聞き間違えではないかと思った。しかも、異能狂いと噂されるミアカーフ卿のお墨付き。美冬も馬鹿ではない。

 秋人が、異能が使えるなんて露にも思っていなかった。異邦人と繋がりがあるなんて聞いてもいなかった。

 全てではないが、父から聞いた言葉でそれらを悟り、自分は何も知らなかったのだと奈落に落とされた。

 なぜ、言わなかったのか。とにかく許せなかった。


「お前なんて、もういらない!」


 気付けば、美冬はそう叫んでいた。秋人の暗雲の瞳に雷が走り、崩れ落ちたような気がしたが、嘘をついていた秋人が傷つく権利はない。傷つけられたのは美冬の方だ。母のことも、己の引き目のことも秋人だから聞かれてもいいと思った。父が帰ってきた時の気の抜けた涙も秋人だから見せたのだ。

 父の言葉で知った絶望は、心の準備をしていなかった分、母の時よりも深かった。

 美冬は荒れ狂う心のままに屋敷を飛び出し、しばらく一人になりたくて追っ手は巻いた。走りぬけた先は寺だ。乱れた着物を整え、地蔵の横に座った。

 雪が降る中、上着を差し出す手はない。その寂しさも許すことができない美冬は帰るに帰れなかった。

 絡まれた男に美冬の達者すぎる口が言い返せば、小刀を振り落とされる。名が呼ばれ、体が引っ張られたと感じたのは、額から熱が吹き出すのと同時だ。

 男の悲鳴が遠くで聞こえる。美冬は自由のきく片目を薄く開き、音の方を見た。白い何かが男をおおっている。鼻に届いた臭いで、それが炎だと気づいた。肉を焼く臭いは自身の血の臭いでかき消される。声が聞こえた気がしたが、返事をする前に意識を手放していた。

 次に美冬が目を開けた時、布団から見上げた秋人の髪は白くなっていた。燃える白炭が脳裏をこがすようだ。記憶の中にはない秋人の額の包帯に眉根を寄せる。美冬は痛む傷を思いだし、彼が禁忌を犯したのだと悟った。

 座学でさわりしか習わなかった人の傷を人に移す秘術。秋人は不完全とはいえ、それをやってのけた。

 美冬は気にくわなかった。自分にはない異能を秋人が持つことも、自分の傷を勝手にとったことも。白い髪の奥で不安にゆれる暗雲の瞳もわずらわしくて仕方ない。


「私はお前がねたましい」


 隠すことなくぶつける。友を送り出す言葉ではなかった。

 当然、そこからは一度も顔を合わせていない。楽しみにしていた日々が無遠慮に過ぎていく。

 続けて卒業式も休んだ日、異邦人が見舞いに来た。額の包帯はとれて、赤いみみず腫があるだけだ。必要ないと帰そうとも思ったが、秋人の言伝を持っているかもしれない。

 部屋に通した異邦人は手土産の箱を携えていたが、青い双眸は屋敷から消えた者を探していた。


「いないわよ」


 その時は名前も呼びたくなかった美冬は腕を組んで言ってやった。鼻の中心にしわを寄せて、机を挟んで座ったフィンを睨み付ける。


「誰の見舞いに来たのよ」

「もちろん、美冬さんのですよ」

「白々しい」


 美冬の切り返しに、困ったような笑顔が返された。さらにしわを深くした美冬に言って聞かせるようにフィンは話題を変える。


「これが、あなたのなぐさめになればいいのですが」


 そう言って渡されたオルゴールは今も美冬の手元にある。

 オルゴールの奏でるは確かに魂に響いた。調べてみるて、西の国の鎮魂歌だ。オルゴールの高い音色が重なりあい、荒ぶる心をなだめてくれる。

 白い記憶がくすぶる日はこの音を聞くようになった。


⊹ ❅ ⊹


 美冬は薄暗い中で瞼を開けた。白い夢のせいで、寝た気がしない。

 呪詛のような言葉を吐いた日から、美冬はひたすらに一番にこだわった。もともと負けず嫌いではあったが、自分の上には必ず秋人がいると考えると腹の底が冷える。努力が足りないと書物を読み漁り、頭に叩き込んだ。

 十五歳になった冬、父が教えてもできなかった異能は夏の朝になって初めて現れた。それは呆気ないもので、水にさらした手拭いを凍らしたのだ。手が震えるほどに喜ぶ美冬の脳裏に、白い炎が揺れる。はたりと震えは止まった。

 ただ天井を眺めているだけなのに、白い影が夢幻のように現れる。美冬はオルゴールを探したが、枕元に置かれたそれはネジが切れていた。

 美冬の手は頭を押さえ、白い影を追い出すよう努める。ひどく冷えた小指が額の古傷をかすり、痛くもないのに眉間にしわが寄った。体を起こし、耳をすませると聞こえたのは昨晩と同じ音。寝間着のまま、襖、ガラス戸、木戸を次々と開けていった。

 美冬の屋敷からは朝日に照らされいく街が一望できる。薄暗い世界にはまんべんなく雪が降り積もっていた。

 白く染まった都を縫うようにのびる線路を白煙を吹き出しながら、汽車が力強くかけていた。美冬が呪ったように汽車が止まることはない。


「良いわね。男で、力のある人は」


 美冬がねたんでも雪が吸うだけだ。白い息が消えるとは逆に虚しさが胸を満たした。

 自身を抱きしめるように腕を回した美冬はむき出しの柱に体を寄せる。あたたかいものが冷たい頬を滑り落ちていった。

 いつも秋人の方が先にいく。

 昨夜の白い熱は夜にも寒さにも揺るがなかった。

 自分がひどい仕打ちをしても、彼は梅の花を忘れないでいてくれた。白い花が背中を押してくれる。

 美冬は悔しくて、うらやましくて、情けない。どんどん小さくなる車両をにらんでも、この辛さもわずかに灯った喜びも伝わらないだろう。

 はじめて、美冬は秋人に許してほしいと思った。ひどい言葉をぶつけたと素直に思えた。でも、認めたくないという気持ちも混在している。

 想いの代わりに美冬は汽車へ人差し指をむけた。秋人をまねて、指先に氷の花を作る。ひとつだけなのに小さな花は思い描くようにできない。美冬の心の機微を表しているようだ。

 朝日を浴びるいびつな花がきらりと光る。


「ふくつの花は、お前のものじゃないのよ」


 乱暴にぬぐった顔は苦しさをかなぐり捨て、不敵に笑っていた。



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