拾漆  教育所

 縁側に座った美冬は腕を組み、ひつじ雲の並ぶ空を見上げていた。眉間にしわが寄っているが、目は途方にくれている。戦争が始まってすぐに、通っていた女子大学は休学した。自分ができることや戦争のことを悶々と考えて、勉強に身が入らないからだ。

 戦争中と言っても、戦場は異国の地だ。弾が降ってくるわけもなく、怒号が響くわけでもなく、戦況は紙面でしかわかない。その内容も誇張したものに見えて、でたらめばかりだと美冬は睨んでいた。異国の地に思いを馳せても、戦場に駆けつけることもできない。もし、兵士が詰められた汽車に乗ろうものなら、上手く騙せても何処かで爪弾きにされることが予想をしなくともわかるからだ。考えなしに徒歩で行くとは言わなくなるぐらいには、美冬は大人になってしまった。できうるならば、堂々と胸を張って異国の地に足を踏み入れたい。

 ずっとそればかりを考えるだけで、一月も時間を無駄にしてしまった。

 女学生のほとんどは、嫁にいった。嫁に行かなくとも、美冬みたいに女子大学や高等師範学校に進んだり、海外に留学したり、文学の世界に入ったりと同窓生は羽ばたいている。

 鬼人も子鬼もいると名高い岩蕗家には、婿養子の話はなかなか舞い込んで来なかった。父は頭をひねっていたが、仕官生をいなしまくる父にも原因があると言わなかったのは、娘の私欲にまみれた配慮だ。

 結婚に興味のない美冬は、自分の将来を決めかねていた。一番にこだわっていただけで、よくよく考えてみれば目標も目的もない。しいて言うならば、秋人の鼻をあかすことが野望だ。

 女が男達の世界に飛び込める時代にはなったが、いくら武術に秀でていても戦場に立つことは許されてはいない。戦う暇があれば子を産めと言われるのが関の山だ。


「まぁーた、ぶぅたれて。花でもいけてみたらどうです。小遣い稼ぎにはなるでしょう」


 唐突に聞こえた声に美冬は特別驚かなかった。目だけを向けて、何食わぬ顔の佐久田をじとりと眺める。暇潰しぐらいにはなるだろうといやいや口を開いた。


「華族の娘がちょっと稼いだだけで、いやしいと騒ぐ世間じゃないなら、してやらなくもないわよ」


 美冬の言に、まぁ、確かにと神妙に頷く佐久田は頭の固い世間に染まらず考えが柔軟だ。いささか、美冬に対する態度が親しすぎるのが欠点ではあるが、二人の時は美冬も許していた。何かと心配され小言を言われるのも息苦しいと知っているからだ。

 また秋人のことを思い出した美冬は頭に何かのし掛かったように感じた。空からそそぐあたたかな日差しのように考えることを放棄して、佐久田に答えのでない問題を投げつける。


「戦場に行く方法を考えてちょうだい」

「また血迷い事を」

「本気よ」

「はいはい、わかっておりますよ」


 真剣に悩んでいるこちらが馬鹿らしくなるほど、佐久田は口を尖らし考えている。美冬には晩御飯を決めかねているだけのように見えた。こんな態度ではあるが、彼は軍に席を置いている。屋敷にいる美冬が呼んでも来ない時は、たいていは軍の用事だ。何処の部署かはいつもはぐらかせれてばかりで、兵糧係だと美冬は勝手に決め付けていた。狙撃兵ならば、弾切れだと適当な理由をつけて昼寝をしていそうだ。

 密かにけなされていることを知らない佐久田は顎に拳をつけたまま、美冬に確かめる。


「兵士になりたいのですか?」

「まぁ、そういうことね」

「兵士にならなくてもいいですか?」

「質問の意味がわからないわ」


 美冬の不機嫌な声にも臆しない佐久田は気だるげな顔を得意気なものに変える。


「戦場で働く看護婦を募集しているらしいですよ」


 佐久田からもたらした情報は美冬も知らないことだ。


「それは確かな情報なの?」

「当たり前じゃないですか。俺は軍の犬ですよ」


 真剣さの欠片もない返事はふざけているようだ。しかし、佐久田は美冬が嘘が嫌いだと知っている。滅多なことがない限り本当のことを冗談のように言うだけだ。

 美冬は今初めて佐久田を誉めたくなった。


⊹ ❅ ⊹


 三日後、美冬は看護婦教育所の応待室に案内されていた。扉が開けっぱなしの教員室を見れば、見覚えのある姿がある。

 簡素な洋装にカーディガンを羽織った静江だ。腰まである髪はうなじの上で丁寧にまとめている。その人が座る席には副所長の札が置かれていた。


「伯母様、お久しぶりです」


 静江に一番近い窓から、美冬は声をかけた。

 静江は顔を上げ、涼やかな目元をすっと細める。


「久しぶりね。何を企んでいるの?」

「話が早くて助かります」

「あなたには礼儀も建前も邪魔ものでしょう」


 綺麗に笑って見せた静江は席を立ち、美冬の案内を変わるついでに、お茶を準備して頂戴と言付けた。

 美冬は静江について、応接室に入る。護衛でついてきていた佐久田は音もなく扉を閉じた。

 部屋の内装には目もやらず、席について早々に話題を切り出したのは美冬だ。


「看護婦が戦場に派遣されると聞きました」

「いくら可愛い姪の頼みでも聞けない話ね」


 美冬の魂胆など最初からわかっていたように静江は突き返した。すぐに言葉を並べようとする美冬を牽制するように間を置かずに続ける。


「あなた、大事な跡取りでしょう。岩蕗卿の許可もとっているわけがないわね。自分が何をしようとしているか、わかっていてここに来ているのかしら?」

「父様が帰ってこないと決まらない縁談もどうしようもないでしょう? 契りを結びたいと言う人も想う人もいないし、私はいてもいなくても意味がありません。それなら、看護婦で父様の助けをした方が世のため人のため、そして私のためによい計らいだと考えませんか。伯母様、私はやる気に満ちあふれていますの」


 幼い頃から、いち言えば、二も三も返ってきた言葉が歳を経て十にも二十にもなっている。

 冷笑で通している静江の眉間に何本もしわが寄った。記憶が正しければ、雪崩のごとく踏み倒していた姪は、女学校に通いはじめて日に日に大人しくなっていたはずだ。静江は眉間に手をやり、無気力ながら力を持つ曇天の瞳を思い出した。出かけた言葉を頭で整えて、美冬に問いを向ける。


「……まさかと思って聞いてみるけれど――秋人のため、ではないでしょうね?」

「秋人のためと言うのは語弊がありますわ。自分のために、あれを見返してやりたい気持ちはありますけど」


 美冬の言葉に静江は肩が重くなる。

 この数年、美冬の口から秋人の名前は出てこなかった。家族のように過ごしていたはずなのに、一度もだ。それがどうだ。時折していた、何かを言いたそうな顔で押し黙る姿は消え失せ、影もなく彼の名を口にする美冬はすがすがしい。

 扉を叩く音が間を割り、お茶が並べられた。

 静江は熱いお茶を涼しい顔で飲み、とんと湯呑みを置く。


「あなたがどんなに望んでも、危険なことはさせられないわ。美幸さんに――あなたのお母さんに、顔向けできなくなるもの」


 静江の揺るがない声は誰かに聞かせるように穏やかだった。

 美冬は母の姿を探すように目を細める。


「伯母様も覚えているでしょう、不屈の花を」


 静江の微動だにしていなかった瞳を揺らすには十分な言葉だ。

 天蚕糸てぐすを捕らえた美冬は顎を引き、静江を見据えた。再び涼しい仮面をかぶった伯母に容赦なく切りかかる。


「伯母様はこう言っていたはずよ。『自分が正しいと思うことを曲げること』は自分に負けることだって」


 伏せられた目は湯呑みの風もないのに揺れる水面を眺めていた。仮面ははがれ始め、静江の感情を見せている。

 容赦のない美冬は息もつかない。


「母様は私に私らしく生きてほしいと言っていらしたわ。こんな所で足踏みしている場合じゃないのよ」


 二人の間に沈黙が落ちる。

 深い深いため息をついた静江は疲れた笑みを見せた。だが、瞳は何処か試す色が宿り楽しげだ。条件があるわ、と最初に断言した静江は教育者の顔を見せる。


「きちんと看護の技術を学ぶこと。戦場に出て、役立たずなら、それこそわがまま令嬢のおままごとと取られるわ。私の力を貸すのだから、それ相応の技術を身につけて頂戴」


 覚悟なさい、と静江は言葉を切った。珍しく迷う素振りを見せ、覚悟を決めた目を美冬に向ける。


「それから、自分の身が守れるぐらいに異能を鍛えなさい。私はそちらは不得手だから、ミアカーフ卿に話を通しましょう。戦争をしていても、あの人は暇をしているはずよ」

「いいの? 伯母様」

「必ず共をつけて行くのよ」


 喜色満面の美冬に静江は釘を刺した。予定を組み立てている美冬を無視して続ける。


「本来であれば、看護婦は後方の兵站へいたく病院までよ」


 本来であればね、と再度、静江は強調した。伯母には姪の狙いが透けて見える。


「戦場に出るつもりなのでしょう」

「あら、伯母様、ご明察ですわ」


 美冬は令嬢の笑みを浮かべて静江に対峙した。突き進む瞳は下手な宝石より輝いている。

 やめてちょうだい、わざとらしいとため息混じりにこぼした静江は美冬の笑顔を受けてたつ。


「美冬、根性見せなさい」


 何よりも気高い笑みが美冬の背を押した。



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