腰元頭は心配性[後]

 ヒメサマ、ゴキゲンヨウ。

 ヒメサマ、ゴキゲンヨウ。

 鳥籠の中から、盛んに呼びかける声がする。

 わたくしは姫さまではありませんよ、とトアサは心の中でつぶやきながら籠に歩み寄り、餌の残量を確認する。

 以前、当番の腰元がうっかり餌をやり忘れて、鳥が弱ってしまったことがあった。だから自分の役目ではないものの、進んで気を留めるようにしている。周囲への配慮など微塵もなくしゃべり続けるこの小さな生きものがいなくなってしまったら、屋敷を覆う陰鬱な雰囲気はもう救いようがない。

 うまく育てると人語を話すようになる珍鳥という触れこみで馴染みの商人が持ちこんできたのだが、本当かどうかはわからない──と、贈り主からの手紙には書かれていた。たとえ話さなくても地鳴きの声が美しく、見た目にも愛嬌があるので譲ってもらったのだという。そんな断り書きを先に読んでいたこともあって、トアサも家中の者も、まさか本当にしゃべるようになるなどとは思っていなかった。

「ゴッッッキゲンヨー!」

「はいはい、ごきげんよう」

 しゃべることはしゃべるが、会話は通じない。くり返し聞いた言葉を音として記憶し、模倣するだけだ。この挨拶も、腰元たちがキサラ姫の部屋へ出入りするたびに口にするのを、いつの間にか聞き覚えたものらしい。他にも「ヨイオテンキ」とか「オショクジ」とか「アラ、イヤダ」とか、女たちの声の断片を拾っては唐突に、一方的に言いたてる。

 もっともこの部屋では、腰元たちのしていることも鳥と似たようなものだ。朝な夕なに姫へ話しかけるトアサたちの言葉は、挨拶も報告も伝言も、すべてが一方通行だった。返事がないのはもとより、聞いてもらえているかどうかすらわからないまま、沈黙を埋めるためだけに虚空へ声を放る毎日……。

 餌は足りているようだったので水だけを替えてやると、鳥は急に黙りこみ、小首を傾げて世話人を見上げる。羽の色は冴えないものの仕草はなかなかに愛らしく、これはこれでよい、と最近は思うようになった。

 しゃべる能力など、なくてもよいのかもしれない。余計な声など立てず、こうして鳥籠の中でおとなしく囲われて、どこまでも単調な日常に寄り添ってくれさえすれば。姫にはむしろ、そのほうがよほど安らぎになるのではないだろうか?

「……サマ」

 小鳥がまた、もぐもぐと何事かつぶやく。鳥籠の前を離れようとしたトアサは、ふとその言葉尻に違和感を覚え、立ち止まった。

 再度、発せられた声を聞いて、自分の頭から血の気が引いていくのがわかった。とっさに籠を台から下ろして抱きかかえ、急いで部屋を出る。顔だけを出して廊下に目を走らせ、湯殿のほうから姫の戻ってくる気配がないか確認し、壁際を早足で進んで腰元たちの詰め所へ向かった。

「いかがなさいました、トアサさま?」

 血相を変えて飛びこんできた腰元頭を見て、控えていた同僚たちは不安げな顔をした。

「この鳥の前で、あのおかたのお名を口にした者は誰です?」

 前置きもなく、トアサは詰るように問う。籠の中から、まるで補足するかのように、タカスサマ、とつぶやく声がした。

 そんな、まさか、と女たちは戸惑い顔を見合わせる。

「あのおかたのことは当分、姫さまのお耳には入れぬようにと、しかと取り決めをしたはず。何ゆえ、かようなことに?」

「トアサさま……。そのお名をわざわざ鳥に言い聞かせるなどという軽はずみなことをする者が、よもやわたくしたちのうちにあるとは」

 トアサの次に年かさの女が、おずおずと答える。他の腰元たちも同調するように頷いているが、いずれもどこか不安げな顔だ。

 おそらくこの中に、タカス・ルイにまったく興味がないという娘はいない。夢中になって噂話を交わすうちに、いつの間にか鳥に聞かれていた……そんなことが絶対に、一度もなかったとは、誰も自信を持って言いきれないのだろう。

 もっとも、うっかりの一度や二度で覚えるほど利口な鳥ではない。くり返し聞かせた者が、確かにいるはずなのだ。

「たとえば、こうは考えられませぬか。お便りが届いたのを姫にお伝えする際に、差出人のお名前として申し上げるのを聞かれていたとか……」

「よく思い出してごらんなさい。鳥がここへ届いたのは、いつでしたか」

「確か、春の終わりのころ……。あら、それでは」

「ええ、その後まもなくして、あのおかたは国境へ赴かれることになりました。ですからお便りなど、いくらも届いていないのです」

 むしろそこが一番の問題なのだ。西陵せいりょうの騎馬隊長が東の四関しのせきへ向かったのは、美浜との戦いが差し迫っているため。つまり、最前線で命を危険にさらしているということだ。もしもキサラ姫が彼に好意を抱いているなら、このことを思うだけで不安に駆られるに違いない。だから、タカス・ルイに関する話題の一切を御法度にしたというのに。

──ああ、やはり、あの青年では駄目だ。

 バンの人物評を疑うわけではない。しかしいかに見どころのある貴公子でも、こんなふうにハラハラさせる男は、キサラ姫には向かない。少なくとも、今の彼女には。

 トアサはため息をついた。これ以上は、腰元たちを問い詰めたところで無意味だろう。いずれ証拠の挙がるような咎でもなし、名乗り出る者がいないなら犯人探しはあきらめて、取り決めの念押しをして終わるよりほかにない。

 そう思って口を開きかけたとき、にわかに廊下からぱたぱたと足音が聞こえ、詰め所の扉が勢いよく開かれた。

「皆さま大変です! タカスさまがっ……」

 室内にいる全員が、同時に声の主を振り返る。おそらくその視線が一様に厳しかったためだろう、駆け入ってきた人影は立ち止まって身をすくませた。

 この春から奉公を始めたばかりの、腰元見習いの少女だった。年のころは十二、三。規則通りに切りそろえた前髪の下には、まだあどけなさを残る顔立ち。小柄でやせているので、お仕着せの装束が身に余っている。風呂敷包みを抱いた手は緊張にこわばり、見開いた目には戸惑いが浮かんでいた。

「あっ……申し訳ありません。今わたし、タカスさまって、つい口が滑って」

 少女は慌てて弁明しようとしたが、もちろん逆効果だった。

 居並ぶ腰元たちの誰もが同じことを思っているのを、無言のうちに感じとる。気立てはよいもののうっかりしたところのあるこの娘なら、鳥に禁句を聞かれてしまうという失態を犯しても不思議はない。いや、この娘ほど、犯人に者はいないのではないか。

 たとえ身に覚えがないと言っても、単に忘れているだけと決めつけてしまえば、反論などできはしないだろう。あとは、新入りの未熟者ゆえどうか寛大なお処置をと、皆でかばってやれば。お咎めがあったとて、おそらくそう苛烈なものにはなるまい。これが、事態を丸く収める最善の道──。

 いかにも大人じみた、嫌らしい、卑怯な考えだ。しかしその甘い匂いに、トアサはしばし惑った。惑いながらも、訳もわからずに立ち尽くしている娘へ、まずは「何か変事があったのですか」と尋ねることにした。

「あの……奥方さまのお使いで市街いちまちへ出ましたら、どこも噂で持ちきりでした。四関が、海の者の手に落ちたと……」

 女たちは息を飲み、誰も何も言わなかった。トアサはとっさに鳥籠を壁際へ遠ざけ、声をひそめて先を促した。

「ムカワ・カウン将軍が、お怪我を召されて。それで砦を明け渡して、後詰めの陣へ退いたのだとか」

「騎馬隊は? あのおかたはご無事なの?」

 若い腰元の一人が耐えかねたように問う。

「それが……そこまではわからなくて……」

「あなた、入ってくるとき、お名を叫んでいたではないの」

「ごめんなさい。でも、四関が破られたということは、あのおかたも危ない目に遭っているに違いないと思って、つい動転してしまって」

 と見習いの少女は答えたが、事はタカス一人の問題ではない。山峡国やまかいのくにの存亡の危機だ。国境と都とは別世界だとでも思っているのか、未だ戦を知らない娘たちはまるで他人事のように家族でも恋人でもない男の心配をする。

 一方、トアサの脳裏には、闇の広野を埋め尽くすおびただしい灯火の波が浮かんでいた。三年前、屋根裏部屋の小窓から見下ろしたその景色。美しくも絶望的な眺めだった。

 後に聞いたところでは、山峡国王の崩御に対する美浜国みはまのくにの追悼儀礼だったという。しかし、もしもあれが夜襲であったなら。間違いなく、朝を待たずに国境は破られていた。もちろん自分の身も、無事では済まなかったろう。

 キサラ姫も覚えているはずだ。隠し扉から飛びこんできたバンに顔を出すなと言われるまで、凍りついたように窓辺に立ち尽くし、迫りくる脅威を目の当たりにしていたのだ。いかに心を閉ざしていても、無表情のままでも、あの光景は言い知れぬ恐怖と共に記憶に焼きついているに相違ない。

「わたくしたちは今までにも増して、言葉に慎重を期さねばなりませぬ。特に姫さまの御前と、あの鳥の前では」

 断固とした声で告げると、トアサは壁際の鳥籠のそばへ歩み寄る。それから、見習いの娘を呼んだ。他の腰元たちは、息を詰めて様子を見守っている。

「あのおかたのお名をこの鳥に聞かせたのは、あなたですか」

「えっ……?」

 アラ、イヤダ。鳥は場違いな合いの手を入れる。

「しゃべったんですか、この鳥が、タカ……あのおかたのお名前を」

「心当たりがあるのですね」

「ええ、まあ。あ、いえ、聞かせたのはわたしではありませんけれど」

 要領を得ない返事に、トアサも他の女たちもうろたえる。

「と申すからには、あなた、誰の仕業か知っているのですか?」

「申し訳ありません、その、すっかりご報告しそびれてしまって……」

 大人たちの小ずるい思惑など考えてもみない様子で、純朴な少女は慌ただしく何度も頭を下げた。


 オヤス。オヤスミナ、サイマッ。

 鳥がまた新しい言葉を覚えかけている。最初の一言二言を話し始めるまでは長かったが、近ごろは要領を得た様子で、着々と語彙を増やしていた。

「おやすみなさいませ」

 後追いのようでいくらか気まずく思いつつ、トアサは退出の礼をした。

 キサラ姫はいつものように、返事もしなければ頷きもしない。しかし長い睫毛の下の黒い瞳をこちらに向け、立ち去るまでじっと見ている。彼女なりに何とか反応を示そうとしている、その健気さがいじらしかった。

 彼女がまだ言葉を知らない赤子だった時分のことを、ふと思い出す。子どもの扱いに不慣れな若い腰元の覚束ない手つきを、じっと観察していたつぶらな瞳。何を言いたいのか、何をしてほしいのか、その眼差しから読み取るのは難しかったが、今となってはその苦労も懐かしい。……あのころに戻れたなら。

 埒のない願いを頭から振り払うと、トアサは自室の窓辺に寄り、帳の陰から外を見た。

 久しぶりに月が出ている。十三夜とあって、中庭は草木の見分けがつくほどに明るい。

 他の腰元たちは離れの寮に寝起きしているが、彼女だけは特別に、姫の寝所から中庭を挟んで斜向かいの位置に自室を与えられている。いざというときには、廊下を回り込むよりも早く、中庭を突っ切って姫のもとへ駆けつけられるようにという配慮だった。ほんの数年前までは、虫が入ってきたとか怖い夢を見たといった些細なことで幼い悲鳴が聞こえてきて、トアサは幾度となく寝間着のまま庭木の間を走り抜けたものだった。

 いつしか庭木が大きくなって、いくらか見通しは悪くなったが、今でも姫の部屋で何かしらの動きがあればすぐにわかる。といっても三年前に四関から帰ってきて以降は、いつ見てもひっそりと静まり返っているばかりなのだが……。

──もしも見間違いだったら申し訳ないし、どうしたらよいかと迷っているうちに、つい時が過ぎてしまって。

 そんな弁明を枕に、腰元見習いの娘はひと月ほど前の出来事をたどたどしく説明した。

 ある夜、仕事を終えて寮へ戻る時分になって、娘は例の鳥に餌をやったかどうか不安になった。数日前に注意を受けたばかりで、また同じ過ちを繰り返したとなれば、さすがに大目に見てはもらえないだろう。そう思って誰にも告げず、餌袋を懐に隠して、独り姫の部屋へ向かった。明かりの消えた室内へ足音を殺して忍び入ってみると、いつもの台の上に鳥籠がない。青くなって辺りを見回すと、中庭へ続く戸口が開いていて、露台に女の立ち姿があった。長い髪に白い衣、あたかも亡霊のようで思わず声をあげそうになったが、よく見ればそれは夜着をまとったキサラ姫だった。

 そのとき姫は胸に鳥籠を抱いて、何事か話しかけているようだった。娘はそう言うのである。

──お声までは聞き取れませんでしたけれど、でも今から振り返ると、あの唇の動き。タカスさま、とおっしゃっていたような気がします……。

 何とも覚束ない証言ではあった。保身のための嘘ではないかとも疑った。しかしいずれにせよ、この少女を人柱に仕立てようなどという気はすっかり失せてしまったのだった。

 あれから毎夜、こうして中庭の暗がりを眺めている。その先で月明かりを浴びている露台を、見るともなく視界に入れている。監視するつもりはない。ただ、何もなかったかのように鳥籠を部屋に戻すことにした己の判断が正しかったのかどうかが気になって、とても眠る気になどなれないのだ。

 寝不足の腫れぼったい目を手の甲でこすり、トアサは窓枠に顔を貼りつけた。

 呼吸を忘れて、露台の上に立ち現れた人影に見入る。真っ白な夜着の裾を緩やかになびかせた、華奢な輪郭。長い髪が月光を照り返し、亡霊どころか精霊のような妖しさを帯びている。

 胸に抱えたものを、おそらくは鳥籠をのぞきこむように顔が伏せられていて、表情は見えない。どんなに目を凝らしても、唇が動いているかどうかはわからなかった。

 だがそのとき、トアサは確かに聞いた。声、を。

「タカスサマ」

 姫の声では、ない。甲高く、薄っぺらく、真情を伴わない真似事の空言。それでも。

「ゴ ブ ジ デ……」

 その声が夜空へ昇っていくのを見送るかように、人影が面を上げた。白い頬も黒い瞳も、まるで濡れたように輝いている。

 初めて見る顔だ。

 トアサは思わず吐息を漏らした。憐れむべき罪人の妻でも、無邪気で臆病な令嬢でも、ましてや言葉を覚える前の赤子でもない。宵闇の中に独り立つキサラ姫の姿は、まるで気高い女神のようだった。

 震える手で帳を下ろし、窓に背を向ける。あまりの情けなさに叫びだしそうになるのを、口を塞いで必死にこらえた。

 彼女のことはすべて知っている気になって、過去に戻ったほうが幸せだなどと決めつけて、実際は何もわかっていなかったのだ。

 壁際の鏡台に映った像に、ふと目が留まる。ひどいありさまだった。こんな顔は、とても他人には見せられない。何日もまともに眠れていない中年女が、薄闇の中でくしゃくしゃに泣き崩れ、しかも満面の笑みを浮かべているだなんて。

 袖で顔を拭いながら鏡台に歩み寄り、鍵つきの引き出しをそっと開ける。片隅にうずくまっている、藤色の小さな巾着。無精髭に団子の甘だれをつけた男が頑として受け取らなかったものが、行き場もなくそのまましまわれていた。

「やはりあなたには、しかとお礼をすべきでした」

 独りつぶやくと、再び顔を上げ、自らの鏡像を間近にのぞきこむ。その眉間へ指先を当ててそっと撫でると、気のせいだろうか、皺がいくらか薄まったように思えた。



- 「腰元頭は心配症」おわり -

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紅鷹の伝記 [番外篇] 二条千河 @nijocenka

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