腰元頭は心配性[前]

 愛想の悪い店主があごをしゃくって指し示した方向へ、女は足を踏み出した。狭い通路の両側からせり出した食卓の角と、むせ返るような酒の匂い。喧噪の渦をすり抜けるようにして、奥の壁際を目指す。

「よう、だったらこういうのはどうだ。おめえらみんなと俺とで飲み比べをして、一人でも俺に勝ったら、めいめいに倍ずつ払ってやるよ。そん代わり、俺が勝てばツケは帳消し。悪い話じゃねえだろう」

 割れ鐘のような男の声が、人いきれの向こうから聞こえてきた。すぐに周りから、幾人もの怒号が応じる。ふざけるな、酒でおまえに勝てるわけないだろ。そもそも、倍ずつ払う当てなんかないくせに。よそのことはいいから、とにかくうちの分だけでも返せ。

「ちぇっ、聞き分けのねえ奴ばっかだぜ」

「おまえが言うな!」

 幾人もの借金取りたち──中には野次馬も交じっているのだろうが──の背中に隠れて、壁際に座っているはずの男の姿は見えない。ただ、悪びれもせずに酒をあおりながら、のらりくらりと追及をかわす受け答えだけが聞こえてくる。

 ついに取り立て屋の一人が業を煮やして、「払う気がないなら、役人を呼んでくるぞ」と脅した。すると、杯を卓にたたきつけるような鈍い音がして、不意に店内が静まり返った。

 箱椅子が床を擦る。人だかりの向こうに、色黒の髭面がずいとせり上がってきた。人並み外れた巨体、袖無しの単衣ひとえから突き出た腕の太さ。ただ立つだけで、周囲を威圧する迫力がある。取り囲んでいた者たちが、気圧されたように一歩ずつ、後ずさった。

「しかたねえな。払やあいいんだろ」

 しかし大男は、存外に軽い口調で、そううそぶいた。

「しばらく待ってな。ちょっくら行って、ひと稼ぎしてくっからよ」

「い、行くって、どこへ」

「オヤカタんとこだよ」

 答えながら、もう歩きだしている。取り囲む者たちを軽々と押しのけ、帳場にいる店主に「おめえもな」と言い捨てて、代金を払わずにさっさと外へ出ていった。見た目によらず機敏なその動きを、残された者たちは口を開けて見送るばかりだ。

 ただ一人、ついさっき入店したばかりの女だけが、急いで後を追う。暖簾をくぐって、明るい日差しの照りつける通りへ出ると、遠ざかっていく大きな背中へ声をかけた。

「もし。……もし」

 相手は気に留める様子もなく、ぼさぼさの頭を揺らしながら大股に進んでいく。小走りに追いかけても、距離は離れていく一方だ。女は半ば叫ぶようにして、うろ覚えの名を投げかける。

「バン」

 男はようやく立ち止まり、訝しそうに振り返る。そしてすぐに、息を切らせて後ろをついてくる女に気づき、団栗眼を見開いた。

「あんたかい。今、俺を呼んだのは」

「ええ、あの……。お名前、バン、で合っていたかしら」

 女は呼吸を整えながら答え、尋ね、さらに言葉を続ける。

「きっとあなたは覚えておられぬでしょうけれど、前に一度、会ったことがあります。実は少し、訊きたいことがあって」

 バンは女の顔を、次いで身なりを無遠慮に眺めまわした。

 普段よりも化粧を控え、地味な色の袴を穿いてきた。日除けを装って頭から薄布をかぶり、上半身をすっぽり覆い隠している。それでもやはり、白昼の飲み屋街に出入りするには似つかわしくない身の上であることは透けて見えるようだ。相手はあきれたような口ぶりで、

「わざわざ、俺を探しに来たってのかい。こんな小汚えとこまで」

「あまり時間は取らせませぬゆえ、少しお話を。もちろん、無料ただとは申しませぬ」

「へえ。ちょいと話するだけで金くれるって、そりゃあ気前のいいこった。けど、俺ァ別に、金にゃ困ってねえんだ」

 さっきまで取り立て屋に囲まれていた男がこんな嘘をつくのは、つまり話に応じる気などないということか。予想できないことではなかったが、女は落胆した。

 力ずくで従わせることのできる相手でもなし、金で動かないとなれば、あとは泣き落としぐらいしか思いつく手はない。それもうら若い娘のころなら多少の自信もあったが、もうすぐ四十に手が届こうとする今、はたして効き目があるかどうか。

 しかし、他に方法がないなら……。女が自尊心と羞恥心に蓋をしようと覚悟を決めたとき、

「代わりっちゃあナンだけど、どっかで一杯おごってくれや」

 バンはそう言いながら、体の向きを変えて再び歩きだそうとする。女が呆気にとられて立ちすくんでいると、何歩か先でまた振り返り、

「どうせ、往来の真ん中でするような話でもねえんだろ」

 むさ苦しい無精髭の頬が、にやりと笑みを含んだ。


 初めてこの顔を目にしたときの印象は、端的に言って、最悪だった。山峡やまかい美浜みはまの国境にある砦・四関しのせきの隠し部屋へ、前触れもなく踏みこんできた荒くれ者の大男。主人であるキサラ姫を守るため、女はもう一人の腰元とともに持ち慣れない矛を振りかざして立ち向かったが、とても歯が立たなかった。

 幸いにして、この男は姫を襲いに来たのではなかった。それどころか、灯りを消せだの窓を閉めろだの、隠し扉に板を打ちつけろだのと妙に細やかな指図を矢継ぎ早に出して、突風のように去っていったのだ。おかげで彼女たちは、砦を占領した賊輩に見つかることなく、都からの救援が来るまで無事に隠れおおせることができた。

「腰元頭のトアサと申します。姫さまがお生まれになったときから、ずっとおそばに仕えてまいりました」

 女は声を低めて名乗った。

「三年前のこと、改めて礼を申します。あのときは、しかとお伝えできずじまいでしたから」

「いいよ、そういうのは。今さらだろ」

 バンは事も無げに言い放ち、のどを鳴らして椀の中の茶を飲み干す。顔を覚えられていたのだな、とトアサは相手の反応を見て思った。

 二人の間にある卓の上には四角い皿が一枚、その上に甘辛いたれをたっぷりとかけた芋団子が山積みになっている。傍らに小さめの甕が置かれて、中には半分ほど、おかわり用の冷茶が残っていた。トアサは添えられた柄杓で茶を汲み、空になった相手の椀に注いでやった。

「一杯おごれと言うから、居酒屋にでも行くのかと思いました。まさか茶屋とは」

「何でえ、あんた飲みたかったのか?」

「いいえ。わたくしには、こちらのほうが気が休まりますけれど」

「だったら、文句はねえじゃねえか。俺だって気が向きゃ甘いもんも食うし、茶だって飲むさ」

 口の周りをたれで汚しながら芋団子にかぶりつく様子は、まるで大きな子どものようで微笑ましくもある。しかし甘味を目当てにやってくる若い娘たちや親子連れが大半の店内に、酒の匂いを漂わせた髭面の大男は不似合いだった。二人が陣取った窓際の席の周辺に、他の客は寄りつこうとしない。結果的に、話をするには好都合だった。

「手短に訊きます。タカス・ルイというおかたについて、詳しく知りたいのです」

「あん? 誰だって?」

西陵にしのお城の騎馬隊長の、タカスさまですよ。あなた、三年前のあのとき、わたくしたちのところへお連れしたでしょう」

「ああ、あの二枚目か。騎馬隊ねえ、そう言やあ確かに、いい馬に乗ってやがったな」

 バンは指先についた団子のたれを舐め取ると、また冷茶をぐびくびと飲んだ。

「だけど、何だってそんなこと、俺なんかに訊くんだよ」

「あなたなら、はばかりのないところを聞かせてくれると思って」

「そりゃあはばかりもねえが、話すことだって別にありゃしねえよ。俺だって、後にも先にも、あんときに会ったっきりなんだから」

 トアサは失望して、自分の椀に目を落とした。茶色い水面に、年増女の冴えない表情が映る。

「あんたらがこっちに戻るとき、あいつ付き添ったんだろ。そんときは、どんなだったんだよ」

「それは、とても紳士的で、ご立派なお振る舞いようでしたけれど……」

「だったら、それでいいじゃねえか」

「でも巷の噂では、随分と女癖がお悪くて、あちこちで浮き名を流しているとか」

「はあん。まあ、あの面相じゃなあ、浮き名の一つや二つ……」

「困るのです、それでは」

「何でだよ。まさかあんた、あの若いのを囲おうなんて肚じゃねえだろうな」

「まさか!」

「だよなぁ。じゃあ、あれか、姫さんのほうか」

 はっとして顔を上げ、すぐにしまったと思った。キサラは良家の姫、しかも人妻だ。夫のシュトクは三年前に大逆を犯して幽閉され、ずっと顔も合わせていないが、まだ離縁が成立したわけではない。今の段階で他の男との艶聞など、あってはならないのだ。

 とんでもない、と言いかけて、わずかの逡巡の後にトアサは深く頭を下げた。

「後生ですから、どうかこのことは、あなたの胸だけに留めておいてください」

 このがらっぱちな無頼漢に、嘘をつく気にはなれなかった。そもそも、ごまかしのない男だと見こんだから訪ねてきたのに、こちら側だけ手の内を隠したままというのは虫がよすぎる。

「留めてなんかおけるかよ。すぐに忘れちまうさ、どうせ俺にゃ関わりねえこった」

 バンは鼻を鳴らしてそう言うと、「食えよ」と芋団子の積まれた皿をぞんざいに押して寄越した。

 はたしてタカス・ルイは、キサラ姫にふさわしい男なのかどうか──。もしも噂に聞くような放蕩者なのだとしたら、何とかして主人から遠ざけなければならない。重大な使命を帯びたトアサののどには、とても団子など通りそうもなかった。

 寒々しい屋根裏部屋に身を隠していた薄幸の美女を若く精悍な貴公子が迎えに来た、あれは確かに芝居の一幕のような救出劇だった。夫との悪縁に苦しめられてきた姫君が、美形の救世主に──助けに来たのはバンのほうが先だが、それはさておき──心を寄せたとしても、当然の成り行きだろう。都の実家に戻ってからも相変わらず声を発することなく、何一つ意思表示をしないキサラ姫だが、子どものときから間近で世話をしてきたトアサは気づいている。西の方角から時折届けられるタカスからの便りは、灰色の毎日を送る姫にとって唯一の彩りとなっているのだと。

 返事を書くわけではない、自分から進んで開こうともしない。ただ「タカスさまからでございます」と手紙を差し出したときだけ、無表情のままの頬にごくほのかな血の気が通う。トアサが代わりに便箋を開いて書き送られた文面を読み上げる間、あらぬ方向を見ていても、呼吸を止めて耳をそばだてている気配がある。

 男のほうは、どういうつもりで便りなど送ってくるのだろう。中身は季節の挨拶と近況の報告と、あとは体調を気遣う程度の短いものばかり。そのうちに浮ついた口説き文句でも書いて寄越すのではないかと警戒していたのだが、三年を経ても至って紳士的だ。しかし。

「見目のよい殿方は、信用できませぬ」

 独り言のようにつぶやいた言葉は、卓の向こうの男には届いていないようだった。

 一の若君と呼ばれていたころのシュトクも、祝言を挙げたときの花婿姿はまさに麗しの貴公子だった。祭殿まつりどので初めて夫となる男と対面したときの、キサラ姫の赤く染まった頬と潤んだ瞳を忘れられない。まだ少女といっていい年ごろの令嬢にとっては、ほとんど初めての恋愛──その美しい幻想が、悪夢のような結婚生活の幕開けだったとは、思い返すだに痛ましい。

 結局、男は容姿よりも甲斐性なのだ、とトアサは思う。数年前に流行病で他界した夫は、あばた顔で体格にも恵まれなかったものの、気っ風のよい働き者で誰からも慕われていた。「素敵な旦那さまね」と人に言われるたび、お世辞とは思いつつ内心では誇らしく感じていたのを覚えている。

 そもそも中身のある男というのは、身なりさえきちんと整えてやれば、生来の顔立ちはどうあれ、それなりに見栄えがするようになるものだ。そう、たとえば目の前で卑しく団子の串を噛んでいるやくざ者も、みすぼらしい袖無しの代わりに鎧帷子でも着せて、汚らしい髭を剃って、ぼさぼさの髪をさっぱりと刈り上げてやったら。きっと、見違えるような偉丈夫に変身するのではないだろうか?

「何でえ、ひとの顔をじろじろ見やがって」

「いえ……。団子のたれが、髭についていますよ」

 手ぬぐいを差し出したがバンは受け取らず、自らの手の甲で口の周りをこすった。

「あの色男がどんだけ女泣かせなのか、俺ァ知らねえ。けど、あれは、そうつまんねえ男じゃねえと思うぜ」

「何ゆえ、そう言えるのです」

「オヤカタが、あいつを買ってるみてえだからよ」

「親方?」

 そう言えば、先の居酒屋でも、親方のもとへ稼ぎに行くというようなことをうそぶいていた。どうやら、ただの逃げ口上ではなく、本当に仕事をもらう当てがあるようだ。

 聞けば彼の親方なる人物は今、会おうにも会えないところに籠もっているのだという。しかしもうそろそろ出てきそうな頃合いなので、訪ねていけばまとまった収入にありつける。だから金に困っているわけではないのだと、そういう理屈なのだった。

 借金取りがこれを聞いて納得するとは、とても思えない。トアサは藤色の小さな巾着を懐から取り出し、ささやかな謝礼だと言って渡そうとした。が、バンは鼻を鳴らして横を向き、要らねえと言い張った。

「邪魔になるものでもありますまいに」

 口止め料のつもりもあるので、トアサは食い下がった。

「お茶とお団子だけでは、わたくしの気が済みませぬ」

「そっちの気なんて知らねえよ。あんたみてえな女に金を恵んでもらうの、こっちが嫌なんだ」

「どういう意味です。わたくしみたいな女、とは」

「似てんだよ、ちょっと……」

 バンは空になった甕の中をのぞき込みながら、少し口ごもる。それから気まずさをごまかすように「まあ、アレだな」と椀を置き、おもむろに立ち上がって、

「ああだこうだ難しく考えるのは勝手だけど、あんまし眉間に皺寄せてばっかいるもんじゃねえぜ。老けて見えらァ」

「何ですって」

「ご馳走っそさん。これっきりな」

 無礼を咎めようとするトアサを遮るように言い捨てると、男はもはや振り返りもせず、大股に茶屋を出ていった。

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